⑰
深夜。日暮里駅に程近い、集合住宅や小規模な営業所等が密集する地区に、息せき切って走る男の姿があった。無精髭に鋭い目。暗い色のスーツはネクタイが緩められている。色は浅黒く身体は大きい。後ろに束ねた髪も相まって気質の人間には見えなかった。
額に汗。手には拳銃。周囲は、まるで見えない手で取り除かれたように人気がない。壁を背に息を整え、街頭の明かりを避けるように男は走る。左右を見回し、追跡者の影を探す。
自分を探し、追う者たちがいることを、彼は知っていた。だが、その夜の追跡者は普段と違っていた。銃で武装して押し入るのではなく、最初に電話をかけてくる。次にセーフ・ハウスのベランダにごく小さな爆発物が投げ込まれる。そしてこれ見よがしにドローンが飛来し室内の様子を撮影する。
危険を感じ、現金と武器を持って移動すると、フードつきマントを被った黒ずくめの男が追いかけてくる。塀の上。電信柱の影。路駐の車の上。ビルの外階段。追いかけてくるというよりは、監視されているようだった。周りを見回すとどこかにいるか、どこにもいない。人混みに紛れると、誰かに肩を叩かれる。振り返れば誰もいない。
そうして逃げ込んだ街角だった。
営業終了した何かの事務所の駐車場。停められたライトバンの影に身を隠し、男は息を整える。
すると頭上に影が差す。クアッドコプター型の静音ドローンが滞空していた。
逃げられていなかったこと、同時に、明かりの消えた事務所の駐車場に車が停まっている違和感に気づき、慌てて立ち上がる。
それまでだった。
塀の上から黒ずくめの男が飛びかかってくる。フードの下は暗闇が蠢く。驚愕する間もなく銃を奪われ、ライトバンの影で組み敷かれる。
「白井享だな」と影の中から声がした。
距離感が失われ、どこから聞こえるのかもわからない。だが、黒ずくめの男が何者なのかはわかった。白井自身が以前仲間とともに襲撃し、装備と人員で圧倒的優位に立った上での奇襲にもかかわらず、返り討ちにされた男だった。
「ブギーマン。ザ・フェイスレス。貴様の方とは、意外だ」
「質問に答えろ」
「私は貴様の敵に追われている」と白井は言った。「敵の敵だ」
「〈ファンタズマ〉と〈スペクター・ツインズ〉か?」
「正しくは、違う。張本銀治だ。やつはあの方の娘を利用した」
「なぜ張本が、お前を追う? お前と張本、入江明の関係は?」
「共に部下だったが、思想が違う。私は入江さんの娘を表舞台に出すことには断固反対だった。それが入江さんの悲願に繋がることであっても。だが張本は行方不明だった彼女たちを探し出し、祭り上げた」
「入江の娘。〈スペクター・ツインズ〉が?」
「そうだ」
「知っていることを全て話せ。お前が〈ファンタズマ〉の敵であるのなら」
「私は貴様の味方ではない」
「俺はお前を理解できる。〈ファンタズマ〉に追われているなら、情報提供と引き換えにお前を護衛することもできる」
「貴様に理解されたくなどない。警護も不要だ。……手を離してくれないか。ザ・フェイスレス」
「入江の悲願とはなんだ」逆に力が強まる。「娘をリーダーにする理由はなんだ? ただの小娘が……」
「彼女たちはただの少女ではない。真の怪物だ」
「お前の目の前にいるのは?」
「貴様と同等かそれ以上の怪物だ。不幸にしてこの世に生まれ落ちた、現実から浮遊した存在だ」
「〈ファンタズマ〉がお前を追う理由は?」
「わからないか? 貴様を追うためだ。〈ファンタズマ〉は今、かつてブギーマンと関係したありとあらゆる人物を尋問している。私のような、旧三星会の……貴様の敵だった人間も例外ではない」
しばしの沈黙。そして抑えつける力が緩む。解放されるのか、と安堵したのも束の間、今度は胸元を掴んで引き起こされた。
「連中に会ったら伝えろ。直にこちらから出向くと」
「どちらが早いかな。彼らが貴様へと辿り着くのと。三星会との抗争以前から貴様は活動していた。遡り遡り最初の事件へと至った時、果たして貴様は顔のない男でいられるのか?」
