〈ファンタズマ〉のメンバーと密会している写真。メールの送受信履歴。待ち合わせに使っていたバーで注文したカクテルの名前。通話記録。息子が通う塾の名前。妻が好むワインの銘柄。通いつめて連絡先を入手したホステスの名前。昨日失くしたボールペンの行方。愛人を連れて入ったラブホテルの名。そういったデータの数々を見知らぬアドレスから一気に送りつけられた家頭やがしらつかさは恐慌状態に陥っていた。

 そこへ一滴――油膜に界面活性剤を垂らすように、変声機を効かせた声で呼び出しをかければ、もう家頭は操られるがままの人形だった。

 当然つけられていた〈ファンタズマ〉の監視を道哉と禎一郎のふたりがかりで制圧する。家頭の誘導役は羽原紅子。家頭には変声機越しの声しか聞こえないにもかかわらず、おどろおどろしい声で彼女は言う。

「正面にスナックが見えるな? その奥の路地を右に入れ。……お前の先生の行きつけだろう?」

 家頭司は、まだ四〇にもなっていないにもかかわらず綺麗に禿げた頭を潔く丸坊主にした、やや肥満気味の小男だった。その小男があからさまに周りを気にしながら路地を折れる。場所は東京、五反田。ラブホテル街にほど近い小路だった。

 アスファルトには有象無象の廃棄物や吐瀉物の跡。周囲には比較的低層の雑居ビル群が建て替えられることなく林立する。表通りには飲食店が疎らに並びそれなりに活気があるが、一本入れば人気がなく、街灯も疎らで薄暗かった。

 スマートフォンを耳に押し当てたまま、家頭はその路地を進んでいく。夜の一〇時を回った時間。集合住宅からは灯りが漏れるも、事務所の類は営業終了。一歩進む度に、喧騒が遠く離れていく。街の隙間に生じたブラックホールのように、闇が濃くなっていく。

 物音に振り向くと、野良猫が一匹横切っていく。高鳴った鼓動を感じながら数歩前に進むと尖った音。ゴミ捨て場に爪先をぶつけ、空き瓶を蹴飛ばしていた。

 並ぶ空調の室外機から冷えた風が吹きつけ、家頭は身震いする。次々と送りつけられるデータと突然の電話のために、彼はコートを事務所に忘れて飛び出していたのだ。壁を這う配管を前に、彼は恐るべきものに忍び寄られている我が身を連想する。

 配管を追って、その目線が上を向く。

 室外機の排気音が共鳴し、巨大な獣が呼吸しているような周期音があたりに響く。

 何かが見下ろしていた。

 ビルの屋上。微かに蠢く黒い影。目を凝らすと、それは人の形をしているように見える。そして、影の中で、布のようなものが風に揺れている。

 何かが落ちてくる――落ち葉か何かのようにゆっくりと。

 風で少し流されながら、家頭の足元に落下する。

 黒い包帯の切れ端だった。

 それに目を奪われていた家頭は、腰の後ろに触られたような感触を覚える。飛ぶように振り返ると、そこに黒ずくめの何者かがいる。

 一瞬で廃棄物コンテナの上に飛び乗っていたその男――縁の上で両手両足をつき、絶妙なバランスを維持。黒いマントを被り、口元を黒い布で覆っている。三角形のフードの下で、瞳が爛々と輝いている。笑っているようだった。

「おっさんさあ、絶叫マシンとか好き?」とその頭巾男が言った。

 家頭が聞いたのは、まだ年若い、少年の声だった。

 続けて少年――灰村禎一郎は言う。

「いってらっしゃーい」

 その時、家頭司は自分の腰周りにベルトと金具が取りつけられていることと、その金具からワイヤーのようなものが伸びていることに気づく。

 直後、家頭の身体は猛烈な力で上へ引っ張られた。

 三半規管がひっくり返るほどの強烈な浮遊感――地上にいる頭巾の男=ブギーマン・ザ・タンブラーとの距離が一瞬で遠ざかる。

 二階、三階、四階。声を上げる間もなくものの数秒で引き上げられ、瞬く間に屋上。ごつごつした手が家頭の右脚を掴み、そのまま宙吊りにする。足首が千切れるほどの恐るべき握力。そして身体がぶら下げられたまま回転する。家頭が正面に見る光景は、隣のビルの屋上から表通りの方向になり、そして、もうひとりの黒ずくめの男に相対する。

