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「十分だ」と地下室の羽原紅子は言った。「憂井よ。そもそもあの地下通路はなんのために作られたと思う」さっぱりわからん、と道哉が応じると、紅子は更に調子づいて続ける。「事の起こりは一九四〇年台。本土決戦や東京での地上戦が展開された場合に備えて、当時の軍部は天皇陛下にお逃げいただくための地下通路を整備したのさ。だが結局、敗戦までに活躍することはなく、使い道のない隧道と設計図だけが残った。こいつが、一九六四年のオリンピックの際に再発見されたんだ。憂井宗達によってな」
「筋金入りのアカだったって聞いたぜ」
「まあ、その通りだな。彼は象徴天皇制にも反対していた。宮内庁廃止論者でもあった。その中でも最も過激な。即ち、この
「じゃあ、〈ファンタズマ〉もそのために?」
「かもしれない。だが、連中は目的をこの国への復讐とぶち上げている」
「日本国の象徴だろ? もし暗殺されたら……」
「復讐に十分か? 私はそうは思わないな。宮家はいくらでもいる。代わりが利くのさ。殺すにあたってコスパが悪い。だがそうでないものがある。三種の神器だ。これも、他でもない憂井宗達が指摘していることだ。我が国が本当に守らなければならないものは宮家でも天皇でもない、三種の神器であるとな」
「根拠は。〈ファンタズマ〉がそんな、実のないものを狙うか?」
「そこだ。私も大いに悩んだ。悩んだがな……」紅子はやや声を抑えて続ける。「思えばこの事件、始まりは名古屋の郊外だった。〈神の水滴〉はなぜあの地に拠点を築いたのか。確かに名古屋港の密入国対策は東京に比べ手薄だ。だがそれだけじゃない。〈神の水滴〉の狙いは、熱田神宮……に奉斎されている、草薙剣および、伊勢神宮の八咫の鏡たったと考えることはできないだろうか?」
「熱田神宮と伊勢神宮って……愛知と三重だろ。かなり距離ないか」
「直線距離なら七五キロだ」
「移動するのか? 七五キロを。それとも同時に攻める?」
「私なら無人機でやるがな。ステルス性のないドローンなら、航続距離一〇〇キロのものもぞろぞろある。一箇所の拠点から二箇所の目標へ、集められる限りのドローンを集めて一斉に飛ばす。肝要なのは数だ。現在の対ドローン警備は悪意のある個人を仮想敵にしている。数で展開するドローンに対しては、無防備と言っていい」
「じゃあ、今も〈ファンタズマ〉の拠点は名古屋にあるのか?」
「やつらがこうも頻繁に東京に出没すること、やつらの目的である我々が東京を活動拠点にしていることから、それはない」
「俺らが目的なのか? その三種の神器なのか?」
「我々を抑え、〈I文書〉を手に入れた上で、三種の神器を破壊する完璧な手段を算出して実行するつもりだったんだろう。だが……」
「だが?」
「憂井よ。例の地下通路についてだがな。〈スペクター・ツインズ〉の黒……
「考えすぎだ。遅いか早いかの差だろう」
「そう思っておくさ。……ところで、だ」紅子は眉間に皺を寄せ、指先でこめかみを叩く。「なぜその男が自由の身になっている」
室内には六人の人間がいた。まずはいつもの回転椅子に座って主人のような顔をした紅子。そしてテーブルの九〇度隣に座った道哉。珍しく重たそうな黒いブーツを履いた片瀬怜奈は棚に背を預け、煤けた白衣にゴーグルと安全靴でスチームパンクのような出で立ちの葛西翔平は落ち着かなそうに爪先で床を叩いている。灰村禎一郎は、電磁警棒を一本持ってストレッチに余念がない。その目線は鋭く、そして予断なく、六人目へと注がれていた。
佐竹純次だった。
「自由の身にして頂いたついでに、風呂に入りてえんだが?」
「後にしろ」と道哉。「どうせもう〈ファンタズマ〉には知れてるんだ。こいつを解放して何があるわけでもない」
「いや、警察にタレ込まれたらどうするの」と葛西。
「まったくだな。こいつの解放は我々の社会的死を意味する」と紅子。
「ボコしましょうよ。んで羽原さんからこいつのケータイにお前を見ているぞ的なメッセージ飛ばしてビビらせりゃいいんすよ」電磁警棒を素振りする禎一郎。
「こいつとやりあえばお前でも無事じゃ済まないよ、灰村」と道哉。言い、腕組みで立つ佐竹へ向き直る。「どうだ。話は聞いたろう。止められるのは俺たちだけだ。お前、どうする」
「邪魔をする気はねえよ。お前らが〈ファンタズマ〉を潰してくれなきゃ、俺だって夜道を歩けねえ」
「その後はどうする?」
「その後?」
「俺たちが〈ファンタズマ〉を潰した後だ」
「さあな」
「お前はもう、この街の一部なんだろう」
