「政治家だ」と羽原紅子は苦々しげに言った。「例の車を追跡したら松濤の妙なバーに行き着いてな。調べてみたら、政治家やら企業の幹部やらがよく使う店だった。近場に祖父の代から政治家で一七回連続当選しているような元総理の大物政治家の自宅があってな。彼と繋がりがある人々の情報交換の場だったらしい」

「政治家と。マフィアが?」

「報告が遅れて悪かった。少し調査に手間取ってな」紅子はこめかみに手を当てて言った。「わからないことだらけだよ。一体なんなんだ、連中は」

 憂井邸地下空洞。春休み直前とはいえチーム・ブギーマンの気は休まらない。葛西翔平はとうとうドローン搭載型爆弾の開発に着手し、更に地下のスペースにこもりがちになっていた。片瀬怜奈は今日も今日とて潜入調査の真っ最中。灰村禎一郎はトレーニングということで不在だった。

 葛西に接触した〈ファンタズマ〉構成員を追跡した結果行き着いた渋谷区松濤のバー。そこに出入りする人間を監視したところ、あろうことか張本銀治と、利根達男とねたつおという衆議院議員が前後して入店していた。

 偶然入店しただけではないかという疑念を持って、当然、紅子は過去のデータを洗い直した。すると、葛西が〈ファンタズマ〉主催のドラッグ・パーティに潜入した際に撮影した参加者の顔写真が、利根の私設秘書である家頭やがしらつかさという男と一致した。よって、紅子は利根と〈ファンタズマ〉の間には何らかの関わりがあると結論づけた。

「利根達男って、聞いたことあるな」

「君でも聞いたことのあるレベルだ。現職の与党議員で閣僚だよ。地方創生担当相だ」紅子はいつものようにノートPCをぐるりと回して示した。利根の公式webサイトだった。「以前は都議会議員だったものが国政に進出した。政権奪還時に当時の総裁の子飼いとして立候補した、チルドレンたちのひとりだ。まだ若いな。四七歳だ」

「主な政策は?」

「都市と地方の格差是正と、首都機能の移転だな」

「カジノ特区や外国人労働者特区の推進とかではないのか」

 そうなんだよ、と紅子はPCを戻して考え込む。「〈ファンタズマ〉との利益関係がわからん。利根と張本が接触していたとして、それはなぜだ?」

「他には」

「他?」

「他に、その店で張本銀治が接触していると思われる相手は」

「過去三ヶ月分の映像を解析したが、張本が入店したのは一度きりだ」

「ってことは……土台が整ったってこと?」

「君もそう思うか」

「ああ。互いの下にいる者たちが何かの準備を整えて、いざ実行のフェーズに入ったから、トップ同士が会談して意志を確認する。ありそうな話じゃないか」

「だがわからん。一体こんな大臣風情が、〈ファンタズマ〉にどんな利益を供与できる。ヒト、モノ、カネ……女か? まさか」

「休めよ。行き詰まっているなら」

 そうだな、と応じて紅子は回転椅子に深々と背を預けた。「だがそうもいかんよ。これが私の戦いだからな」

「ネットストーキングが?」

「難しい横文字を覚えたな、偉いぞ憂井」疲労の色が濃い声音を吹き飛ばすように、紅子は呵々と笑う。「都議時代には23区民と地方の寒村の交流事業を主導したり、Iターン相談窓口を開設したりだ。今国会で成立予定の難民の地方定住を推進する法案にも主導的な役割を果たしているな」

「地方定住ね……上手くいくのか?」

「誰も上手くいくとは思っていないな」紅子はPCを閉じた。「車を追跡したが、結局路上に放置された。盗難車だったようだ。拠点特定には至らなかったよ」

「追跡は怜奈頼りってことか」

「遺憾ながらな」

「いっそその大臣閣下でも脅迫するか」

「所在の特定は余裕だぞ」スマートフォンを差し出す紅子。「この大臣、SNS中毒で有名でな。食事やら移動経路やら逐一発信している。WIREではないがな」

「いや、冗談だって」

「君でも冗談を言うことがあるのか」

 道哉は咳払いして応じた。「ま、上手くやるだろ。あの人のことだから」


 第一二回放射能を知る講演会。

 城南大学の大講堂で定期的に催されるその講演は、誤解されがちな放射性物質についての正しい知識を広めることを目的とした市民講座である。

 受講料は無料。参加資格はなし。だが毎度盛況とはいかない様子で、大講堂は七割ほどが空席だった。

 福島第一原発周辺の最新情報。放射線量の測定方法。原発の安全対策。放射性物質研究の歴史。講演内容は最先端のトピックスから教科書に載っているような基礎的な内容まで幅広い。その全てが、初学者にも伝わるよう噛み砕かれ、可能な限り専門用語を使わずに解説されていく様は、見事だった。

