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人を騙すには弱みを見せること。私はあなたより弱い存在ですとアピールすること。直前に強がる素振りを見せると尚よい。そのギャップに人は夢中になる。
逆に言えば、弱みを見せれば人はつけあがる。この人にとって自分は特別な存在なんだと勘違いする。だから片瀬怜奈はなるべく他人に弱みを見せないように振る舞ってきた。自分の顔貌が人より整っていると自覚し、多くの人は顔貌が整っている人から特別な存在と思われたがっていると気づいてからのことだ。そして同じ頃、特別な存在と思われたくて敢えて弱さをアピールする人たちに気づいた。彼女たちと同じになりたくないと強く思ったのだ。
片瀬怜奈が竹内千花を騙すために切ったカードは、「私は被害者である」だった。
三星会事件で今にも拉致されようとする子供たちをこの目で見た。多くの人が目を向けようとしないが、苦しむ子供たちは意外にも身近なところで実在しているのだと知った。だからそんな子供たちに救いの手を差し伸べるNPO法人の活動に興味を持った。
そんなストーリーを話せば竹内千花はもうこちらの思うがままに動く駒だった。
大体の人は、どんなことにも自分の中で物語を作って納得する。起承転結。動機、行動、結果。事実よりも納得しやすいことのほうが大事だ。だから真実が半分含まれた嘘に騙される。
千花のおかげで、張本銀治への調査は予想以上にスムーズに進んだ。専門。過去の研究。フィールドワーク。興味の対象。〈スペクター・ツインズ〉との関係性が白井享を通じて明らかになった時点で、羽原紅子の物言いを借りるなら「
竹内千花は、知りすぎたのである。
張本が行方不明になってから、〈リトル・サポート〉は数件、彼と連絡を取りたいというメールや電話を受け取っていた。代表の指示もあって全て無視する対応を一貫させていたが、その内のひとりに、千花と怜奈は連絡を取った。
まだ一〇代の少女だった。張本に騙された、と彼女は言った。それから語られた内容は、千花にとってはきっと衝撃的で、だが怜奈にとっては予想を上回らないものだった。
羽原紅子が薄笑いで語った、張本銀治のWIREアカウント周辺の調査で見出された、売春の斡旋。その被害者だったのである。
口コミや街中の張り紙だけで電話番号を広め、ある程度の期間で番号を捨てて、店名ごと変更してしまう闇デリヘル。未成年や不法滞在の外国人など立場が弱い女性たちを集め、店側もリスクを負っているんだと脅迫して売春させる。大半は本番行為を伴い、NSを強要されることもある。もしも客の男が、この子はサービスが悪かったと電話したら寄る辺を失ってしまう少女たちは、男の要求を拒めない。
そんな少女たちはひとりやふたりではなかった。張本によって、地獄から救われたかと思ったら更なる地獄に叩き込まれた少女たちの連絡先が芋づる式に次々と手に入った。
警察に相談しませんか、と持ちかけたが、千花は聞かなかった。
「張本さんが犯罪に加担しているなら止めてあげないと」と千花は繰り返した。
恋は盲目、という言葉を思い出さずにはいられない。ここに至って、張本は善人だが脅されているとか、自分の意志ではないのだと考える方が不自然だ。だが千花の頭の中では、善人の張本さんという前提が決して崩れない。他のどんな事実が張本の悪行を証明しても、その事実の方が間違っていると考えてしまう。
言うまでもなく、愚かしい。
だが同時に、そうも人を思える彼女のことを羨ましいと思った。
調査にのめり込んでいく千花。三日と空けずに新たな少女と連絡を取り、話を聞き、メモを取り、レポートへと起こしていく。懸命な千花を前にひとりだけ撤退してしまうのも不自然で、既に必要な情報は得られているにもかかわらず手を引くことができない。〈ファンタズマ〉の追跡が迫っている今、不必要に敵陣に身を置くべきではなかった。
そんなある日のことだった。
