それから数日後の午後。新宿西口から少し離れた、都庁を望む路上の一角に、羽原紅子の姿があった。

「おい、連中はまだか。私は寒いのが苦手なんだ」

 マキシ丈スカートにムートンブーツ、厚手のコートでマフラーに首を埋めるようにした紅子がインカムへ向け呟くと、電波の向こうで灰村禎一郎が応じた。

「鍛え方が足りないんすよ。一緒に走りません?」

「お断りだ」

「そう言わずに」

 応じた禎一郎は半袖のフードつきパーカーにスウェットパンツ、スニーカーという出で立ちで新宿中央公園の外周を流していた。

 同じようにランニングをする市民らに紛れて、曲芸とは程遠い速度で走る。だが、聴くのはランニング向けの音楽ではなく、『集団面接』の集合場所をそれぞれに監視するチームの通信だった。

「今日じゃないと困るよ。有給取るの大変だったんだから……」

 紅子からほど近い位置のコインパーキングにライトバンを停めている葛西翔平が応答した。後部にはスーツ、電動バイク、無人機の遠隔制御装置一式、通信設備、武器、爆発物が満載。葛西自身は市販の作業着に身を包み、いかにもどこかの出張エンジニアという様子だった。

「そういえば、いいんですか」と道哉は言った。「野々宮先輩、そろそろ国立の二次試験でしょ」

「気が気じゃない」

「すいません……」

 紅子が口を挟んだ。「その野々宮という女、男にかまけて本業を疎かにしないだけまともだな。淫行野郎には勿体ない」

「女って」道哉は思わず苦笑する。

 愛車のゼファーχを二時間無料のバイク駐輪場に停めた道哉は、ソフトプロテクター入りのジャケットとオーバーパンツに身を包んだ完全装備。ヘルメットにはハンズフリー通話キットを仕込めるよう改造済み。もちろんツーリング仲間との連絡用などではなく、チームとの通信用である。

「羽原、そっちは?」

「徐々に集まってきた」と紅子。「お、私がスパイウェアを仕込めた端末の反応がある」

「じゃあ尾行は不要かなあ」呑気に言う葛西。

「そーですよそーですよ、無敵のハッキングで全部なんとかしましょう」と禎一郎。

 道哉は携帯電話に目を落とす。共有された画面には新宿駅西口周辺の地図。赤い点が三つ集中していた。

「そういえば」とまた禎一郎が言った。「今日は、怜奈さんは……」

「予定通り学校に行ってもらった。さすがに三人ともはまずいだろうって、羽原が」

「私と憂井は赤の他人だからな」紅子は喉を鳴らして笑う。「何か訊かれても、怜奈くんの方がうまくやるさ」

「また何か入れ知恵したのか」

「憂井が欠席な理由を訊かれたら『昨夜激しくしすぎた』と言うようにと」

「馬鹿、本当に言ったらどうするんだ。あの人頭のネジが飛んでるんだから」

 確かに、と応じた紅子だったが、急に声音を変えた。「くそ、そういうことか」

「どうした」

「車が来た。セダンだ。後ろにマイクロバス……連中、面接参加者の携帯端末を全部回収している。道理で土橋の消息が面接以降途絶えたわけだ」

「え、なんで。映画でも行くんすか」

 呑気に応じる禎一郎に、葛西が言葉を挟んだ。「追跡を警戒しているんだ」

 そうこうする内に地図上の、参加者の携帯端末から発せられる位置情報のマーカーが遠ざかっていき、コンビニエンスストアの前で途絶える。

 一方でマイクロバスは、所在なさげに屯していた労働者たちを飲み込んでいく。彼らは、ともすれば社会とつながる唯一の手段かもしれない携帯電話を奪われている。

「全て物理的に破壊された」と紅子は見立てる。「マイクロバスが発車する。〈カナブン〉を飛ばすぞ」

「あちらの人数は?」

「セダンに運転手含めふたり。マイクロバスには運転手と……」

「羽原?」

「〈〉。張本銀治だ」紅子の声が緊張を帯びた。「ここからは流動的だ。連絡は密に取れよ」

 三方から了解の声が返った。

 羽原紅子の掌から、三センチメートルほどの甲虫型の機械が飛び立つ。超小型な外観だがカメラと無線インターフェイスに加えGPS発信器をを搭載し、スマートフォンからの遠隔操作が可能。ただし、バッテリ容量の問題で稼働時間が最大一五分程度しかないことが弱点である。

 通行人を装った羽原紅子は、道路を挟んだ対岸からその〈カナブン〉を操作。歩きを止めず、ARゲームに熱中しているようなふりで操り、マイクロバスのルーフに着陸させる。

 集まっていた労働者の全員がマイクロバスに乗車。張本銀治は一旦降車すると、戯けた仕草で帽子を被り直す。感情の現れない一重瞼の瞳が周囲を一瞥した。

 張本が改めて乗車。扉が閉まり、マイクロバスは発車する。その頭上を新宿警察署から発進したと思しき警察のドローンが飛んでいく。

 〈カナブン〉から発せられるGPS情報が全員の端末に共有される。

「起動して待機していたからだな、バッテリが恐らく保たん」多少息の乱れた紅子の声。「セカンド、フォローしてくれ」

「了解」

 方向転換、急加速。新宿中央公園を大型魚類のように回遊していた灰村禎一郎が、放置自転車を足場に歩道橋へ飛び乗り、地面を這う蛇のように姿勢低く疾走する。一本横の通りまで接近すると、GPSを確認しつつ周囲を伺う。

 マイクロバスが、たった今禎一郎の通過した歩道橋の下を通って交差点で信号待ちのため停止。禎一郎は、一階が喫茶店になっている集合住宅を背に一瞬呼吸を整え、可能な限り先回りするためさらに移動する。

