神田の貸会議室。〈リトル・サポート〉の定例ミーティングに出席した片瀬怜奈は、一同へ深々と頭を下げた。

 受験勉強に集中するため今日が最後、とあらかじめ伝えてある日だった。

 返ってきた拍手は、控えめだが決して疎らではなかった。

 彼らにとって、女子高生がひとり活動に紛れ込むことで何か利益があるわけではない。それでも二回目以降、活動報告のスライド資料には活動の背景や用語の解説がさり気なく挿入されていて、せっかく訪れてくれた素人になるべく多くのものを持ち帰って欲しいという意志が込められているのがわかった。

 とはいえ、ここで過ごした時間の大半は、竹内千花のサポートだった。

 売春を強要される少女たち。暴かれ続ける張本銀治の悪事の数々。千花はまだ、それらの事実に自分の中で折り合いをつけられていないようだった。

 スケジュールの相談だけしたら行くから待ってて、と千花に言われる。ミーティングの後、彼女と食事に行く約束だった。いいお店見つけたんだ、と声を弾ませる彼女に、ちょっと忙しいんです、とは応じづらかった。

 会議室表の待合スペースにあったベンチに座って、都内同時多発テロの続報を追う。警察によって、実行犯が既に三人、逮捕されていた。だがそれでも、組織的犯行であるかは不明。三人は黙秘を貫いているようだった。

 警察と銃撃戦の末逃走中の犯人もいた。未だ実行犯の特定に至っていない爆弾もあった。だが、全員逮捕は時間の問題のように思えた。

 だが、羽原紅子に言わせれば、それこそが罠なのだという。

 いずれのケースも、現場付近で撮影された監視カメラの映像が犯人特定の決め手になっていた。だが〈ファンタズマ〉には、〈入江文書〉がある。監視カメラを欺瞞する、あるいは、監視カメラに映らないような移動方法を心得ていたはずなのだ。電脳探偵イノセントが駆使するような。あるいは、連続強姦魔ドバト男が使っていたような。

 恐らく、警察の捜査をテロ実行犯へ向けさせることが目的。〈ファンタズマ〉の本隊は、次の一撃に向け着々と準備を整えている。

 貸会議室の扉が開いた。千花が来たかと腰を浮かしかけたが、代表の徳山だった。怜奈は彼を、内心で『ザ・清潔感』と呼んでいた。

 通り過ぎるかに思った彼が、立ち止まって言った。

「ああ、片瀬さん。帰ってなくてよかった」

「私ですか?」

「ええ。少し、時間いいですか?」

 徳山は今日も髪型が決まっていた。一体何週間置きに美容院に行くんだろう、と綺麗に刈り上げられた横髪を見て思った。

 大丈夫ですけど、と怜奈は応じた。

「よかった。君に会いたいって人がいて」

「え、私にですか」怜奈は首を傾げた。「ご関係者ですか?」

「いや、そうじゃないんだけど。私が個人的に親しくて……」徳山はスマートフォンに目をやる。「身元引受人になった男の子なんだ。君のことを話したら、会いたいと言ってね。知っている様子だった」

「心当たりが、ないんですけど……」

「そうかな。まあ、会うだけ会ってみてよ。悪い子じゃないから。……あいつ、この階だって言っておいたのに」

「私、帰ってもいいですか」

 嫌な予感がした。

 こちらは潜入調査の真っ最中だ。近づいていくならともかく、来られるのは都合が悪い。まさか調査が〈ファンタズマ〉の側に知られたのか。あるいは。

 嫌な連想を転がす怜奈。

 だがその前に現れたのは、どの連想よりも最悪な相手だった。

「……よぉ、片瀬」と非常階段の方から姿を見せた、その少年は言った。

 蛇のような一重の目。肩を怒らせ、威嚇するように歩く姿。何が楽しいのか、薄ら笑いを浮かべる唇。前髪が逆立った短髪は当時と少し違った。そして当時も今も、肌がつるりとしているのが印象的だった。目と併せて、人の感情を解さない爬虫類を彷彿とさせる少年。

「あんた……佐竹純次?」

「ちわぁーっす」

 佐竹純次は、何事もなかったかのように――本当にただの元クラスメイトであるかのように、片手を挙げた。

 徳山の電話が鳴る。耳に当てるとそのまま「ごめん、ちょっと」と言い残し、彼は会議室内に戻ってしまう。

 ふたりきりになる。広々としていたはずの待合室が、いやに狭く感じた。

 佐竹は笑みを絶やさずに言った。「去年の夏前以来だから……大体一年ぶり?」

「なんの用?」

「別に用なんかねえよ」大股に近づいてくる佐竹。「ただ昔のクラスメイトが? スヒョンのとこに勉強に来てるっぽいからさ。ちょっと旧交を温めようかなって……」

 肩を抱くように差し出された手を、怜奈は叩いて払った。

「あんた、何企んでるの。それにスヒョンって誰」

「ああ、知らねえの。洪秀賢ハンスヒョン。徳山秀賢の韓国名。あの人も母親が在日なんだよ。俺と同じで」

 ふぅん、とだけ応じておく。

 野崎悠介の自殺と、その後に暴露された凄惨ないじめの数々は大きく報じられた。その頃はまだ、背後にいたブギーマンという存在は公になっていなかったが、『在日の主犯』として佐竹純次に向けられた糾弾の嵐は、今もよく覚えている。

