「……君島のハゲ、まさか急性放射線症候群じゃなかろうな」報告を聞いた羽原紅子の表情は暗かった。「土橋信幸が被曝していたこと、そしてアポロ君島。私は今、〈ファンタズマ〉の目的について何よりも恐ろしい事態を想像している」

「勿体つけるな」と道哉。

 だが、紅子はじっと押し黙ったままだった。

 呼び出されて報告がてら、怜奈とふたりで向かった憂井邸地下室にいたのは、羽原紅子だけだった。禎一郎は活動自粛中。そして葛西は、緊急の連絡を受けてちょうど外出したところだった。

 彼が親しくしていた売人のカジバという男が、謎の武装集団に暴行を受けたというのだ。

「カジバは元、新井一茂の部下だ。つまり、葛西本人の身も危ない。……それで行かせたのか、と訊きたげだな。葛西本人の希望だよ」

「希望?」

「葛西に接触してくるだろう〈ファンタズマ〉構成員を逆に追跡し、やつらの拠点を明らかにする」

「可能なのか」

「葛西は手癖が悪いからな。冗談はともかく……怜奈くん、そんな目で私を睨むな。反省してしまうじゃないか」

 不愉快そうな目をじっと紅子へ向けていた怜奈が応じる。「別に反省しろってわけじゃ……」

「そうか。じゃあ反省しない」

「反省した方がいいとは思ってるからね、一応」

「さておき……葛西が我々のメンバーであることは、まだ〈ファンタズマ〉も知るまい。チャンスだよ、こいつは。いざとなれば私も現地へ行く」

「現地ってどこだ?」

「まあ待て。これがカジバから葛西への音声通話の録音だ」

 紅子は卓上スピーカーとPCを無線接続。程なくして、息せき切った男の声が流れ出す。

 ――先生、先生ですか。この電話を聞いたら、すぐに身を隠してください。あいつらです。〈帽子男〉の仲間に俺、襲われて……ブギーマンについて知ってることを全部話せって。先生も、あの事件でブギーマンにやられたでしょ。帽子の奴ら、見境ねえ。ヤバすぎます。

 呼吸を整えるような音と、痛みに耐えるような呻き声。

 だったら電話してくるなって話だよ、と紅子は笑う。

「葛西の端末にはもう、〈ファンタズマ〉側の何者かが放ったらしきスパイウェアが潜り込んでいる。カジバとの関係が明らかになった直後だ。古典的だが有効な、標的型攻撃での感染だったよ。さすがに葛西も気づいたが、泳がせている。連中の尻尾を掴むためだ」

「じゃあこの録音はどうやったの?」と怜奈。

「キー操作までいちいち送信するタイプのスパイウェアだったからな。葛西のやつ、機転を利かせたよ。スピーカーホンで再生して、隣に別のICレコーダーを置いた。古典的だが、有効な手だ」

 ふぅん、と感動の薄い返事をする怜奈。構わず、紅子は再び再生を続ける。

 ――渋谷のコインロッカーに現金を隠しました。例の〈ヴァーミリオン〉、捌いて金にしてやったんですよ。へへっ、連中の鼻を明かしてやったってもんでさあ。五〇〇万あります。しばらく凌げるでしょ。それに先生、お金に困ってましたよね。慰謝料でしたっけ。それで足ります?

「慰謝料って……前の奥さんとの離婚のか?」と道哉。

「そうそう。話を聞くに、結構な悪女だったらしくてな」紅子は喉を鳴らして笑う。「ま、悪女というのは私の抱いた印象で、葛西自身は全く悪く言わないがな。そこがあの男の悪いところだ。悪は糾弾しなければな。地の涯までも追い詰めるのさ」

「本題に戻りましょう」と怜奈がやや冷えた声で言った。

 紅子は肩を竦め、再生を続ける。

 ――鍵は例の場所です。ほら、新井さんとよく取引に使った、自販機の上。コインロッカーは、駅直通の映画館の下にあるやつです。落ち着いたら、また連絡するっすよ。それじゃあ。

 再生が止まる。

 沈黙を破って道哉は訊いた。「この録音は、〈ファンタズマ〉も聴いてるって考えていいのか?」

「通話直後に不審なデータ通信があった。まず、聴いてると考えていい」

「その自販機をやつらは知っている?」

「どうだろうな。いずれにせよ、接触はコインロッカーの方だろう。このカジバという男、どうせなら人目につきやすいところを選べばいいのに……」

「コインロッカーの場所もわかっているのか?」

「駅直通の映画館の下といえば渋谷に一か所しかない。灰村にも確認した」

「あー、あそこ」と怜奈。「確かに薄暗いし人通りも少ない」

「今、葛西先生は?」

「自販機の方へ向かっている。しばし待て」

 それだけ言うと、紅子は椅子を繋げて仰向けに寝転がる。

「寝るのかよ」

「頭が資本だからな」

「身体じゃないんだ……」怜奈が唇の半分で苦笑いする。

「ああ怜奈くん、そこのPCのいつものフォルダに次の潜入対象の資料を入れておいた。見ておいてくれ」

「次はどんな?」

「こちらも古典的な標的型攻撃をせっせとやって見つけた、連中の協力者らしき相手だ。正直、あまり考えたくないがな。〈リトル・サポート〉は、早々に手を引こう……」

 言うが早いが寝息を立て始める紅子。

 怜奈はPCに手を伸ばした。

「えーっと、何々……城南大学理工学部、原子核工学科……って道哉知ってる?」


 現場に設置されている監視カメラに電脳探偵の手を借りて侵入。今回は露見のリスクが高いとして、葛西翔平本人にはカメラや発信機の類は一切着けず、羽原紅子支給のスマートフォンも携帯させずに移動させる。