 壇上に立つのは、理工学部原子核工学科の塚原清志教授である。人の良さがにじみ出る恰幅のいい体型に柔和な笑顔。自分の言葉がちゃんと相手に理解されているか確かめているようなスローテンポな喋り方が印象的だった。くたびれたスーツさえも好感に変えてしまう雰囲気があった。

 公演が終わり、まばらな拍手が上がった。続いて質疑応答の時間となったが、勢いよく手を挙げたのは、学生でも子供でもなく、活動家風の女性だった。

 今も放出され続ける汚染水。それによる環境被害。奇形の魚が水揚げされている、福島ではがん患者が増えている、海外のテレビ番組では県庁職員への圧力が暴露されている、放射性物質の影響としか考えられない突然死の報告例――真実味の怪しいことを事実として捲し立てるその女性に対しても、塚原の対応は紳士的だった。

 もし自分が壇上に立っていたら、あんな質問者は追い出しているな、と片瀬怜奈は思う。

 一番に拍手をして、プレゼンも目を輝かせて見つめ、メモを取る。その姿が、壇上から見えるだろうとこと計算する。客席というものは、意外と舞台からよく見えるものだ。そうして、市民講座を訪れた勉強熱心な女子高生という印象を、壇上の塚原に植えつける。

 だが、挙手して質問はしない。あえて見るだけ。メモを取るだけ。こういう場所に高校生はそうそう来ないし、来たとしても真面目で地味な高校生だ。髪を軽く巻いてリップを塗って、爪を整えて手首にはシュシュを着けているような女子高生は、いるだけで目立つ。善人を騙すなら気が引けるが、〈ファンタズマ〉と繋がりがあるなら、悪人だ。良心の呵責など、感じている暇はなかった。

 質疑応答の時間が終わり、ホールから人が捌け始める。塚原も壇上を降りる。その手に黒いノートPC。じっと睨み、嘆息する。備品を示すテープラベルのようなものは見当たらなかった。私物ということだ。

 ――私物のノートPCを用いているなら、難易度は半分だ。

 羽原紅子がそう言っていた。セキュリティの問題である。支給品のPCなら昨今の情報漏洩・ウイルス対策で侵入が面倒だが、私物で企業や組織向けに提供されているセキュリティサービスと同等の防御を施されているとは考えづらい。

 後の半分は、と訊くと彼女はいつものようににやりと笑ってこう答えた。

 ――君の女優としての才能次第さ。

 少し時間を置いてから席を立ち、トイレに寄って身支度を整えてから、研究棟の方へと向かった。

 丸の内のオフィスビルと見紛う新しい小奇麗な建物の一角に、原子核工学科の塚原研究室がある。学科の名前から勝手に古びた建物の汚れた研究室に引きこもるマッド・サイエンティストのようなものを想像していた怜奈は、申し訳なさ混じりに自動ドアを潜り、エレベータで目的の階へと上がる。

 エレベータの中で表情を切り替える――慣れない場所に不安を隠しきれずに目を彷徨わせている女子高生に。

 フロアに出て、案内図の前で足を止める。わざと、不自然なほど長時間。すると、通りがかった学生らしき若い男性が声をかけてくる。

「どうしたの? あなたも見学?」

 見学者をしばしば受け入れているのだろうか。研究内容のセンセーショナルさや、教授の人柄を思えば納得できることだった。怜奈は「いえ……質問があって」と応じた。上目遣いは欠かさない。

「質問? ……ああ、もしかして講演?」

 ここで顔を上げて、晴れやかな笑顔。「はい! 塚原先生はご在室ですか?」

 こなれていない若者らしく、途端に色白の顔を赤くする。髪は伸び放題で、メタルフレームの眼鏡は塗装が剥げている。汚れた白衣の下は皺だらけのフランネルシャツ。理系の男性ってこんなもんだよね、などと心中呟く。