 徳山が社会福祉活動に打ち込むのは、自身の体験故なのかもしれない。ふとそんなことを思い、同時に、恐ろしい想像をする。

 彼もまた、〈ファンタズマ〉に通じていたとしたら。

「そんなことよりさあ、企んでんのはお前の方だろ?」佐竹はまた一歩歩み寄る。「何、その制服。それに私立の女子校って言ってたんだろ。意味わかんねえよなー。全然共学なのにさ」

「あんたには関係ないでしょ」

「いやあー、でも昔の知り合いが違う制服着て、身分を誤魔化して何かしてるって聞いたらさあー、関係なくても興味出ちゃうよな。なあ、なんでそんなん着てんの?」

「別に、ただの趣味っていうか」

 佐竹の表情が凍っていた。

 笑顔のまま。だが、笑っていない。形が、笑顔に見えるだけだった。笑顔は普通、親愛の情を示すためにあるものだ。あるいは、敵意を隠すため。だが佐竹純次の笑顔からは、いずれの感情も読み取れなかった。この顔をしていれば笑っていると見なされるのだと学習した、出来のいいロボットを前にしているようだった。

「お前さあ、もしかして張本の探り入れてる?」

「誰よ、それ」

「しらばっくれんなって。俺だって三星会の末端には噛んでたんだ。あいつがまともじゃないってことくらい知ってる。今は……〈ファンタズマ〉だっけ?」

「何それ。小山田圭吾?」

「誤魔化すなって。張本ってさ、三星会のトップだった入江って男の、腹心の部下だったんだよな。それを探るってことはお前、ブギーマンの仲間?」

「はあ?」

「俺さあ、ずっと気になってんだよな。俺をボコったあのブギーマン、一体誰だったんだろうって」

「いや、何言ってんのかさっぱりわかんない。あたし帰っていい? 約束があるの」

「実はさあ……」

 佐竹の目線が、怜奈の身体を舐めるように上下した。盗み見るならともかく、こうも無遠慮な目を向けられたのは初めてだった。嫌悪感に肌が粟立ち、立ち去りたいのに立ち去れないことに焦りが募っていく。

 ペースが乱されていると感じた。入江明を前にしていた時の怖気を、ふと思い出した。

 支配する者と、される者の間にある、絶望的な差。何をしても逆らえず、その差に押し潰されることで、自分が正しい位置に収まったような気さえしてくる。すべてを投げ出し、屈服することの心地よさに身を委ねなければ心が壊れてしまいそうだった。

 あの時は逆らった。だから今度も逆らうのだと誓う。

「俺知ってんだよなー」と佐竹が薄ら笑いのまま言った。

「いい加減不愉快なんだけど」

 ちゃんと去勢を張ったつもりだった。

 だが、冷たい機械のような少年の前には、何も通じなかった。

 衝撃。手首を捕まれ、背中を壁に押しつけられる。逃げ場がなかった。蛇の目が一〇センチ上から怜奈を見下ろしていた。蜥蜴の口が開いて、言った。

 目を見開いた。息を呑んでしまった。それで、自分が失敗したとわかった。感情の読み取れない佐竹純次の目は、隠しそこねた感情を冷酷に読み取っていた。

 手首を掴まれたときの対処法を、榑林道場で教わったはずだった。だが、何も思い出せなかった。がむしゃらに手に力を入れて振り解こうとするが、解けなかった。まるで佐竹の指が大蛇の牙になったかのように。

 図星かよ、と佐竹は呟き、声を上げて笑う。

「やめて」

「へー。お前、あいつのことを守りたいんだ」顔が近づく。安っぽい香水の匂いが胸元から立ち上っていた。「じゃあ俺があいつの秘密をバラすって言ったら、お前どうする?」

「やめてって言ってるの」

「俺さー、ずっとお前のこといいなって思ってたんだよ。可愛いし、誰のことも信じてなさそうだし。孤独で、笑ってるより無表情の方が似合って、投げやりで無防備で他人の目を気にしなくて、自分を大事にしない女って、そそんだよな。知ってるか? 心理学の実験でさ、陽性な女と神経症気味な女を並べたら、みーんな神経症気味な女の方に好意を持つんだよ」

「何が言いたいの」

「俺、気になっちゃうなー。あいつ、どんな風にお前とやってんだろうなー」佐竹の空いた手が怜奈の胸元から首を撫で、顎をくいと持ち上げる。「服脱いでさ、最初に触るのは脚か? 胸? 背中? それともケツか?」

「だから、何が……」

「わかってんだろ」

 そう言った佐竹純次の顔に、笑みはなかった。

 掴まれたままの腕と、肩と、全身が、我知らず小刻みに震えていた。

 胃の下のあたりが熱かった。怒りとも、怖さとも、絶望とも、失望とも違った。

 ただ悲しかった。こんな見下げ果てた相手に何もできないことが悲しかった。やがて何もなくなった。そして思い出した。

 片瀬怜奈は無力な一七歳の少女でしかないことを。

 ここに憂井道哉はいなかった。

 力が抜けた。全身が疲れ果てていた。誰かを騙し続けていれば、いつかこうなるような気がしていた。

「好きにすればいいでしょ」と怜奈は言った。

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