 葛西の姿が渋谷駅のカメラに映ったのを合図に、アラームが鳴って羽原紅子がむくりと身を起こす。彼の移動を追って次々と立ち上がる監視カメラのウィンドウが大型のモニタを埋めていく。

 その画面を寝ぼけ眼で睨みながら、羽原紅子が言った。

「……電脳探偵のやつは、〈I文書〉を試用させられたのだと、私は見ている」

「試用?」

「恐らくは、入江光によってだ。あの文書がどこまでユニバーサルなものなのか、テストしたんだ」

「入江明から直接受け継いだわけじゃない人でも、力を引き出せるかってこと?」

 寝癖を片手で直しつつ紅子は応じる。「珍しく要領を得るじゃないか、憂井よ」

「お前が他人を褒めるなんて」

「そういう日もあるさ」紅子は画面をじっと睨んでいる。「あの女の〈I文書〉は時限装置つきだった。それでもこれだけのことをやってのけるんだ。やつの監視カメラハッキングときたら、電車の中だろうと私企業の建物内だろうと、お構いなしだぞ。ウェブカメラの類だって片っ端から侵入する」

 紅子はそこまで言うと、室内へ盗み見るような視線を走らせた。片瀬怜奈は次の潜入先資料を収めたタブレット端末を手に仮眠用のベッドに寝転がっていた。話し声は聞こえない距離だった。

「相談なんだが……」

「使うなよ」道哉は即座に応じた。

「……そう言うと思ったよ、君なら」

「何があっても、お前は〈I文書〉を使うな。あんなものなしでも渡り合ってみせるのが、お前のプライドだろ」

「自信がないんだよ」

「お前が」

「私は君を〈ファンタズマ〉の手から守りきれないかもしれない。ひとたび顔のない男の正体が露見すれば、君は終わりだ。人生一〇〇年、残りの八〇年を君は失うことになるだろう。それを防ぐためならば、私はこの手を悪に染めることも厭わん」

「やめろと言っても」

「聞く気はない。私には君が大事だ。他の何よりも」

「俺たちが万能じゃないことくらいは、俺だってわかってる」

「せめて地図でもあればな」

「地図?」

「地下通路の地図だよ。最近、新規の通路を探索する余裕が全くないんだ」

「ないものねだりをするな。お前が魔法遣いじゃないってことくらい、俺にもわかってる」

「〈I文書〉を使えばなれるぞ。魔法遣いに」

「けじめは着ける。お前があれを使うなら」道哉はひと呼吸置いて続けた。「俺たちは終わりだ」

「そうならないことを祈るよ」紅子はノートPCに手を伸ばし、スピーカーホンのボタンを押して言った。「灰村、聞こえるか」

 他ならぬ灰村禎一郎の声が返る。「はいはい。現場周辺周回してます」

「大丈夫なのか?」

「俺が一番適任ですから」と禎一郎は応じた。「大丈夫ですよ。俺、逃げ足には自信ありますから」

 葛西を脅迫しに現れるだろう〈ファンタズマ〉構成員を逆に尾行する。道哉は明らかにそのような任務に向いていない。怜奈は悪目立ちする。紅子は当然苦手で、最適任が禎一郎なのは確かだった。

 顔を見られるなよ、と紅子。了解、と軽快な返事があって、禎一郎からの通信は一旦途絶える。

 葛西の姿を、件のコインロッカー直上の地上店舗に設置された監視カメラが捉える。左右を見回し、意を決したように地下へ足を踏み入れる。

 ほぼ時を同じくしてホットラインを繋いでいた電脳探偵から連絡――「この男性を尾行している人が二名。どっちもかっちりしたスーツね」

 たった今葛西を捉えたのと同じ監視カメラにスーツの男のひとり目が映る。躊躇いなく階下へ。同時に地下の駅から直結する通路にもスーツの男。

 コインロッカーを監視するカメラに映像が切り替わる。葛西がポケットから鍵を取り出しロッカーを開く。すると地上から降りた方の男が葛西の右後ろで立ち止まった。右手は上着の内側。恐らくは拳銃。そして何事か囁く。葛西が肩を竦ませる。

 紅子が指示を飛ばす。「灰村。葛西が拉致か暴行されるようなことがあれば……」

「俺が介入します」禎一郎の回線越しの声。

 地下から葛西へ接近していた方の男は通路の入り口で立ち止まり、周辺を監視する。監視カメラがズームイン。上着に手の男と葛西が言葉を交わしている。

 やがて男は葛西から離れる。紅子が安堵の息をついた。「葛西のやつ、無茶をやるんじゃないかとひやひやしたぞ」

 男ふたりを監視カメラ映像が追う。合流はせず別方面へ歩き始める。禎一郎が一方の背後から追跡。すると五分と経たないうちに、白の高級ミニバンが男を一旦追い越して路駐。男が乗り込み、再び発車する。続いて大回りしてもう一方の男の方も回収する。

 禎一郎から通信――「車体下部にカナブンをつけました。俺は撤収します」

「ご苦労。後は私と電脳探偵で追跡する。帰宅しろ」紅子は満足と不満が半分ずつ入り交じったような複雑な顔で、腕組みして顔を上げる。「今回はカナブンの回収をせず、位置情報発信だけをさせる」

「そのくらいのリスクは取ってやるってことか」

「まあな。……さて、これで何が出る……?」

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