「あんたには話しておかなきゃって思うんだけど」

 片瀬怜奈からの電話はそんな前置きで始まった。

 朝七時。榑林邸の離れにある自室のベッドの上。道哉は寝ぼけ眼だったが、電話口の怜奈の声は疲れ切っていた。どうしたのと訊くと、眠れなかったのだと彼女は応じた。

 沈黙があった。電話口の怜奈の後ろから、ニュースらしき音声が聞こえた。

「灰村くんのことなんだけどね」と彼女は切り出した。

「灰村?」

「例の研究室で、彼と会った」

「え、例の核物理なんとかで?」

「そう。隅田川沿いの廃工場での戦闘のとき、〈ファンタズマ〉の中核メンバーっぽい人たちがぞろぞろ出てきたんでしょ?」

 出てきた、と道哉は応じる。

 装備を惜しげもなく火にくべる戦闘員たちと、兵站を誇示するように現れた非戦闘員たち。不気味な炎に照らし出されたその光景は、閉じたはずの目に焼きついて離れなかった。

「その中に、灰村くんの古い知り合いがいたんだって。その知り合いっていうのが、例の研究室の、博士課程に所属している学生、佐久間博史さくまひろふみ。灰村くんは、あんたや羽原さんに黙って彼に接触し、本当に〈ファンタズマ〉と関係しているのか、関係しているとしたらどのような関係なのかを調査しようとしていた」

「しようとしていたってことは、あんまり首尾はよくないんだろうな」

「人がいいからね、灰村くん。誰かを騙す才能がない」

「確かに、あいつは根が善人だ」

「通称ハカセだって」電話口の怜奈は、あまり愉快ではなさそうに笑う。「悪の博士だよ。悪の組織に悪の博士」

「羽原が喜びそうだ」と応じつつ、道哉は別のことを思い出していた。

 現実から浮遊した存在――白井享しろいとおるが、〈スペクター・ツインズ〉を指してそんなことを言っていた。

 護衛の申し出を即座に断った彼。まだ無事でいるだろうか。

 道哉、聴いてると言われ、現実に引き戻される。

「灰村くん、『道哉さんにだけは言わないでください』って言ってた」

「そうか」

「昔の知り合いだから、疑いたくなかったみたい。でも……」

「知らせてくれれば、羽原の調査はもっと早くあの教授に辿り着いていた。事は一刻を争うのに……」

「そうやってあんたに責められるのが……道哉さんに失望されるのが嫌なんだって。可愛いでしょ、彼」

「悪かったな」

「何が」

「いや……色々」

「色々って」

「気苦労をかけてるから」

「そんなことは……」常になく言い淀む怜奈。

 褒められることには慣れていても、労われることには慣れていないようだった。話題を変えることにして、道哉は言った。

「羽原から、調査について何か聞いてる?」

「あ、聞いた聞いた。同じ研究室の学生全員に傑作フィッシング詐欺を仕掛けたって」

「またそういう悪事を……」

「個人情報を更新しないとitunesのアカウントがロックされるから、っていうメールをいかにもappleからのメールらしく作って、入力フォームへ誘導して、メールとかパスワードを全部抜くんだって」

「アイフォーンをハッキングするのか。凄いな」

「あんたのその大雑把さ、あたしは好きじゃないからね」

「えっ……」

「どうする?」

 こちらを置き去りにして話題が飛ぶ、いつもの彼女の話し方。道哉は安堵しつつ応じた。

「黙っておくよ」

「いいの?」

「灰村とその学生の繋がりは偶然だ。偶然ってことは幸運だ。俺たちに幸運は必要ない」

「そう。あんたがそれでいいなら。でも……」

「羽原も俺たちも教授が黒だと思ってたけど、実際に〈ファンタズマ〉に参加していたのは、学生の方ってことだろ? 灰村の言うことが本当なら」

「そのあたりは、羽原さんの調査を待つしか……」言いかけ、怜奈は声色を一変させた。「道哉。今ニュース見られる?」

「パソコン開けば……何があった?」

「都内複数箇所でほぼ同時に不審物が爆発。組織的なテロの可能性あり、だって」


 報道局のニュース映像とSNSと匿名掲示板と現地で生配信を始める素人たち。幾つもの画面を同時に睨む羽原紅子はあからさまに苛立っていた。

「〈ファンタズマ〉だ。これは連中の犯行だ」

「落ち着けよ。別に世の犯罪組織は〈ファンタズマ〉だけってわけじゃ……」

「これを見ても同じことが言えるか!?」紅子は平手でテーブルを叩いた。

 一番大きなモニタには地図が表示される。そして爆発地点を示す赤い点。そこにグーグルストリートビューのポップアップ表示が重なる。さらにWIREの画面らしきものが次々と現れ、道哉は首を捻った。

 隣では片瀬怜奈がじっと自分のスマートフォンを睨み、後ろでは灰村禎一郎が珍しく普通の姿勢で椅子に座っている。その後ろでは眼鏡の上からゴーグルに安全靴で煤まみれの葛西翔平がいた。

