「まあ、合格ということで」息ひとつ乱さず、木刀を提げた榑林一真は言った。「そこそこ遣えるようになったんじゃないかな」

「そこそこって、あんた」肩で息をしながら道哉は応じた。もうひと言くらい続けようとしたが、言葉が出なかった。

 両手の鉄甲を外すと、音を立てて床へ落下。滴る汗がその上に雫を作った。

 夕刻の榑林道場。いつものように突然に「じゃあ、最終試験ね」と言う一真の熾烈な攻撃を躱し、三〇分ほども延々打ち合った後のことだった。

 合格と言われても、昨日までの自分が何を身に着けたのかわからない。ただ翻弄されるまま、がむしゃらに一真の繰り出す剣を受け続けるばかりの日々だったのだ。

 道哉が膝に手をついて息を整えていると、木刀を片手に構えた一真が言う。「得心いかない様子だね、道哉」

「あんた、人にものを教える才能ねえよ」

「言うね。理想の教え方でもあるの? それとも……学校の先生にでもなりたいとか」

「そんなんじゃ……」

 顔を上げた瞬間、剣圧が道哉を襲った。

 ルーズな所作からスイッチを切り替えたように繰り出される片手の上段。身に染みた右腕の捌きで木刀の鎬を払いつつ左の掌底で峰を押す。刀が引かれるより早く左足を踏み込み左の肘打ちで一真の顔面を狙う――すると一真の身体が羽根のように沈む。

 空振り。膝蹴りに繋ごうとするも今度は一真の身体が風に吹かれた花弁のように舞い、間合いが瞬く間に離される。

 涼しい顔で立ち上がり、懐から扇子を取り出す一真。

「ほら、そこそこ遣える」

 そこそこ、と応じて気づいた。

 鉄甲なしで刀を捌いていた。

「もしかして、こういう?」

 一真は楽しげに「ははは」と笑う。「滑刀術は、極めれば防具なしで真剣を真正面から捌ける、とても便利な格闘術だよ」

「もうちょっと言い方が……」

「どうかな」

「何が」

「僕は人にものを教える才能があると思うんだ」

「ねえよボケ」

 そうかなあ、ととぼけた顔で首を傾げ、一真は何気なく続ける。「渡すものがあるから、後で僕の部屋まで来て」

 適当に返事をして、鉄甲を手に離れに戻る。

 シャワーを浴びて上がると、チームの連絡用のスマートフォンに羽原紅子からのメッセージが届いていた。『気になる人物を見つけた。後で連絡しろ』と書かれていた。

 後回しにして、母屋へ戻って奥の間へと向かう。居間に差し掛かったところで、横からシャツが飛んできた。

「家でも! ちゃんと! 着る!」

 榑林一花だった。言われた道哉は下はスウェットパンツだったが上はタンクトップだけだった。

 気をつけるよ、と応じて袖を通す。一花は淡々とアイロンがけに勤しんでいた。

 奥の間は、以前に訪れた時と同じく、主を除けば誰もいないにもかかわらず物々しい雰囲気が漂っていた。招かれたのに歓迎されていないような心地。部屋の前に立つと、声をかけるより前に「どうぞ」と中から言われた。

 部屋に入ると、折り目正しく正座の一真。手元に、何の変哲もないクリアポケットファイルのようなものがあった。

「渡したいものって?」

 これこれ、と一真はそのファイルを差し出す。「藤辰さんがね。時が来たら君に渡すようにと言って、僕に預けていたものだ」

「親父が?」

 手を伸ばす。すると、指先が触れたところで一真が「ちょっと待った」と言った。

「想像してみてごらん。それ、なんだと思う?」

「……遺書とか?」

「それなら湘南のに預けるよ」

「俺への私的なメッセージ」

「それなら倉持さんに預けるんじゃないかな」

「当てるまで渡さない気?」

「いや?」一真はうっすらと微笑む。「ただ、これを受け取ってから僕が想像したことを、君にも想像して欲しいと思っているだけだよ」

「俺なら」ファイルの表紙をじっと睨み、道哉は言った。「俺なら、一真さんには、秘密を預ける」

「秘密?」

「あなたは秘密を守るでしょう。人嫌いで、権力嫌いだ。もしも互いに信頼し合う相手から秘密を預けられたら、あなたは絶対にそれを明かさない。その人の親が来ようが妻が来ようが、警察だろうが裁判所だろうがあなたは絶対にその秘密を明かさない。あなたほど、秘密を預けるのにいい人はいない」

「意外だな」

「何が」

「君は僕のことを買っているんだなと思って」くぐもった声で一真は笑う。「僕もそう考えた。これは、藤辰さんの……君のお父さんの秘密だ。しかし彼に、一体どんな秘密があったのだろう」