ブギーマンはその問に答えなかった。代わりに腕を後ろから捻り上げ、人気のない表通りへと歩かされる。
耳元で囁くように、ブギーマンが言った。
「二〇歩だ。ゆっくり、二〇歩、振り返らずに歩け」
「振り向いたらどうなる?」
「お前を拷問するのが〈ファンタズマ〉ではなく、俺になる」
わかったよ、と応じ、背を向ける。ブギーマンが離れ、代わりにドローンが一基、背後に忍び寄る。
指示通りに歩く。
五歩。背後で車のエンジンのかかる音。
一〇歩。ドローンの飛行音が遠ざかる。
一五歩。振り返りたい誘惑に駆られる。
二〇歩。振り返る。
白井享の目に映ったのは、遠ざかるライトバンのテールランプだった。
全関係者の監視と護衛を羽原紅子は決断するも、人手と時間が足りなかった。
直近一週間だけで、旧三星会の構成員が何者かに襲撃される事件が、実に五件発生していた。その調査の過程で見えてきたのが、旧三星会構成員らの分裂だ。〈スペクター・ツインズ〉に従う派閥と、反発する派閥が存在するのだ。
前者は〈ファンタズマ〉へと合流。名古屋での目撃情報があるメンバーもおり、〈神の水滴〉の拠点襲撃にも、少なくない人数が参加したようだった。張本銀治は、彼らのまとめ役のような存在だった。
そして後者は、張本銀治と〈ファンタズマ〉に反発し、帰順を拒否した。彼らは組織だって行動することはなかったが、白井享はリーダー格のひとりだった。彼と同じようなポジションの人間は複数存在し、みな、一週間以内に何者かに襲撃されていた。
白井への事情聴取で、いくつか判明したことがある。
まず、張本銀治が戸籍のない子供たちを研究対象にすると同時に少女たちの売春を斡旋していた理由。これらはすべて、行方不明だった〈スペクター・ツインズ〉こと入江幻と像の姉妹を捜索するためと考えられた。
入江明は、この世に身分を証するものが存在しない、まさに幽霊のような男だった。そんな男の娘が行方不明とあらば、真っ当な生活を営んでいるとは考えづらい。誰に庇護されていたのかは不明だが、身分も後ろ盾もない少女が生活の糧を得るための手段として最短のものは売春だ。網を張るなら、自分自身が元締めになればよい。
三星会事件後の警察の捜査で、入江明はかつて小倉市内に住む三〇代の女性と交際・同居していたことが明らかになっている。娘がふたりいたが現在は行方不明。女性の方は五年前に自殺している。入江明の周囲には、似たような家族的人間関係が複数あった。日本へ溶け込むためのカモフラージュであり、娘も本当に娘であるか怪しい。まさかそれが実の娘であるばかりでなく、父親の後を継いで組織犯罪集団を率いているとは全くの想定外であり、羽原紅子のチェックを漏れていたのである。
一方、壊滅した非行少年グループ〈黒爪団〉の元メンバーに何者かが接触しているという情報も、灰村禎一郎からもたらされた。
何者かとはほぼ間違いなく〈ファンタズマ〉の手勢であり、渋谷を舞台に繰り広げられた一連のフェイク・ブギーマンズ事件の中心にいたのが灰村禎一郎だ。禎一郎本人にも危険が迫っていることは否定できない事実だった。〈ファンタズマ〉といえどさすがに未成年であるブラック・ネイルズの元メンバーに対してはいきなり暴行するようなことはなく、恫喝する程度だったことが幸いだった。
だが、どんな法則や傾向にも例外はある。
三学期の期末試験を来週に控えた日。元・ブラック・ネイルズのリーダー、野上善一が全身に暴行を受けて死亡した。
事件後彼はアルバイトをしながら定時制高校に通っており、非行少年が立ち直りかけたところに降り掛かった悲劇として、それなりに大きく報道された。だが、その事件を隅田川沿いの廃工場の炎上や都内で流通し始めた危険ドラッグ、ましてや名古屋市郊外で起こった武装グループ同士の衝突と結びつける者はいなかった。
そしてチーム・ブギーマンの全員が悟った。
〈ファンタズマ〉が憂井道哉に辿り着くのは、時間の問題であると。
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