「道哉、ちょっと待って」黙っていた怜奈が口を挟んだ。「あんたまさか、こいつをチームに入れるつもり?」
「戦力は多いに越したことはない」
紅子が眉をひそめる。「腕っぷしが強いただの人だろうに」
「俺からダウンを取ったのは三人しかいない。榑林一真、ドバト男の筋肉の方、こいつだ」
「そこドバト男入るんだね……」苦笑する葛西。
「お前の仲間になるつもりはねえよ。でも」佐竹は細い目で道哉を睨んだ。「事が済むまで匿って欲しい」
「いいだろう。……皆は、どうだ?」一同を見回す道哉。
「道哉さんがそう言うなら」と禎一郎。
「人間、やり直すチャンスは与えられるべきだ。……納得とは別の話でね」と葛西。
「監視は絶やさないでよ」と怜奈。
「私の邪魔をするなら今すぐここへ首狩りを呼ぶぞ」と紅子。
佐竹は肩を竦めた。「信用がねえな」
「当たり前だろう……」
「話を戻すぞ」紅子はPCの画面を一同へ示す。「つい先程、入江幻を名乗る者から私へ直接、電子メールが飛んできた」
「いや、それ先に言えよ」
「私にも色々と都合があるんだ」紅子はそう言って、画面の文章を指でなぞる。「見ろ。事実上の、最後通告だな。明日〇時までに降伏し、〈I文書〉を渡さないならば、保有する全ての汚染土と汚染水を東京湾岸地域へ散布する、とある。警察を介入させても同じように放出するとのことだ」
「あー、それはまずいね」と葛西。「短期的には物流が死ぬし、長期的には東京港を通じて出荷されるありとあらゆるものに風評被害がつきまとうことになる。仮に豊洲市場もやられたら一般消費者にとっても他人事ではなくなる」
「ということは」と怜奈がやや熱っぽく言った。「彼らの拠点は東京湾へ即アクセスできる場所にある」
紅子は怜奈の応答の方に満足したようだった。「そういうことだ。さらに我々には地下通路の完全な地図がある。湾岸地域の数少ない出入口を当たった。監視カメラも全部攫わせた。連中も地下通路を使っているからな。私の方でもワーム型のロボットと生物擬態型を多数と、ステルスドローンを指揮管制用に……」
「羽原さん、手短に」と葛西が窘める。
「わかった。結論から言おう。やつらの拠点のひとつは東京湾に現在停泊中の貨客船だ。調べてみたが、停泊のサイクルと人攫いバスの出現サイクルが一致した。恐らく、やつらは船内に大量の汚染土と汚染水を積み込み、精製し、爆弾に加工していたんだ。今も調査中だが、まず間違いないだろう。都合ってのはこれだ。インスタントなニューラルネットで私のしもべたちが集めてきた画像や音声に解析をかけているところで……」
「ひとつは?」と禎一郎。もう素振りはやめていた。
「恐らく、〈ファンタズマ〉の拠点は船だけではない。都内の市街地にも拠点があると推測している。だが、場所がわからん。そして、恐らく船は生産拠点であると同時に、伊勢と熱田の攻撃という役割を担っている。つまり〈ファンタズマ〉は、地下を伝う皇居チームと伊勢・熱田チームのふた手に別れる可能性が濃厚ということだ。私なら皇居側で先手を打ってから混乱に乗じて伊勢・熱田を攻める」
「船からドローンを飛ばされる可能性は?」と怜奈。
「あるが、皇居は地下の部隊に任せるだろうな。ただでさえ、二ヶ所の拠点を数で攻めなければならないからな。無人機を三拠点に振り分けたら足りなくなる」
「見てきたように言うな」と道哉は口を挟んだ。
目線が交錯した。
羽原紅子の、斜に構えて世を嗤うようでいて、その実世の理不尽に誰よりも強く憤る、熱情を押し殺した冷たい目が、道哉を見た。
いつも、何を考えているのかわからない人だった。手段を選ばない冷徹さとこの世の正しさを信じる優しさが、ひとりの人間の中に同居しているのが、羽原紅子だった。共に戦っていても、冷たさと優しさのどちらが本当の彼女なのか見極められないでいた。
法によらない正義を行う上で何よりも尊ばれるべき、自分自身に課したルールを、眼前の目的のためなら容易く破るのが紅子だった。普通の人なら良心や常識、自尊心が邪魔をすることを、いとも簡単にやってみせるのが紅子だった。
彼女は道哉の拠点のひとつである榑林邸の離れに盗聴器を仕掛けたし、許可なく憂井邸地下を改造して秘密基地へと仕立て上げた。そもそも悪人を殴って制裁しようと考えたのは紅子であり、敵の恐怖を煽るためなら彼女は不正アクセス禁止法も航空法も破る。
〈ファンタズマ〉の手段と目的を見てきたように語る今の彼女は、一体何を破ったのか。
目線が合った瞬間、全てが伝わっていた。
憂井道哉と羽原紅子は最も互いを信用する共犯者だった。どちらも正しさのためなら手段は選ばなかった。これまでも、これからも。
