――私たちは防げたかもしれなかった。

 普段は皮肉屋で何が起こっても動じない羽原紅子のひと言が耳に張りついて離れなかった。

 夕刻。一旦解散したチーム・ブギーマンの面々が再び地下空洞へ集まってくる。寝不足の片瀬怜奈。新装備の開発で結局ずっと地下に篭っていたらしき葛西翔平。そして自分自身の修理とパラメータ調整が未だ完了していない様子の羽原紅子。

 道哉も地下へ降りてスーツに袖を通す。師匠・榑林一真から一応のお墨付きが出た滑刀術用防具も持ち込んだ。

「こんなので刀が防げるの……」と葛西は半信半疑の様子だった。「まあ、人間離れした君のことだ。僕の常識はさて置いた方がよさそうだね」

「コツがあるんです」

「コツかあ……」葛西はやはり信じきれない様子だった。「腕、今開発中の装備との換装式にしようと思う。もうすぐ最終の調整が終わる」

「例の空爆ドローンですか?」

「それもあるけど、それ以外にもね」

「また変な爆弾ですか……」

「出来上がってのお楽しみということで」眼鏡に手を触れつつ、葛西は思わせぶりに笑う。

 道哉は苦笑いで応じる。

 違和感がある。いつもなら、このような話は紅子の担当だった。その紅子は、一番小さいノートPCにかぶりつくようにして、神経質にマウスクリックを繰り返している。

 本丸が塚原教授ではなく学生の佐久間であることを、彼女に話すべきかとふと思う。

 話すなら今だとも思う。灰村禎一郎は、まだ姿を見せていなかった。

 もしも、今の紅子が、禎一郎が事件に関する重大情報を報告せずに隠蔽していたと知れば、チームに亀裂が入りかねない。捜査や情報収集について、周りに任せているから他人事で客観的でいられる道哉と、それこそが我が戦いと自認する紅子では受け止め方も異なるに違いなかった。

 ミュートにしたスマートフォンで映像を再生する。都内同時多発テロの現場で偶然撮影された映像だった。

 渋谷の宮益坂。道哉にはあまり馴染みのない場所だ。鞄を抱えた大学生らしき若い女。ギターを背負ってとぼとぼと歩く若い男。足早に街を突っ切っていくスーツ姿の男。制服姿の高校生たち。行き交う人々はみなそれぞれの生活へとまっすぐに歩みを進めていた。

 撮影者は、iPhoneでのセルフィー動画に熱心な米国人旅行者だった。

 動画は、興奮した様子で朝の渋谷を歩く米国人の男の語りから始まる。ひと頻り喋ると、彼は上方へカメラを向け、巨大な再開発ビル群を写す。そして地上にカメラを戻し、街を行き交う人々を写す。そこで、彼の背後で破裂音がする。カメラを向けると、チェーンの牛丼店の目の前にある植え込みから砂煙が上がっている。更に複数度の破裂音が鳴り、撮影者は逃げ出す。周囲から驚きと戸惑いの声。そこで動画は終わる。

 投稿日は三月一一日。誰もが忘れかけていたはずの日付。

 忘れられないことを忘れたことにし、前へ進んでいくことを選んだはずの現代に、もう一度あの日の悲劇を呼び覚まさせるような犯行。報道もネットも混迷を極め、誰もが、この事件の正しい受け止め方に難儀していた。

「まずいな」と紅子が不意に口を開いた。

 どうしたの、と怜奈が応じる。彼女は、滑刀術の籠手を摘んで、訝しげな視線を向けているところだった。

「塚原の私用メールを遡っていたんだが、〈ファンタズマ〉の構成員から脅迫されている。監視と、身近な存在の身の安全を仄めかすような文面だな。怜奈くん、例の研究室を常時監視できるような建物は周辺にあるか?」

「教授室は窓際だけど結構上層階だから、限られるよ。三ヶ所くらい」地図を出して、と怜奈が続けると、紅子がグーグルアースの3D地図で現場周辺を表示する。怜奈は迷わずに三ヶ所の建物を次々と指差す。「ここは商業施設で日中人目につく。ここは空きテナント。こっちは普通に集合住宅。あたしは、監視者がいるなら二番目だと思うけど……」

「それはどうかな」と紅子は抑揚のない声で応じる。「WIREの住所登録、最寄りのスーパーのアカウントのフォロワー、子育て情報交換用のSNS、その辺りから三番目のマンションの住民のアカウントを割り出してみるぞ……それ、早速ひとつ出た。ちゃんと調べればまだまだ出るだろうさ」

