分断、闇討ち、各個撃破。決して正面から戦うなと灰村禎一郎は自分に言い聞かせる。幼いころから周囲にトラブルが絶えず、喧嘩慣れはしているつもりだった。だが相手にしたのはナイフがせいぜい。そもそも殴り合いは好きではなかった。痛いからだ。

 戦って勝てると思うな、とパルクールを教わった師匠から言われたことがあった。そしてその言葉はこう続く。

 でも這い上がることを絶対にやめるな、と。

 あいつは震災避難者だ、という噂が流れたのは、東京に引っ越し、中学に上がってすぐのことだった。どこから漏れたのかはわからないが、時間の問題だった。一緒に暮らしているのは親ではなく、名字も違う。公立中だったため同じ小学校出身者が多い中、誰にも知己のいない禎一郎は初めから浮いていた。

 唯一気安く話せた相手が、隣戸に住む一年先輩の藤下稜だった。最初、同級生だと勘違いして敬語もなしに話しかけ、以来ずっと、稜に敬語を使ったことがなかった。年齢、性別、趣味、生い立ち、家庭環境、その他もろもろの違いを「知らねーよ」のひと言で流し、その実触れないでくれる優しさを持つ稜との時間は、禎一郎にとって癒やしであり息抜きであり、自分を飾らずにいられる唯一の時間だった。

 学年の差も構わず、学校でも稜の教室へ足繁く通った。今にして思えば、無闇に目立つ愚かな行動だった。

 調子に乗った一年がいる。同じ学校出身のやつはひとりもいない。どうやら最近引っ越してきたらしい。出身は福島で、避難民。知れ渡るのにさほど時間はかからなかった。気づけば禎一郎は教室で孤立していた。行事の予定が禎一郎にだけ伝わらない。授業の配布資料がなぜか禎一郎を避けて配布される。そんな流れを作った二年の男子生徒があろうことか小学生からの稜の好きな人で、彼女の告白をその男子生徒が嘲笑って言い触らしたことをきっかけに、禎一郎は二年生を相手に大喧嘩をする。

 保護者を交えた三者面談になるが、禎一郎は沈黙を貫く。帰路、心底禎一郎を心配する親類に、ひと言「ごめんなさい」とだけ告げる。

 閉塞感。小学生のころ、佐久間博史に救われた一件のようなことが繰り返された絶望。高校でも、大学でも、職場でも、ずっと過去がついて回るのだ、逃げられないのだ――そう感じた禎一郎は、夜の街をひたすら歩き回るようになる。そうすれば、自分を追い詰める形のないものから逃れられるような気がしたのだ。

 だがそんな放浪も長くは続かず、深夜、警察官に声をかけられる。即座に逃げ出す。だが、当時のは井村禎一郎はただの中学生。壁を越える術をまだ知らない。あっという間に息が上がり、追い詰められる。

 もしもその時、警官に追いつかれて補導されていれば、禎一郎の人生は異なっていた。パルクールを学ぶことも、同じアマチュアトレーサーやストリートアーティストらと交流を持つこともなく、そして東京の闇に潜むヴィジランテの片割れになることもなかった。

 だが運命は禎一郎を選んだ。行き止まりに追い詰められた禎一郎を背後から追い抜き、壁を蹴り上げながらのウォールアップで軽々と建物の上によじ登る男がいたのだ。後に彼が日本でも数少ないプロのトレーサーであることを知ったが、今も彼のことはただ『師匠』と呼んでいる。

 彼は手を差し伸べなかった。ただ手招きし、「早く来いよ」とだけ言った。禎一郎は見よう見まねで壁を蹴った。指先だけがやっと縁に届いた。無様なクライムアップだった。

 そして今――当時とは比べ物にならない滑らかなクライムアップで住宅の塀に登る禎一郎。黒いマントが形作る三角形のシルエットが塀の上をそろそろと進み、着地からPKロールで勢いを殺さず突き進む。

「その次のゴミ捨て場の裏だ」とインカムから羽原紅子の声。

「なんか、俺はこういう入口ばっかり引くような気がするんすけど……」

「気のせいだ」

 角を曲がると片瀬怜奈が偽装マンホールを開けて待機している。目礼だけして地下へ。

 支給されたスマートフォンで敵勢力の位置を確認。上げていた小型の暗視スコープを下ろす。

 地下を伝うより遥かに早い――憂井道哉のアドバイスが見事的中。

 水滴が落ちる音がどこからか聞こえる。腰に固定していた武器を構え、中腰で前進。網の目にように走る地下通路の側道にあたる道であり、高速道路の地下に敷設された地下道とは比べ物にならないほど狭い。大人がすれ違うのがやっとだった。

 T字路に出る。角に背を預けて待機――三〇秒と経たずに曲がり角の向こうから手持ち照明らしき明かりが差し込む。地上のチームから共有される敵勢力の位置はあくまで推測であり、最後は自分自身の勘が頼りだ。五歩後退。深呼吸三度。

 暗視スコープを上げ、走り出す。

 三歩で加速。四歩目で壁を蹴る。五歩目で反対側の壁を蹴る。一瞬で天井すれすれの高さまで舞い上がるブギーマン・ザ・タンブラー――空中で前転しながらT字路の交差点に上空から飛び込む。

 ちょうど先頭のひとりがT字路へ到達したところ。内心で舌打ち。早すぎた。

 先頭の男が発砲。その頭上を越えて、四人ひと組の中心に着地するザ・タンブラー。左手の警棒が先頭の男の脇腹を打つも、浅い。ほぼ同時に突き入れた右手の警棒の先端は別の男の太腿に運良く触れる。一〇〇万ボルトの電撃――耳元で手を叩いたような破裂音が反響する。