「あ、うん。今ならいらっしゃるよ。この部屋」

 彼は案内図を指差す。白衣の胸に写真付きの名札が留まっていた。佐久間博史、と書かれていた。

 ありがとうございます、と一礼して、教授室へ向かう。

 教授室は、学生らの居室や実験室の横を抜けた一番奥にあった。扉は開けっ放しだった。顔だけ出して中を窺うと、つい先刻まで壇上にいた塚原清志の姿があった。手を伸ばし、扉をノックする。

 どうぞ、と返事がある。顔を上げた塚原は、意外そうに目を瞬かせた。その反応でわかった。会場での作戦は功を奏していて、塚原は、飾っているわりに熱心に講演を聴いていた制服の女子高生が印象に残っていたのだと。

「あの……私、先程の講演を聴いてた者で」

「ええ。熱心に聞いてくださってたね。……どうぞ、中に」

「し、失礼しまーす」鞄を抱えて部屋におずおずと入り、ドアノブに手を伸ばす。

 すると、塚原が言った。「戸はそのままでいいですよ」

「え……気が散りませんか?」

「いえ、最近は、色々と問題になるので」

「色々?」

「大学職員特有の様々がありまして……」塚原は大きな顔で苦笑いする。「ご質問、でしたっけ?」

 演出だ。女子学生とのトラブル防止であることくらい、知らないわけがない。わからないふりをして小首を傾げておけば、警戒しなくていい相手だと思わせることができる。とかく性的な物事への無知は、他のことを差し置いても幼いという印象を与える。

 思い出したように、今日着てきた制服を採用している、都内の制服が可愛いと評判の女子校の名と、羽原紅子が作った出鱈目な姓名を名乗り、怜奈は言った。

「TSシリカについて伺いたくて。スライドの……えっと、中盤の」

「どのページかな。……今開きます。少し待ってね」

 塚原はノートPCを開く。

 想定通りだった。

 他の項目への質問だったら、塚原は頭の中にある知識で答えただろう。だが、TSシリカだ。彼自身の研究成果であり、講演のスライドの中でも、他より詳しく突っ込んだ内容が記されていた。様々な技術や見解に公平を期し、基礎的な知識の敷衍を目的とする講演であろうとも、自分の成果にはつい贔屓をしてしまう。そんな研究者特有の子供っぽさ、換言するなら誇りや情熱のようなものが見て取れた。

 もしもTSシリカについて質問されれば、塚原はスライドをもう一度開き、あらゆる質問に正確に、相手が理解できる限り詳しく答えようとするに違いないと踏んでの質問だった。

 塚原がPCを向けてくる。執務机の横まで怜奈は歩み寄り、その画面を覗き込む。

「えっと……これです。TSシリカの、放射性物質捕集効率について」

「はい。ああ見えて、高効率で……」

「汚染水を通過させる条件って、どんな感じなんですか?」

「感じというと?」

「たださらーっと通過させるのか、ある程度、浸すっていうか……TSシリカの中で汚染水を滞留させて、吸着させる時間を取るのかとか、そういう、実際の使用状況のイメージみたいなの、教えて欲しいです」

「なるほど。そこは敢えて、今回の講演からは省いたところで……」塚原は別のスライドを開こうとして身を乗り出し、そして少し身を引く。

 距離が近かった。画面を覗き込んだ怜奈の背後に塚原がいるような格好だった。

 内心ほくそ笑む。つい一〇分ほど前に、トップノートが爽やかなグレープフルーツ系の香水を首筋に乗せていた。いわゆる女の子の匂いのような、甘い香り。『恋が叶う香水』というキャッチコピーと、不意に香れば人を無条件に思春期へと引き戻す、という文言を女性誌で見て購入したものだった。特集は『男子受けする愛され香水』だった。

 塚原が表示させたのは、より詳細な、学会発表に使っているらしきスライドだった。パイプの直径を一定として、汚染水の流速とTSシリカの厚みや数を振った実験結果である。

「実は……一般に言われている従来比二〇倍とか捕集効率九九.九九九九%といった数値は、このように限られた実験環境で得られた数値なんです。実際の新型多核種吸着塔では、ここまでの数値は出ていません。それでも、従来に比べてハンドリング性は圧倒的に向上していますし、吸着効率にしても、海洋放出して全く問題ないレベルです」