「いいか、これが今回の爆発地点。池袋西口、鶯谷、日暮里、大森海岸、渋谷、西新宿。そしてこっちが、張本銀治がWIREを介した集団面接の集合場所として過去に指定した地点だ。新宿ならみなも覚えがあるだろう。大森海岸なら君と怜奈くんも」

 新宿駅西口から歩いて数分の、都庁ビルの威容を望む路上。そして微かに海風を感じる大森海岸の線路に沿った路地。どちらも、覚えがある場所だった。

「例のマイクロバスの停車地点か」

「そうだ。今回の爆破地点、張本銀治が手配した〈ファンタズマ〉の人攫いバスの停車地点とぴったり一致するんだよ」

「目的は」と道哉は言った。「目的はなんだ。テロなら犯行声明があって、なんの目的で誰に天誅を下したかの宣言があるだろ。〈ファンタズマ〉は犯行声明を出したのか。街頭ビジョンをハッキングして〈スペクター・ツインズ〉が高笑いでもしたのか」

「じゃあ何か、君はこの状況証拠を見ても〈ファンタズマ〉の犯行ではないとでも言う気か?」

「お前が冷静さを欠いてるって言ってんだ。否定はしていないよ」

「馬鹿言え。私は冷静だ」

「ねえ、ふたりとも」怜奈がぞっとするほど冷えた声で口を挟んだ。「

 何、と応じつつ紅子の指がキーボードを走り、SNSの画面を拡大表示する。

 見る間にシェア数が増えていく投稿――複数のユーザーが同時多発的に同じ内容の画像をアップロードし、それが水中に立ち上るように泡のように次々と共有され拡散する。その全てが爆破地点での放射線量測定値を示している。先日の大森海岸での事件で放射線測定器を購入した人々の多さを思い知らされる。その数値は今帰還困難区域と呼ばれる地域の、福島第一原発事故直後の数値に匹敵していた。

 程なくして新聞社のウェブサイトに速報が上がる。

 『都内同時多発テロ 爆発地点で高い放射線量 現場付近に近づかないよう警視庁から呼びかけ』

 だが、報道記事によれば、一連の爆破での死傷者はなし。

 だとすれば。

「少なくとも、戦術目的はわかる」と紅子はいつにも増した早口で言った。「放射性物質の拡散だ。爆破による殺傷ではなく、放射性物質の拡散を目的としている。そうでなければ六ヶ所全ての爆弾に殺傷能力がない理由に説明がつかん。なあ憂井よ、君はどう思う。この犯行にどんなイデオロギーが見て取れる。怜奈くん、君はどう思う。これまでの内偵先との繋がりは。やはり放射性物質は城南大学の教授か学生が連中に提供したのか? その目的はなんだ? 私用メールの解析はまだ中途だが……」

「何かわかったのか?」

「まだ中途と言ったろう。くそ。私は何を見落としている。塚原研究室が加担しているとすれば、もっと早く塚原研究室へ辿り着けていれば、こんな事件は防げた。こんな……」

「落ち着けって」

「これが落ち着けるか! これは、核テロだ! それも最悪のな!」

「それは大袈裟だろう。核爆弾ってわけでも……」

「発する熱量の問題じゃない! いいか、東京だぞ。東京に放射性物質が散布されたんだぞ。無限の人間いて無限の発信者がいて、無数の目があって無数の口が絶え間なく恐怖を語り続けるんだぞ。感情は、伝搬するんだ。たとえ放射性物質が少量でただちに健康には影響ないレベルであったとしても、昨日までと同じ暮らしは送れない。目に見えない恐れが実在のものとして同居する街へと書き換えられたんだ」

「落ち着け。お前の頭は悲観や批評のためにあるんじゃない。戦うためだろ」

 すると紅子は、冷えた目を道哉へ向けた。「憂井。カレンダーを見ろ」

「カレンダー?」

「今日は何月何日だ」

 自分のスマートフォンに目を落とす。

 それで、彼女が言いたいことがわかった。

 日付を示す四桁の数字は『0311』だった。

「私たちは防げたかもしれなかった。私たちだけが」

「羽原さん」とゴーグルを取った葛西が言った。「見落としているものを探すより、どこを突けば疑問を氷解させることができるかを考えよう。羽原さんの頭の中にある幾つかの仮説を証明あるいは否定するために、誰に何を訊けばいい? それさえ定めれば、あとは憂井くんと灰村くんの出番だ」

 紅子はすぐには応じなかった。

 報道と現地からの生配信の音声がスピーカーから地下空洞へ広がっていく。怜奈が、じっと座ってる禎一郎を盗み見ていた。その禎一郎は俯き、額に脂汗を浮かべていた。足先が落ち着きなく動き、手はデニムの膝を何度も握っていた。

 たっぷり三〇秒ほども沈黙してから、紅子は言った。

「塚原教授だ。〈ファンタズマ〉との関係を吐かせる」

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