世田谷の高級住宅地に建つマンション。二重扉のオートロックで教わった番号を押すと、聞き知っているものによく似ているが、少し違う声が聴こえた。

「憂井くんね。怜奈から聞いてるわ。どうぞ入って」

 自動扉が開き、道哉は恐る恐る足を踏み入れる。

 意を決し、片瀬怜奈に電話をかけた結果がこれだった。直接話したいというひと言とともに、自宅の住所が飛んできたのである。家族が在宅とは聞いていなかった。

 いやに複雑な廊下と階段を経て、表札の出ていない扉の前に立つ。呼び鈴を鳴らすと、すごい美人が現れた。

「こんにちは。どうぞ上がって。怜奈、部屋にいるみたいだから」頭の中が困惑に染まる道哉をあやすようにその女性は言った。「怜奈の母です。今後ともよろしく」

 サイドが長めの前下がりボブカットの黒髪。デニムに白いニットの飾らないが若々しい服装が、なんだか女性誌のピンナップから飛び出してきたかのようだった。この親にしてこの子あり、と静かな納得を覚えてしまった。

 自分でそれとわかるほどぎこちなく「お邪魔します」と応じて、道哉は縮こまって敷居をまたぐ。

 家族の靴が数足ずつ出ていても狭さを感じないほど面積がある石張りの玄関。来客用と思しきスリッパが置かれている。壁にはモザイクアートを更に大雑把にしたような何か前衛的な絵。一秒ごとに文化の違いを感じた。

「ええと……道哉くんだったかしら」

「はい。憂井道哉です。お嬢さんとは、学校で同級生で……いや、あの、クラスは違うんですけど」

「聞いてますよ、娘から」狼狽を見透かすような微笑み。「片瀬杏奈といいます。おばさんはやめてね。お義母さんは……ちょっと早いかしら」

「はあ……」

「意外と大柄なのねえ」

「はい?」思わず首を傾げる。

 こちらを置き去りにする話し方。この親にしてこの子ありという諺を、道哉は再び思い出した。

「ほら、娘が最初に連れてくる男は、父親に似るって言うじゃない?」

「そうなんですか?」

「あの子、もうちょっと線が細い、文科系の、浮世離れした男の子が好みだと思ったんだけど」

「あああ……」嫌なキーワードの登場に頭を抱える。

「大柄ってほど背が高くもないのねえ」

「普通です。普通ですよ」

「ごめんなさいね。気になって」

 いえ、と頭を下げる道哉。片瀬杏奈。怜奈の母。娘を思う親とはこういうものなのだろうか、と想像を巡らせていると、思わぬ言葉が飛び出した。

「あの子、最近よく夜中まで帰ってこないものだから……心当たりあるでしょう?」

「それは」

「彼氏の家にいるって言ってて」

「それは……」思わず苦笑いになる。誤解を招きすぎる表現だった。

「夫が連れてこいって何度も言って、やっとなのよ」

「大変ご心配をおかけしました……」

 すると杏奈は、恐縮しきりの道哉に構わず急に立ち止まり、扉を叩いた。「怜奈? 憂井くん来てるわよ」

 数秒間があって、扉が開いた。首が据わっていないような変な姿勢で、怜奈が顔を出した。「遅い」

「ごめん」

 続いて怜奈は母親を睨む。「何、お母さん。化粧なんかしちゃって」

「そりゃあ大事なお客様だから……」

「入ってこないで。……ほら、道哉」

 腕を引かれ、室内へ入るやいなや扉が閉まる。「後でお茶持ってくからね」という母の言葉に、怜奈はわかったから、と扉越しに怒鳴って応じた。

「適当に座って」

 落ち着かず、おう、などと応じて道哉はローテーブルの脇に腰を下ろした。木目のテーブルの上には、見覚えのあるノートPCが開いたままで置かれていた。

 ベッドに座った怜奈はVネックの無地のTシャツにスウェットパンツの寛いだ服装だった。いつも隙がなく着飾った姿ばかり見ていたので新鮮だった。長い黒髪は低い位置でひとつにまとめて胸元に垂らしていた。

 しばしの気まずい沈黙があった。

「あの」と道哉は切り出す。「大丈夫?」

「大丈夫だけど」

「佐竹に話を聞いた。俺の秘密をバラすと言って脅したってあいつは証言した」

「もう終わったことでしょ」

「そうだな。終わったことだ」道哉は俯く。怜奈の顔をまともに見られなかった。「二度目だ」

「別に、今度だって、何されたわけでもないし」

「運がよかっただけだ。俺たちは運の助けが要らないくらい強くなったつもりだったけど、そうじゃなかった」

「でも……」

 怜奈が応じかけたとき、部屋のドアがノックされた。

 扉が開くと、盆を携えた杏奈が姿を見せた。「コーヒーでよかったかしら?」

「なんでもいいです、なんでも」道哉は慌てて腰を上げる。

 ソーサーに載ったコーヒーカップがふたつ。造りは薄く、模様がやけに凝っていた。曲がりなりにも視覚障害者がいる榑林の家には置かないタイプの食器だった。小さなかごに入ったガムシロップとポーションミルクが置かれた。ここでも一々、文化の違いを感じさせられる。