「でも、そこを責め立てる人はいそうですね」

「そう、そうなんです」腕組みで頷く塚原。「とかく実験、研究、開発の現場では、事前に伝えられた数値通りの結果が得られないことが多い。現場にいない人はそれを失敗だとか、欠陥だとか言いますが、元々保証値ではなく最適環境での実績値です。それがいつの間にか保証値へとすり替わり、話が違うじゃないかと責められる。……まあ、どの世界にもあることですよ」

「宣伝しすぎたってことですか?」

「マスコミが勝手に、最適環境での実績値と保証値を区別せずに書き立てて盛り上げておいて、達成しないと今度は手のひらを返して責め立ててくるんですよ。盛り上げられた大衆と一緒に」

「それは……大変ですね」

 全くです、と塚原は苦笑いする。「答えになりましたか?」

「はい! ありがとうございます」深々と一礼して怜奈は続ける。「それで……お願いがあるんですけど」

「お願い?」

「講演資料を頂きたくて。難しいなら……我慢します」

 身構えていた塚原は破顔する。「もちろん、差し上げます」

「本当ですかっ?」

「ええ。過去の講演の分は研究室のウェブサイトからダウンロードできますから」

「やった、ありがとうございます! じゃあ、これに……」怜奈は鞄から小物入れを取り出し、そこから更にUSBフラッシュメモリを取り出し、渡そうとする。「あー……ごめんなさい。その……私に、やらせてもらってもいいですか」

「何を?」

「えっと……これの中、プライベートな写真とか入ってて」

「ああ、そういうことですか。どうぞ」塚原はPCを差し出した。「デスクトップに今日の日付、講演資料というファイル名でありますよ」

 悟られないよう、密かに呼吸を整える。

 机の横へ回り込む。塚原から、PCの液晶画面の角度は九〇度。対面まで回してくれなかったのは忌々しいが、十分だった。見えないとは思うが、念を入れておくことにする。

 メモリを差し込み、エクスプローラが立ち上がる。「これかな?」と呟きつつ、デスクトップを探す。そして、流れた髪を片手で掻き上げて、耳にかける。

 狙い通りに目をよそへ向ける塚原。仕草で動揺させ、香水の匂いを立たせる。その隙に、メモリに保存されていたプログラムをPCの可能な限り深く、目につきにくい階層へ放り込み、走らせる。

 羽原紅子が用意したスパイウェアである。

 コピーと起動の間に講演資料を最大化して開き、再確認するふりで時間を稼ぐ。

 完了――わざと取り外し処理にもたつきつつメモリを抜き、PCを返す。

「すみません。お忙しいところ、ありがとうございました」

「いえ。こちらこそ、わざわざ研究室までいらしてくださって、ありがとうございます」塚原は焦ったような様子で机の引き出しを開け、数枚の印刷物を取り出す。「これ、次回講演の案内です。できれば、学校のお友達などに勧めてくださると嬉しいです」

 受け取りつつ応じる。「私、友達少ないので……期待しないでくださいね?」

 そこをなんとか、と笑う塚原。騙したことに気が引けるほどの、人のいい笑顔だった。

 もう一度お辞儀をして、開放されたままの扉から廊下へ出る。

 任務完了、後は普通に、怪しまれないように、速やかに撤収するだけ――油断したつもりはないが油断していた怜奈に冷水を浴びせるように、よく聞き知った声が聞こえた。

「え? マジ? 女子高生? 真面目な子もいるんだなー。想像できんわ。ハカセみたいな? マジそういう子って別の世界に住んでるっていうか……」

 現れた少年。傍らには、先程道案内をしてくれた、佐久間博史青年の姿がある。

 明るい茶色に染めた髪は前髪が上げ気味。大柄ではないが引き締まった身体をラフな服で隠し、ぱっちりした邪気のない瞳の、一六歳の男の子。

 その底抜けに明るく人懐っこい笑顔が、凍った。

 軽く会釈。互いに他人のふりをしてすれ違う。

 灰村禎一郎だった。

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