「住民のアカウントがわかっても……」

「じゃあこいつの直近二ヶ月の投稿に、引っ越してきた韓国人がうるさい、などの文言がないか調べてみよう……案の定だ」紅子はPCを怜奈と、道哉の方へ向けた。「塚原の監視のため、コリアン・マフィアが中核を占める〈ファンタズマ〉のメンバーが入居したと見て間違いないだろう」

「じゃあ、ただ塚原を尋問したんじゃ」

 道哉が口を挟むと、紅子は浮かない表情のまま応じる。「ああ。いきなり狙撃されてあの世行きだったかもしれない」

「さすがに狙撃されたら敵わないぞ、俺だって」

「じゃあ、正解は三番目の方?」と怜奈。

「いや、恐らくは両方だろう」紅子は声量を落として続ける。「私ならそうする」

「なら塚原の帰宅前に両方落とそう。近場の地下道は?」

「探索済みだ。……しかし、灰村はどこへ行った? この重要な時に」

「あたしも、さっきから電話してるんだけど」スマートフォン片手の怜奈。

「灰村くんと言えば、電磁警棒知らない?」葛西が忙しなく装備棚を探している。「二本のうち一本が見当たらない。どこかな」

 脳裏に浮かぶ、憔悴した禎一郎の姿。

 道哉は立ち上がった。

「……あの馬鹿、単独先行したな」


 城南大学の敷地のすぐ南。自治体の境目に当たり、建物高さ規制が道路を挟んで切り替わる土地に堂々と建つ、八階建て集合住宅。その六階の、廊下の外側。容赦のない風を浴びながら、手すりに登攀具を改造したものでぶら下がる、黒ずくめの男の姿があった。

 黒い上下。黒いブーツ。全身のウイークポイントをプロテクタで固め、腰のベルトのポケットには奇想天外な道具を満載。手首や腰からは黒い包帯のような布が伸びてはためく。その顔はフードに覆われていて見えない――たとえフードを取ったとしても、頭部全てを覆うマスクに隠されている。そのマスクにはぐるぐる巻きの黒い包帯のような装飾。完全に目が塞がれているその異常な姿を人は恐れる。

 ブギーマン――ザ・フェイスレスとも呼ばれる男。あるいは憂井道哉。

「まだか。俺だって疲労くらいする」

「一〇秒待て。今隣の若妻に扮した怜奈くんが荷物の誤配を……行け!」

 腕の力だけで躍り上がる――玄関の扉を迂闊にも開けた韓国人の男の顔面を平手で塞ぎ、頸動脈を死なない程度に締めて落とす。部屋の中に押し入り、続けてもうひとりを発見。拳銃を取り出すまでを許すも、それ以上は許さなかった。

 無警戒な鳩尾に拳が沈む。同じく韓国人だったその男は、空気が抜ける間の抜けた音を口から漏らしてそのまま昏倒する。

 意識を失った男ふたりを室内に引きずり込み、室内に監視カメラがないことを確認してからフードとマスクを取る。

 追って室内へ入ってきた怜奈が抱えていたボストンバッグを下ろす。

「着替えて」

 言われる前に手は動いていた。上半身だけ装備を解き、厚手のスウェットパーカーに着替える。夜間であるためそう目立たないと判断し、膝にプロテクターを入れた下半身はそのままにして外へ出る。

 続いて明かりも疎らなオフィスビルに向かう。保険会社の簡易窓口があるため一般人も立ち入れる建物に悠々と正面から侵入。連絡を受けていた電脳探偵がエントランスに設置された監視カメラの映像を一〇分前のものと差し替える。恐らく敵も同じことをしているのだ。

 古びた、監視カメラもないエレベータで目的階の一階下まで上がる間に再び装備を整える。

 エレベータが開く。どこで買ったのか芸能人のプライベートのようなサングラスをかけた怜奈が先に出て、周囲を確認。そのフロアが営業終了していることは外からの観察と、ネットで調べた電話番号にかけて誰も応答しないことで確認済みだった。

 足音を忍ばせ、非常階段で目的階へ上がる。別ルートで建物内に侵入した葛西翔平の手で管理システムに感染したマルウェアによってビルのセキュリティシステムが羽原紅子に乗っ取られ、電子錠がひとりでに開く。入口で上下階からの一般人の接近を監視する怜奈をその場に残し、道哉はフードを被り直し、ブギーマンとなる。