「ファースト、そっち行きそうっす」

「わかった。一旦こちらで引き継ぐ」

 道哉はヘルメットを被り、バイクを押し出し跨る。スマートフォンをハンドルから生やしたホルダーに固定し、道を検索するふりをしてその場で待機する。

「葛西と合流した。これから追跡する」と紅子。「セカンド、〈カナブン〉1号の回収を頼む。そこの眼科の裏手に駐車場があるから待機しろ。――ファースト、〈カナブン〉2号をつけるまでは君が頼りだ、見失うなよ」

「でも、バイクだぜ。どうやったって目立つ」

「あちらもまさか火の玉ゼファーが尾行してくるとは思わんさ」

「そう信じるよ」

 激しいが整った息遣いとともに禎一郎の声。「こちらセカンド。位置につきました」

「よし、ファーストはいつでも出られるように。三台開けて追跡しろ。セカンド、バスの左折に合わせてカナブンを戻すぞ……来た!」

 道哉は跨ったゼファーχのキーを回し、スイッチを押す。セルフスターターでエンジンに火が入り、空冷直列四気筒の忙しないアイドリング音が響く。半クラッチでそろそろと前進して一時停止。ヘルメットのバイザーを下ろす。〈カナブン〉から発せられていたGPS信号が車道を外れるさまがハンドルバーに固定したスマートフォンに表示される。

 当の〈カナブン〉はごく小さな羽音を上げつつマイクロバスのルーフを離れ、左右へ蛇行しつつ歩行者の上空三メートルほどの高度を通過する。

 いくら個人のドローンが多数飛行し航空法の規制が有名無実化した現代といえど、新宿のような大都市の真ん中で回転翼型のドローンを堂々と飛ばしていては警察沙汰になる。羽原紅子が利便性を犠牲にしても甲虫型のステルスドローンを選択した理由であり、鳥型、蝶型などのドローンも秋葉原などでは現在も多数市販されている。

 そして〈カナブン〉は二階から上が住宅になっている眼科の裏手にある駐車場へと侵入。直後にバッテリ切れに陥り、発せられているGPS信号が途絶える。失速して落下――数秒して、灰村禎一郎の声がチーム内通信に乗った。

「捕まえました。セーフです」

「よし、でかした」と紅子。「セカンド、一旦こちらと合流しろ」

「了解」

 ほぼ同時に道哉の前を問題のマイクロバスが通過。車列が途切れるのを待って発進し、追跡を開始する。間は2トントラックとハッチバック型のコンパクトカーと、セダンが一台ずつ。

 見えるようで見えず、見えないようで見える。だが思ったよりも、追尾は簡単だった。

 不安と害意だ。

 そのマイクロバスからは、他の車両からはほとんど感じられない感情が溢れ出していた。肌を焦がす酸のような異様な空気が、目で見ずとも察知できた。ヘルメット越しでも関係なかった。

「追尾はしばらくファーストに任せる。どうだ、憂井」敢えて符牒を無視して紅子は言った。「見えるか、

「やれると思うが、バックアップは頼む」

「頼りないな」

「いつも自信満々のお前がおかしいんだよ」

「私はお前なんて名前じゃない」

「それと、羽原」

「なんだ」

「俺のこういうのを、計算に入れるな。次も感じ取れるとは限らない」

「心しておくよ。次があればな」と紅子は声音を変えずに言った。

 高速道路に乗られることを警戒していたが、マイクロバスが選んだのは下道だった。中央線を跨ぎ、新宿から山手線の外側に同心円を描くように環状六号線を進む。時折渋滞を避けて横道に逸れ、一方通行の細い路地を進む。

 バスから目が届かない距離を保つ道哉のゼファーχ、道なき道を走って追跡する禎一郎、そして間をフォローし一五分間だけGPS情報を発信する紅子の〈カナブン〉。

 東武東上線を越え、大きく東へ。都電を跨ぎ、東北新幹線の高架を潜る。

 そうして辿り着いたのは、隅田川沿いの小規模な工場だった。町工場というには大きいが、大工場というには小さすぎる。稼働している様子はなく、窓は割れフェンスは錆びていた。入口には立入禁止の札が下がっていたが、会社名すら読み取れないほど朽ち果てていた。

 周辺は似たような建物ばかりであり、平日の夕刻にもかかわらず人気がなかった。あらゆる産業は変革を強いられ、人も土地も変わる。効率化の名の下に東京は本来持っていた多様性を失い、製造業はすべて地方へと移る。

「ま、これもオリンピック以後の我が国の姿だよ」と羽原紅子は言う。「東京一極集中の是正と地方創生を推し進めても、消費者や企業の本社は東京にしがみつく。切り捨てられるのは弱い立場の産業……多くは伝統や、地域の繋がりによって支えられていたものたちだ。そしてそれが失われた隙間にはグローバリゼーションの都合の悪い側面としてのカネを保たない外国人が入り込み、犯罪を健やかに育む土壌となるのさ」

「講釈はいい。使えるのか」と道哉。隅田川の対岸でバイクを降り、周辺の地形を確認していた。

「人目はないな。いつも同様の支援を約束するよ」

 そう応じた紅子は、葛西ともども数ブロック先の量販店駐車場に停めたライトバンの車内。

 道哉の頭上で物音がする。自転車置き場の屋根に、どこからともなく現れた灰村禎一郎が着地していた。服のポケットにはバッテリ切れになった〈カナブン〉が一〇体。ふたりの目線の先では、対象の建物が、瀕死の街とたゆたう隅田川の水面ごと不気味な朱色の陽光に染められていた。

「ファースト、セカンド、こちらと合流だ。スーツを着ろ。直に我々の時間だ」

 そして東京の日が沈む。

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