 崩折れる男。その身体をガードレールのようにレイジーヴォルトで越えつつ次の男へ蹴りを見舞う。これも浅い。

 最後尾のひとりが拳銃を構える。乏しい照明に銃口が光る。

 先頭だった男も体勢を整えている。やはり片手に拳銃。

 万事休す――だがその時、灰村禎一郎の目は、一本の直線を捉えていた。

 銃口の先。弾丸がこれから進むだろう軌跡。極限の集中が見せた幻なのか、本能が結ばせた像なのか。禎一郎はその線を跨ぐように身体を少し、傾ける。そして、最後尾の男をフード越しに睨む。

 目線が合う。その瞬間に決する。

 禎一郎は、敢えて射線に交差するように動いた。だがその反対側には、最初に脇腹を打った別の男がいた。禎一郎の目線は、警告となって拳銃を構えた男を刺した。即ち、撃てば仲間に当たるかもしれない。それでも撃つ度胸が、お前にあるか、と。

 引き金にかかった指の動きを、ほんの僅かに鈍らせるだけ。だが十分だった。

 警棒を投げる――発砲を躊躇った男の顔面に的中。

 蹴りで倒しきれなかった男がナイフを抜く。だがその時には黒い曲技師は男の上空――ひと回り長いリーチの電磁警棒が脳天を直撃する。

 倒れる動きに同期してフェイントをかけて突進。先頭だった男が拳銃を捨てる。一対一。

 先手を取った電磁警棒の突きが見切られる。逆にナイフの突き――禎一郎の右腕に鋭い痛み。

 構わずウォールラン気味に壁を蹴り、側転しながらの蹴り。躱されるも、はためいたマントが男の頬を打った。

 怯んだ隙に突き入れた警棒の先端が、男の下腹部を捉えた。スイッチを入れて通電。一度大きく震え、男はその場に倒れる。

 肩で息をする――憂井道哉のようにやれないことに腹が立つ。

 パルクールとは、決して調伏できない都市という魔物に負けずに渡り合う術だと師匠が言っていた。捻挫、打撲、打ち身、切り傷を無数につけながら、禎一郎は走り続けた。それが自分に生まれた時から課せられた宿命に負けずに渡り合う力になると信じて。

 だが都市という魔物に人が加わった時、果たして自分の力で渡り合うことができるのか。禎一郎には自身がなかった。

 足元に倒れた〈ファンタズマ〉。幻像の名を持つ少女たちの使い魔。

 右腕を血が滴り、落ちる。

 インカムから片瀬怜奈の落ち着き払った声が聴こえた。

「セカンド、大丈夫?」

「問題ありません」装飾の包帯を切って止血帯代わりに縛り、禎一郎は応じた。「あと、一五人」


「急げ! 船が出る!」

「騒ぐな、見えている」

「見てないだろ!」

 憂井道哉と羽原紅子の丁々発止――場所はコンテナの上。

 サスペンション任せに段差だらけのコンテナ上をステルスバイクが猛スピードで疾走する。事態に気づいた数人が次々に発砲するも、視認しづらい上方の移動目標を逆光の照明を浴びながら射撃して当たるはずがなかった。

 上空に滞空するドローンが一基。災害用回線を不正利用して遠隔制御するもバッテリ切れが間近。その一基を残して全て自爆攻撃に投入済みであり、最後の一基にも爆薬は搭載されていた。

 激しい銃声――コンテナ移送用の巨大な紅白のガントリークレーンの中腹に狙撃手。もはや位置を隠そうともしないフルオート連射だった。コンテナに弾着の火花が散る。

 既に動き始めている貨客船。遠くから警察車両のサイレン。

 入管方面から激しい銃声――囮となった〈ファンタズマ〉メンバーと駆けつけた警官隊の激しい銃撃戦。惨殺された警備員の映像がネットに出回る。

 ガントリークレーンの狙撃手が弾倉を交換する。だがもう遅い。

 コンテナの切れ目からバイクが跳躍。ジャッキアップしたクレーン車のアームに着地し、ウイリーでアームを伝って地上へ降りる。目前にボラードが点々と並ぶ岸壁、黒々と揺れる東京湾、そして離岸した〈黄金の太陽号〉。

 弾丸がフードを掠める。八方からの射撃に舌打ちしながらカバーを弾き、リミッター解除スイッチを押し込む。岸壁へ一気に加速。モーター音が一オクターブ甲高い音に変わる。

 岸壁すれすれまで加速し、フロントを持ち上げながら跳躍――右手の〈バグワーム〉を射出。船の外板に浅く突き刺さる。バイクを捨てて超小型超電導モータを始動し巻き上げるが、怪しい手応え。

 巻き上げ途中で先端が抜ける。

 咄嗟に銀杏形の登攀具をワイヤーの先端に結んだものを投擲。ロープフックに巻きつき、振り子運動で白い塗装の外板に着地する。

 直下、バイクの内部に仕込まれた薬品が高熱を発して基盤を焼き、プログラムの痕跡を破壊。さらに仕込まれた爆薬に起爆。

 爆散――フレームが破断しあらゆるパーツが爆発四散する。

「ささやか?」

」自信満々の紅子の応答――全く普段と同様。

 右腕から〈バグワーム〉を投棄。バッテリも全て投棄する。ドローンが接近し、懸架していた右腕用の滑刀鉄甲を受け取り装着。

 最後の補給だった。

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