 フードの男――ハーネスにボディプロテクターで全身を固めたおよそ東京の街には場違いな姿。フードの下は黒包帯でぐるぐる巻きにされており、顔面が完全に覆われている。にもかかわらずその目にじっと睨まれているように錯覚し、家頭は身震いする。

「ブギーマン、ザ・フェイスレス……」

 家頭も、噂話には聴いていた。誰でもない男、顔のない男、東京に蠢く亡霊、酔歩する死体、地獄からの使者。コリアン・マフィアをたったひとりで壊滅させ、かの連続強姦魔ドバト男を捕縛したという男。その実在を疑う声は未だに根強いが、模倣犯が絶えないことから警察は自警活動に関する異例の呼びかけまで行った。

 そして、今は〈ファンタズマ〉の敵だった。

「し、知らないぃ!」と息も絶え絶えに家頭は叫んだ。「私は何も、何も……」

」顔のない顔から声がした。まるで地の底から響いたかのような、ひと言で全身が縮み上がるほどの恐ろしい声だった。「利根達男と〈ファンタズマ〉の間に結ばれた密約について、貴様の知っていることをすべて話せ!」

「密約なんて、何も……」

 するとブギーマンは無造作に手を話す。家頭の身体を宙吊りにしていた右手を。

 自由落下。四階、三階、二階――つい先刻遠ざかった景色が見る間に近づく。肥満体な男の喉から「ああああ」と情けない声が上がる。だが、あわや激突というところで急減速。身体が鞭打たれる。地面からおよそ三〇センチメートルの高度で、ワイヤーで吊り下げられる格好になる。

 地上のブギーマンが歩み寄ってきて、腰を落として言った。

「喋った方がいいと思うよー。俺ら、正義の味方だけど、正義ってえのとは、ちょっとちげーから」

「な、何を……」

「あ、それとさ。あんたをぶら下げてるこの仕掛け、試作品なんだって。次は切れるかもね」

「切れ……」

「はい、いってらっしゃーい」

 再び急上昇――屋上で待ち受ける顔のない男。

 血液が偏って朦朧とする家頭の胸倉を、革のグローブで覆ったブギーマンの右手が掴んだ。

 またも宙吊り。黒塗りされたような顔のない顔面から何かが這い出してくるように見えて、家頭は叫びながら脚をばたつかせる。

 すると、平手打ちが飛ぶ。

 右、左。右、左。

「〈ファンタズマ〉だ、話せ!」

 若干の冷静さを取り戻した家頭は応じる。「こ、こんなことをして、警察が……」

「俺がお前の警察だ!」フードの下の顔面が肉薄――家頭は悲鳴を上げる。「お前が黙るなら次はお前の息子を吊るす。その次は妻を吊るす! それともお前が愛人に送ったWIREをマスコミに……」

「やめろ! なぜこんな……」

「話せ!」

「わかった! 話す、話す! だから……」

「このままだ」ブギーマンが先回りして言った。「俺の腕が疲れる前に話せ」

「住居と仕事だ!」

「何?」

「だから、住居と仕事だ。地方創生特別措置法の、通称難民条項。日本政府に保護を求めた難民に地方で職と住居、生活支援を与える制度によって、〈ファンタズマ〉のメンバーに身分を与える」

「不法入国者に?」

「そうだ。彼らは朝鮮半島の独裁政権の弾圧から逃れて日本に保護を求めた、難民という扱いになる。職を得て、住居を得て、生活支援を得て、彼らは衰退著しい地方の創生を推進する人財として……」