援デリ業者に雇われ、出会い系アプリで釣れた男のところへ派遣され、身体を売って売上を店と折半している、という少女から話を聞いていたときのこと。彼女が、気になることを口にした。
「張本さん、最新女の子じゃなくておっさん集めてたんでしょ?」
どういうことですか、と思わず前のめりになって怜奈は訊いた。
張本が集めていた大人の男といえば、先日隅田川沿いの廃工場へ集められていたような労働者だ。彼らを使って〈ファンタズマ〉が何をしようとしていたのかは、まだ明らかになっていない。また、労働者本人はまだ〈ファンタズマ〉と繋がりを持っている可能性があり、安易な接触はできず、また彼らが悪事に手を染めたわけでもないためブギーマンによる尋問にも難があった。
だが、〈リトル・サポート〉の活動経由でなら、接触しても不自然ではない。
すると少女は、渡りに船のことを言った。
「今そのおじさんにサポしてもらってるし……連絡先教えよっか?」
願ってもないことだった。
張本の更なる犯罪の片鱗とあっては千花も無視できなかった。早速連絡を取り、日中、人目が多く逃げ道が多い店を指定してその男と面会した。
男は、これまでに張本が集めた人々と同様、ロスジェネ世代のようだった。身なりは綺麗とは言えず、型落ちで季節に合わない色のスニーカーは薄汚れていた。少女たちを金銭的に支援できるほど裕福にはとても見えなかった。
怜奈と千花を交互に見ては下卑た笑みを浮かべる男。だが、張本の名を出した途端、顔色が一変した。
「張本の仕事だけは断る。受けて、ボロボロになったやつを何人も知ってるんだ」
「それは、女の子ではなく?」
訊く千花に、男は青ざめた顔で応じる。「男も、女も関係ねえ。あいつの仕事をしたら人間が壊される。張本は、悪魔だ」
「ですが、張本は私たち〈リトル・サポート〉の……」
「お姉ちゃんはさ、張本の本当の顔を知らねえんだよ」
言葉の割には、自分が買っている少女に売春を斡旋した張本人が張本であることを、男は知らない様子だった。
「紹介していただけますか?」激昂しかかる千花を制して、怜奈は言った。「その、人間が壊されたという方。是非お会いして、お話を伺いたいです」
「何人も知ってる。何人も。是非、お話を伺ってくれよ。へへへ……」
男が何かを求めているのが言わずとも伝わった。千花に合図すると、彼女は渋々と言った体で、鞄から封筒を取り出し男へ渡した。
男は、すぐに金額を確かめると、満足気に言った。
「じゃあ、とっておきの壊れたやつの居場所、教えてやるよ」
「……で、俺にお声がかかった」
そういうこと、と片瀬怜奈は応じた。
試験休みの休日。道哉は怜奈と連れ立って、赤羽の駅前を訪れていた。生活感のあるごみごみした路地に、背の低い建物。駅ビルを始め新しい建物も見えるが、放置自転車の山が新しくなることへの抵抗勢力であるかのように積み上がっている。
張本からの仕事を断り、少女相手の買春行為に手を染めていた男から得られた『とっておきの壊れたやつの居場所』がこの赤羽だった。状況が許せば怜奈単独で向かわせるところだが、可能な限り単独行動は避けるよう紅子は全員に指示していた。
久々に髪下ろした、と怜奈は言った。ここ最近、外出といえば竹内千花という〈リトル・サポート〉メンバーとの調査ばかりだったのだという。そのせいか、学校へもしばしば髪をひとつにまとめた姿で登校していた。
スクランブル交差点を渡り、アーケードの商店街へと足を踏み入れる。よく、シャッター通りとなった商店街の話を小耳に挟むが、ここは例外のようだった。人と人との距離が近い下町の雰囲気が、程よくよそよそしい都心環状線西側に育った道哉には新鮮だった。
部活帰りなのか制服の中学生。ベルを慣らしながら走る買い物の自転車。標語の記された横断幕が薄汚れている。店からの威勢のいい呼び込みの声。アーケードの下に生活が閉じ込められているようだった。
「特訓はどう?」と怜奈が不意に言った。
「殺されないくらいにはなった」
「何それ」
「刃物って、点で来ると思ってたんだけど、実際は面なんだよ。だから点を逸らすんじゃなく、面を乱す。そのための滑刀術っていうか……」