 扉を開け放ち、照明の落ちた広々したフロアへ足音を忍ばせることなく侵入――全速力。

 やはりここも二名。近いひとりに飛びつきながら首に腕を絡ませ、脚を払い仰向けに倒す。

 キャスターつきの椅子を蹴る。そのまま床を滑らかに転がりもうひとりの膝に激突。混乱する隙を突いて接近し、拳銃を奪って掌底打ちで鼻を折る。

 後頭部を床に強打し脳震盪を起こしているひとり目に歩み寄り、本人のズボンのベルトとタイラップで拘束。目隠しして猿轡を噛ませる。もう一人にも同様の拘束を施す。

 そして床に二脚で据えつけられていた狙撃銃を手に取る。機構がよくわからないが、とにかく変形させてその場に打ち捨てる。

 再び非常灯の緑が眩しい階段へ出て、今度は装備一式を全て解いてボストンバッグに収め、私服に着替える。

 非常階段で一階へ――迷い込んだカップルのふりをして、腕を組んでエントランスを通過。直後に別れ、怜奈は早足で城南大学の敷地内へと向かう。道哉は地下通路へ繋がるゴミ捨て場の前に立つ。扉を開け、床面の扉を更に開け、開いた空洞へボストンバッグをねじ込むようにして落とす。後で葛西が回収する手筈である。

「教授室の照明が消えた。急げ」と紅子。今回は人手と時間が足りず、彼女も自分の目を使っていた。

 禎一郎の持つスマートフォンの位置情報が全員に共有される。日が沈めば人気がなくなる敷地内の植え込みだった。

「敷地内に入った。羽原さん、ナビして。灰村くんが軽はずみな行動をする前に止める」

「ええい、無駄に広い……次を右だぞ、怜奈くん」紅子の苛立った声。「しかし灰村のやつ、その知人ではなく教授の方を狙うのが解せんな」

「彼は佐久間氏の無罪を信じているの。だから……教授に強要されている、とでも考えたんじゃない?」

「客観性がない。理解し難い思考回路だ」

「その通り、と言いたいけど」少し息を切らしながら怜奈は応じた。「最近、似たような考え方で真っ黒な犯罪者の無実を信じる人を見た。その人は恋愛感情だったけど」

「急げ。間に合わない」

「ごめん」

「どうした」

「ヒール履いてきちゃった」

 塚原の端末の位置を示す光点が禎一郎の位置へと近づいていく。怜奈の位置はまだ遠い。

「男にとって憧れは恋愛感情より強い。……怜奈、その敷地内、車両通行OKか?」

「通行止めとは書いてなかったし……」一旦言葉を切る怜奈。「建物の前に駐車場もある」

「なら俺の方が早い」と道哉は言った。

 フルフェイスのヘルメットを被り、路駐していたバイクのエンジンをかける。空冷四気筒の鼓動に浸る間もなく発進――黄色信号をすり抜けて大学構内へ進入する。もう珍しくなった非LEDのヘッドランプが緑が多く影の濃いキャンパスを貫く。ハンドルに固定したスマートフォンの画面で、禎一郎の位置を示す点が動き出す。その進行方向の先には、塚原がいる。

 互いが互いを視線の先に捉える、その寸前。

 パーカーのフードを被り、口元をバンダナで覆った禎一郎が植え込みの影から姿を見せる。その右手に黒い電磁警棒。

 鞄を手に駅までの道を足早に歩いていた塚原清志。

 接触――その寸前。

 塚原の背後から九〇〇〇回転まで回したゼファーχが後輪をスライドさせながらの急制動ターンで割り込んだ。

 耳をつんざくブレーキ音がキャンパス中に響いた。控えめな街灯に活を入れるようなヘッドランプ。静けさを台無しにするエンジン音。少ない光を絶え間なく反射するオレンジ色のタンク。片足で車体を支え、ヘルメットで顔を隠した道哉は、呆然とする禎一郎をバイザー越しに睨む。

「な、なんなんだ、君たちは」と困惑した様子の塚原。

 横から、低いヒールの高い靴音を鳴らしつつ怜奈が現れる。

「すみません、先生」

「君は……確か、質問に来てくれた」

「あれは嘘です。ごめんなさい」怜奈は深々と頭を下げ、言った。「先生が、〈ファンタズマ〉を名乗る組織に脅迫されている件で、お話を伺いたいんです」

「〈ファンタズマ〉……なぜ君のような子が、それを。それに……」

「監視なら制圧しました」

「何者なんだ、君は。君たちは」塚原は、憔悴しきった顔をバイクの道哉へ向けた。「まさか……」

 怜奈は微笑むと、クローバーの飾りのついた眼鏡をかけて言った。

「ブギーマン。私は彼の……えっと、エージェント? です」

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