「犯罪者を保護するのか、政府が!」

「彼らを犯罪者にしたのは環境かもしれない」

「寝言を言うな! そんなもの、無数の新たな国際犯罪を受け入れる土壌だ!」

「なら他にどうすればIターン数値目標を達成できる!」

「数値目標……?」

「そうだ。現政権の難民・地方創生政策の成果が必要なのだ。UNHCRの提言の通り、我が国は難民受け入れへの消極性から国際的に非難を浴びてきた。だが前政権の五輪後施策の数々によって、東京の治安は著しく悪化した。三拍子地区のようなものが生まれ、ブギーマンが現れ……」

「数値目標のために都内での核テロを容認した?」

「そうとも! 見たか、識者、著名人、文化人、芸能人、次から次へと東京から移住している。SNSを見たか、誰もが東京に住み続ける恐怖に怯えている! この国の愚かな民は、ようやく一極集中のリスクを、身を以て知ったのだ! 新聞を見たか、かつてないほどに高まる首都機能移転の議論。これこそが利根先生の悲願だ!」

「悲願とは」

「第二東京の設立」

「そんな荒唐無稽なもののために、国際テロ組織と通じたのか」

 すると家頭は自分の置かれた状況を忘れたように笑う。「歩く荒唐無稽が何を言う。東京への一極集中がいつか破綻すると誰もが理解しているにもかかわらず、何もしない、できない。ならば手を汚してでも、成さねばならぬことを成す。それが政治家というものだ。利根先生こそが真の政治家だ!」

 しばし沈黙するブギーマン――すると家頭の身体が軽々と宙を舞い、屋上に背中から叩きつけられる。

「次は。次の目標はなんだ」

「知ったところでお前には止められない」

「言え!」

 ブギーマンの右手が家頭の胸ぐらを掴んで宙吊りに。家頭は、脚をばたつかせながら途切れ途切れの言葉で応じた。「限界集落。限界集落の放射能汚染だ。地方においては東京とは逆に人口を都市へ集約させる。無駄に人間が住む土地を居住困難にすることで行政コストを最小化する」

「来る超少子高齢化と人口減少への、それが答えか」

「そうだ。我が国が、成長し続けるための唯一の手段だ」

 手を離すブギーマン。家頭はその場に崩折れる。

 肩で息をしながら家頭は続けて言った。「人権は功利主義と矛盾する。だが資本主義は功利主義と不可分だ。つまり両立を目指し続ける限り、いつか破綻する。JR北海道の赤字や青森、富山のコンパクトシティ構想の失敗を例示するまでもない。人民は自分勝手だから、多数の利益のために個を犠牲にすることができないのだよ」

「代わりにお前が、犠牲を強制しようというのか。神の雷気取りで」

「それも政治の役割だ。プロメテウスの火の、正しい使い方だ」

「強制移住で歳出を抑制し財政を健全化。その裏で、誰が肝臓を食われ続ける」

「なあに、人権も多様性も、政治的正しさも、所詮都市の概念だ。田舎では元々無視されるものだ。ここでの犠牲によって、国民全てが他者のために自己を犠牲にする模範的市民の振る舞いを学ぶ。そして都市生活者になれば、権利というものが全ての国民に行き渡る。成長するのだよ、我が国は」

「俺が止める」

「不可能だ! 理由を知りたいか?」家頭は敵意を剥き出しにして笑った。「〈ファンタズマ〉の帽子男が私に言った。ブギーマンが何か訊きに来たら、正直に答えて構わないとね!」

 言ってやったつもりの家頭。だが間髪入れずにブギーマンに腕を捻られる。

「目の前に屋上の出口が見えるな?」とブギーマンが言う。「内側から鍵がかかっていて開かない」

「な、ならどうすれば……」

「隣のビルまでの距離はおよそ二.五メートル」

 それだけ言い残すと、家頭は突き飛ばされる。

 起き上がり、振り返る。

 ブギーマンがビルから身を投げる――思わず柵に取りついて行先を探す。すると、黒ずくめの顔のない男がワイヤーのようなもので振り子運動しながら地上へ軟着陸している。

 右を見る。隣のビルとの間には五階分の谷。

 左を見る。同じ。

 出入り口まで走っていく。ドアを引く。開かない。

 完全に取り残された家頭司――絶叫。

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