「怜奈。道哉くんに手伝わせてないで、ほら」

「うるさい」怜奈はベッドに倒れ込んで背を向ける。

「あーもう、この子、家のこととか全然手伝わないの。小さいときからずーっとこんな調子で……」

 身を起こす怜奈。「それはいいでしょ」

「よくない。ほら、道哉くん呆れてるよ。家庭的なところ見せといたら?」

「勝手に道哉の気持ちを代弁しないで」

「じゃあ道哉くん、自分の部屋の片付け以外家事一切壊滅的にできない女の子ってどう思う?」

「えっと……」

 とうとう怜奈がベッドの上から降りた。「もういいから! 出てって!」

 母の威厳なく押し出されていく杏奈。扉を閉じ、ようやく母を追い出した怜奈は、大袈裟なため息をついて道哉の隣に座り、コーヒーカップを取った。

「ごめんね。あんな母で」

「よく似てるね」

「んなっ、どこが」

「どことなく」

「いや、似てないし」

「すごく似てると思うけど」

「だからどこが。具体的に言ってよ」

「どこってわけじゃないけど……」

「なんなのもう。呼ぶんじゃなかった」怜奈は背を向ける。

 ぶつぶつと、不愉快そうな独り言を続ける怜奈から目を逸らし、いやに片付いた、白と木目で統一された部屋を見回す。本や雑誌の背丈が揃った本棚。英語の格言のようなものが書かれた女優か何かのポスター。色味でまとまったハンガーラックの洋服。自分の部屋の片付けが得意なのは本当らしかった。

 だが、飾り棚には妙な雑貨が並んでいる。建造物のミニチュアやパズルのようなもの、何を意味しているのかわからない手のひら大のオブジェのようなもの。人が不可解なら部屋も不可解なのだと改めて感じ入ってしまう。

 クッションの上で膝を抱えた怜奈に、道哉は言った。

「話戻すけど」

「何」

「頼ってよ、俺のこと。君のことを守る、とかは言えないけど」

「言え、馬鹿」

「嘘になる」

「嘘でいいから」

「言い訳があれば頼れる?」

「もう、わかんない。あんたあたしの何を見てる? ねえ、何見て頼れって言ってるの? 何、そんな、急にあたしのこと女扱いしないでよ。そんなことされたって困る」顔を膝に埋めて彼女は続けた。「あたし今、見られたくない顔してる」

「時々顔がなくなる俺から言わせてもらえば……人間、顔が幾つかあったっていい」

 数秒沈黙してから怜奈は応じた。「じゃあ今だけ」

「見えない。顔上げてよ」

「やだ」

「えー……」

 怜奈は急に顔を上げた。解けかけた髪が表情を隠していた。「あたし、けじめをつけたい」

「けじめ?」

「そう。道哉、手伝って」

「いいけど……」

「それと」

 それと、と鸚鵡返しに応じる。急に話が飛ぶ、いつもの怜奈の話し方。少し調子が戻ってきたのかもしれない、と胸を撫で下ろしていると、また、彼女は膝に顔を埋めてしまう。

 怜奈はやっと聞こえるくらいの小声で言った。

「たぶん、もうすぐお母さん出かけるから」


 憂井邸地下空洞、尋問室。手錠と鎖で椅子に縛りつけるように拘束された佐竹純次に目隠しをし、道哉は向かい合って立つ。

「なあ、トイレ行かせてくれよ」と佐竹が言った。

 尋問室の隣にはいつ作られたのかわからない和式便所があった。拘禁から三日。食事もトイレも必ず道哉が同席、同行した。相手が佐竹である以上油断はできないという道哉自身の提案であり、羽原紅子もまた同様の扱いを要求した。

 甘やかす理由はなかった。

 無視して、道哉は言った。

「佐竹。帰る場所がないってのは、どういう気分なんだ」

「何言ってんだ、お前」

「答えろよ」

「同胞との繋がりを大事にする。帰る場所という寄る辺がないからだ」

「同胞から見放されているなら?」

「自分に似た部分を持つ人間に執着する。俺なら……たとえば、両親がいないやつ、とかな」

 佐竹の唇が笑みに歪んでいる。

 中身のない冗談なのか、本気で言っているのか判別がつかない。仮に目隠しを取ったとしても、感情の現れない瞳からは何も読み取ることができないだろう。だがきっと、蛇の眼は今、道哉だけを見つめているに違いなかった。

 それは俺のことなのか、ブギーマンに制裁されてからお前は何を思ったのか――ぶつけたい無数の質問を押し殺し、道哉は言った。

「今日は俺以外にもうひとりいる」

「知ってる。音でわかる」

「他の四感で補おうとするな」

「もうひとりってのは?」

 するとそのもうひとりが、道哉の後ろから歩み出る。間髪入れずに上段の蹴り――椅子に座った佐竹の側頭部をまともに捉え、佐竹は椅子ごと床に倒れる。

「くそっ、またブーツで蹴りやがって……もしかして片瀬か?」

「許したつもりはないから」と片瀬怜奈は冷たい声で言った。「道哉、手錠とか外していいよ」

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