 憂井藤辰の秘密と聞いて、連想されるものはひとつしかない。

 閉ざされた蔵と、蔵を入り口に広がる地下空洞と隧道。蔵の封印は道哉によって解かれ、かつては地上が、今は更に地下に広がる空洞が、チーム・ブギーマンの拠点として活用されている。

 一真はあの蔵のことを知っているのだろうか。

「君の父上は秘密の多い人だった。急に事業を人手に渡したのも謎。あの家に引き篭もったのも謎。十を訊いてやっと一答えてくれるような人だった。もしかしたら、彼の言動に常につきまとっていた違和感を解く鍵が、このファイルの中身なのかもしれない」

「違和感?」

「そう。藤辰さんの。そして、君の」

 一呼吸置いてから道哉は応じる。「どういうこと?」

「どうもこうもないさ。ただ、そういう気がするというだけ」一真はファイルを手に取った。「持っていくといい」

「なぜ今なんだ。一八歳の誕生日とか、成人とかじゃなくて」

「時が来たから……というのは冗談として。君も、もう一人前だと思ったからだよ」

「わけがわからん拳法をマスターしたことが?」

「僕は拳しか知らないから」一真は、腹の中が読めないいつも通りの笑みだった。「君はもっと多くを知るだろう。この世の光も影もね」

「で、結局それの中身は?」

「僕には見えないからわからないが……何かの地図だと言っていたよ、藤辰さんは」


 ファイルを背負ってバイクで憂井の家まで戻り、蔵から地下へと降りる。

 緩やかに曲がった隧道を抜け、明かりが点ったチーム・ブギーマンの拠点へ入ると、待ち受けていたらしき羽原紅子が顔を上げた。

「遅いぞ。こっちへ来い」

「気になる人物だっけ」

「君も知っている人間だ。新宿駅周辺の監視カメラに、偶然引っかかってな」紅子が手元を見もせずにノートPCのキーボードを叩くと、いつものように監視カメラのキャプチャ画像が表示される。高解像度なものが手に入ったらしく、映っている人の顔がひと目で識別できた。

「確かに」と道哉は呟く。「気にならないはずがない」

 知っている顔だった。

 蛇のような鋭い目。小馬鹿にしたような薄ら笑い。当時よりも幾分頬が痩けたようで、底知れなさに拍車をかけていた。

 ブギーマン・ザ・フェイスレス最初の敵。

 一〇秒ほども間を開けてから、紅子は口を開いた。「佐竹純次。シャバに戻ってきていたらしいな。どうする?」

「どうするって?」

「監視するか? ブギーマンの関係者が〈ファンタズマ〉とみられる連中に次々襲撃されてる。この男も、無事では済まないかもしれない」

「こいつが、無事で済まないってことは……」

「我々が手掛けた最初の事件まで〈ファンタズマ〉の調査が及んだということ。即ち、もう後がないということだ。個人的な感情で言えば、私はこいつは放置したい」

「佐竹が連中に襲われるならもう手遅れってことか?」

「そうだ。他にリソースを割きたいし、こいつへの腹立たしさは八つ裂きにしても足りん」

「言葉を選べ」

「なんだ、肩を持つじゃないか。君の旧友を死に追いやった男だぞ。怜奈くんだって、この男のしたことで多大な精神的苦痛を味わったんだろう」

 道哉は、片手でこめかみを揉んでから言った。「護衛するぞ」

「言っただろう。私は魔法遣いじゃない。できることには限りがある」

「ならどうして俺を呼んで、これを見せた」

「私は君の同意なしに何もしない。見過ごすことも君の同意がなければしない」

「放置したいんじゃなかったのか?」

「個人的な感情とも言ったぞ。監視しよう」紅子は椅子に座ったまま背伸びをする。「期待通りの答えだよ」

「俺を試してたのか」

「そんなつもりはない。ただ確かめて、安心したかったんだよ。私と君が同じ方向を向いているかどうか」

「何を乙女なこと言ってやがる」

「そうだな」画面をぼんやりと見たまま紅子は応じた。「つまらんことをした。謝罪する」

 道哉は、一真から受け取ったファイルをテーブルに置いた。「こっちからも報告がある」

「君が? 珍しいこともあるものだな」皮肉屋な笑みでファイルを受け取り、開いた紅子の目の色が変わった。「おい、こんなものをどこで手に入れた」

「魔法遣いになれそうか?」食い入るようにファイルの中身を見つめている紅子から返事はなかった。道哉は続けた。「それ、、だよな」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る