「わからない」
「俺だってわからない」
「ふぅん……なんかいいね、そういうの」
「いいの?」
「スーツ改造の支度はしてあるから。訓練が一段落したら、例の防具を持ってきてね。……ここだ」たった今までの微笑みを消して、怜奈はスマートフォンの画面と商店街に並ぶ店々のひとつに目線を往復させた。「こっちの小さい階段みたい」
スポーツジムだった。よく名を聞く大規模な全国チェーンではなく、個人経営のごく小さなジムのようだった。隣は薬局。理に適ってるような立地にどことなくユーモアを感じる。
すれ違うのがやっとほどの階段を上り、筋肉を滾らせる血をイメージしたのか赤色基調の扉を開く。
室内は湿気が高かった。受付からでも、トレーニングに訪れているらしき男がベンチプレスに汗を流している姿が見えた。フロアは入り口の狭さとは対象的に広々していた。受付に人はいなかった。御用の方はこちらを押してください、と書かれたベルがあった。
「ここの清掃員だって話だけど……」怜奈はそう呟きつつ、遠慮がちに数歩前へ出て中を覗き込む。
すると、すぐ横のロッカー室らしき扉から、巨大な図体の、丸坊主の男が姿を現した。
驚いたのか、一歩下がる怜奈。
道哉は、その巨体の男の顔を見て、愕然とした。
即座に怜奈の肩を掴んで背中に庇い、構える。
男が、ようやく少年少女の存在に気づいたように、ゆっくりと目線を巡らせる。傷の目立つ顔。太い腕。だがかつて筋肉の塊だっただろうその身体は、だらしなく弛んで皺が寄っていた。色も青黒く、その姿は醜かった。
胸元の名札に『君島』と書かれている。
「まさか……アポロ君島?」
うー、とその男は唸り声を上げ、ファイティングポーズになる。浮腫んだ指にはまだ、鋼鉄のブラスナックルの痕があった。だが、肘窩には無数の注射痕。襲い掛かってくるかと警戒したが、動きは鈍重だった。
見間違うはずがなかった。
かつて葛西翔平を利用し、薬物製造施設を学校の理科室に作らせようとした新井一茂の部下として、ブギーマン・ザ・フェイスレスと拳を交えた元プロボクサー、アポロ君島だった。
道哉は構えを解いた。
「ああが、顔面潰ゥしのぉー、アポロぉーきき、きぃみぃーじまー」蝿が止まるほど鈍いシャドーのワンツー。腕にまとわりついた脂肪が揺れた。その表情は満面の笑みだった。「きょおーぅは誰の、顔つつつ、顔つぶぅーす?」
「〈ヴァーミリオン〉のせいなのか」と道哉は言った。「それとも、〈ヴァーミリオン〉を打たれてさせられた何かのせいなのか。お前は……お前たちのような人は、〈ファンタズマ〉に何をさせられた?」
やはり、うー、という唸り声を上げるばかりのアポロ君島。
道哉の背に隠れるようにしていた怜奈が姿を見せて、アポロ君島に対峙する。「あなた、元三星会の暴力担当でしょ? 事件時に収監されたと聞いてたけど、どうして……」
そこまで言ったときだた。
アポロ君島は怜奈を指差し、大音声の悲鳴を上げた。後退り、壁にぶつかり、その場で膝から崩折れて頭を抱える。客の男が何事かとこちらへ目線を向ける。
道哉は怜奈の腕を引いて、スポーツジムから足早に立ち去る。
歩く。深呼吸する。それでも、今目にした光景が目に焼きついて離れない。
アーケードの外れ辺りまで互いに無言のまま早足で歩き、信号でようやく立ち止まった。
「あれじゃ、事情聴取は無理か」
「あたしを見てた」怜奈は、スポーツジムのあった方を振り返る。「どうして?」
道哉は、怜奈の風貌を上から下まで改めて見やった。
スキニーな黒いデニムに白いトップス。クレーのロングカーディガン。控えめなメイクと、彼女自身にもこだわりがあるらしいストレートロングの艶やかな黒髪。
モノトーンの服に長い黒髪の、美しい少女。
道哉はこめかみを揉んで言った。
「〈スペクター・ツインズ〉だ。アポロ君島は、怜奈のことが〈スペクター・ツインズ〉に見えたんだ」
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