道哉は深呼吸して言った。「船と、地下通路から皇居へ向かう部隊だな。作戦はお前に任せていいな、羽原」
「ああ、それでいい。それと、私はお前なんて名前じゃない」紅子はにやりと笑う。なぜか少し寂しげに。
地下室に集まったうち、彼女の瞳を過ぎった影に気づいたのはきっと、道哉だけだった。
「来い」溜息をつき、道哉は佐竹を手招きする。
「どこへ?」
「決まってるだろ。風呂だ。鼻が曲がる」
自宅に他人を招くことは滅多にない。その滅多にないことのひとりが、よりによって佐竹純次であることに頭が混乱する。その上佐竹は風呂に入っていて、道哉は脱衣所で妙な動きがないか監視している。全く妙な気分だった。道哉にとっての佐竹純次は、誰よりも家に上げたくないし、誰よりももてなしたくない男なのに。
嫌でも野崎祐介のことを思い出した。そして中学生の頃の自分たちのこと。人間関係というものを甘く見ていて、そう簡単に失われやしないだろうと高をくくっていた頃のこと。
人と人との繋がりは驚くほど簡単に失われて、そして二度と戻らない。中学生の頃、野崎とはよく世間話をしていたし、漫画の貸し借りもよくしていた。彼に勧められたアニメを観ることもあった。それでも高校に進学して、彼とはなんとなく疎遠になった。彼は寂しがっていたのだろうか。それとも、人と人の絆などそんなものだと、乾いた心で受け流していたのだろうか。
だが同時に、思わぬところに人間関係が生えてくることもある。中学生の頃は、まさか片瀬怜奈と互いに気と身体を許す関係になるとは思いもしなかった。昔から、何を考えているのかわからない女の子だったが、気安くはなかった。どういう意味なのかわからない言葉を投げかけられたり、彼女を中心に回る様々な出来事の外周に時々巻き込まれることはあっても、そこには絶対的な距離があった。彼女と言葉を交わすたび、これはいつか失われるタイプの人間関係だろう、と感じさせられてきたのだ。
そして佐竹純次。
「憂井さあ、お前、今学校って休みか?」とシャワー越しに佐竹が言った。
「休みだよ」
「学校始まったらどうすんだ」
「何を」
「ヒーロー活動だよ」
「変わらない」道哉は、曇りガラスに映る佐竹の影を睨んだ。「お前、復学とかはしないのか」
「高認は取ろうと思ってんぜ」
「更生する気はあるってことか」
「スヒョンに言われたんだよ。自分が更生させたみてえな顔すんじゃねえ」
「お前は何も変わっていない。今も昔も、見下げ果てたクソ野郎だ」
「そんな風に言うなよ。傷つくぜ」
「お前と関わった人はもっと深く傷ついている」
どう返してくるかと身構えながら浴室を睨むが、返事はなかった。代わりに、ややあってから佐竹は言った。
「お前、本当にその船ってのにひとりで乗り込むのか」
「そのつもりだ」
「死ぬぞ」
「そのつもりはない」
「へえ……」シャワーが止まり、戸が開いた。水滴を滴らせた佐竹が言った。「お前、なんで俺をお前らの一味に入れるなんて言いやがった」
「お前がいつでも何かに怒っているからだ。たとえばこの世の理不尽に」
「ふざけんな」詰め寄る佐竹――道哉の胸倉を掴む。「俺にも親がいないからお前の気持ちはわかる……とでも言いてえのか」
「君は、若くして人の冷たさや醜さを知った人特有の酷薄さに染まってもよかった……と、言われたことがある」
「何が言いてえんだよ」
「野崎を殺すのは俺かもしれなかった。一歩間違えば」
薄い眉をひそめる佐竹。「一歩ってのは?」
「同じクラスじゃなかった」道哉は、佐竹の手首を掴んで引き剥がした。「関わらなかった。多分、それだけだ」
野崎にとどめを刺したのは片瀬怜奈だったという動かしようのない事実。
もしも自分が怜奈の立場だったら、同じように野崎を突き放していたかもしれなかったのだ。
佐竹は、何の感情も読み取れない無表情だった。だがその蛇の目は道哉をじっと見ていた。獲物ではないものにどんな視線を向ければいいのか知らないような虚ろさが、一重の眦を塗り潰していた。
奪うようにタオルを取って、佐竹は言った。「俺は他人のために怒らねえ。お前とは違う」
「そうかな」
「お前、自分がいなくなった後のことを考えてんだろ。無理に俺を誘ったり、技を教えようとしたりよ」
「そのつもりはないと言ったぞ」
「どっちでもいいけどよ。せっかくだからひとつ、俺の推理を教えてやるよ」
「推理?」
「ああ。〈ファンタズマ〉のエンブレムの、白ハゲPの意味。知りてえだろ?」
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