④
小学校三年か、四年の頃だったと記憶している。
灰村禎一郎はある時、学校からの帰り道にある公園で、見ず知らずの上級生に背中から蹴られて倒れた。何すんだよ、と激昂しかけて、上級生の後ろに、顔を知っている同級生がいることに気づいた。なぜかいつも賢しらで、腕っ節の強いグループの腰巾着のように振る舞っていて、掃除などを気の弱いグループの男子に押し付けて帰ることがしばしばあった。その様に苛立った禎一郎は、何度か彼らを注意した。禎一郎も身体能力は高い方で、教室内での見えない順位はその腰巾着と同じか、少し上くらいだった。
その腰巾着が言った。
「こいつ、金持ちなんだぜ。保証金貰ってるからな」
身体の大きい上級生が言った。「へー。じゃあ金貸してよ」
上級生らが口々に言った。
「どうせみんなの税金だろ?」
「ゴネただけ得だもんなー」
「恵んでもらってんだからさあ、還元しようよ。な?」
彼らが何を言っているのかわからず、足が竦んだ。そして恐怖ほど、対峙する相手に伝わりやすい感情はない。立ち上がるも頭ひとつほども背が高い上級生に肩を押され、禎一郎はよろめいた。別の上級生に胸を押され、湿った砂場に後ろから倒れ込んだ。
言い返そうとしたが、言葉にならなかった。頭の中が真っ白になり、たったひとつ、『どうして』という疑問だけに埋め尽くされた。
わからないとか、知らないとか、違うとか、そんな短いセンテンスだけで、途切れ途切れに応答したような覚えがある。だが、上級生たちの大声に押し流されて、結局愛想笑いしかできなかった。
「つーかさー、お前なんで東京にいるわけ?」
「もう復興してんだろ? 帰れよ」
「そういえばこいつリレー走者だったよなー。トモの方が速いのに」
「先生が贔屓してんじゃね?」
トモ、とは禎一郎の同級生で、運動神経がよく人当たりもよく、おまけに勉強もできるので、上級生にも名の知れた男子だった。とにかく、男子からも女子からも人気で、学校には彼がしたことや彼を正しくするためならなんでも正義になってしまうような雰囲気があった。だが記録は、禎一郎の方が上回っていた。
「被災者だからっていい思いしすぎだよなー」
「なあ灰村さあ、自覚あんのか?」
「お前トモを押しのけてさー、何復興ストーリーみたいなのやってんの?」
「お前のせいでみんな迷惑してんだよ」
「なんとか言えよ、黙ってねーでよ」
次々と浴びせられる言葉に、禎一郎は言葉を失くして俯いた。
小学校も中学年。もうその頃には、自分が周りと違うことは、なんとなくわかっていた。父は亡く、母とは離れて暮らす。物心ついた頃から他人の家で寝起きし、ここが自分の居場所ではないといつも誰かに言われているようだった。普通の人が普通に登る階段が断崖絶壁で、普通の人が歩く速さに全力疾走でなければ追いつけないような感覚。
歳を重ねるにつれ、掴みどころがない感覚は次第に確信へと変わっていったし、一方では親しくもない誰かに何か言われても動じない程度に、自分というものを持てるようになった。だが、その時の灰村禎一郎は小学生に過ぎず、走ることも這い上がることも知らなかった。まして覆面の
座り込んだまま俯いていると、ひとりが屈んで禎一郎の声に耳を傾けるようなポーズを取って言った。「おっ、こいつ俺らに恩返ししたいんだって~」
「うっそ、マジ?」
「じゃあ仕方ないな」腰巾着の同級生が、馴れ馴れしく禎一郎に肩組みした。「俺たち友達だもんな」
「でもさー、ただ金返して貰うんじゃ申し訳なくね?」
「俺らなりに、灰村に何かしてあげてーよな」
「じゃあさ……」
愛想笑いしていると、腕を掴んで引き起こされた。砂まみれの禎一郎は、そのまま公園の水場へと連行された。何をされるのか、なんとなく察しがついた。
上級生のひとりが、銀色の水飲みの下についている蛇口を捻った。汚れてヒビだらけのホースから、最初は弱々しく、そして次第に勢いよく水が出た。
身体の大きい上級生に、後ろから首を捕まれ、蛇口の下へと押し込まれる。笑い声が、寂れた公園に響いた。
「それじゃあ、除染しまーす」
「作業費一〇〇万な」
「やべーわ、命の危険あるもんなー」
「とりあえずあるだけ貰っとくから、あと分割払いな」
「すっげー、やーさしー」
水が後頭部から浴びせかけられた。その冷たさが惨めだった。
「それって、ここに越してくる前のことか?」とヘッドホンを下ろした
「そそ。その一件で収まらなくて、結局引っ越すしかなくってさ」
夜。寒さにもかかわらず暖房器具が一切ない藤下稜の部屋で、灰村禎一郎は毛布を被って応じた。
目の前のローテーブルには、パルクール仲間と、デジタル・グラフィテイ・アーティストのサカグチからの聴取結果をまとめかけたものが散らばっていた。
彼らは例のステッカーの存在を認知しており、誰からともなく『白ハゲP』と呼んでいた。特に気にしていたのは、やはりサカグチだった。ブラック・ネイルズによる襲撃で負った怪我が回復し、退院してストリートに出た彼は、いつもの壁で不気味に佇む白ハゲPが「いやに印象に残った」のだという。
場所によっては、ステッカーではなくステンシルになる。貼られ始めた時期は、昨年の一〇月から一一月頃。
「怪しいな」と稜が言った。「ブギーマンと三星会の戦いの直後だな。有沢が逮捕されて、憂井がバイク事故起こして……」
「〈I文書〉は〈入江文書〉。入江明は三星会の指導者。その三星会の指導者が死んだ直後から、〈I文書〉のエンブレムが街に」禎一郎は眉をひそめる。「どういうこと?」
「後継者がいるってことだろ」
「後継者?」
「その入江ってマフィアの遺した〈I文書〉って事業を、誰かが継いだんだ。だから入江本人が死んでも拡散している」
「ん? 継いだから拡散するの? おかしくない?」
「おかしくはないだろ」
「入江は隠してきたんじゃん。それが拡散してるってことは、方針が変わってるじゃん。死後、誰かに奪われたんじゃない?」
「でもドバト男は少なくとも半年以上前からこれ使って婦女暴行していたんでしょ」
「うーん、そこなんだよなあ……」
禎一郎は丸くなって毛布で全身を覆う。
そのまま一〇秒ほども丸くなってから、急に布団を跳ね上げて立ち上がる。
「……どしたの」目を丸くする稜。
「いや、わかった! って雰囲気出せばわかるかなと思って」
「ねーよ」
「だよなー、ははは……」
情けなく笑って腰を下ろす禎一郎をじっと見て、稜は言った。「灰村には、一番大事なことが見えている……って、憂井が言ってた」
「へえ……って、憂井って誰?」
「ん?」
「いやー、全然知らない名前だなー。ははは、なんのことかなー」
「……お前ら、似てるな」
「どこが」
「建前にこだわるところ」稜はノートPCの画面に目を戻した。
「それは、稜を守るためだよ」
「いや、もうがっつり関わってるし」
「それでもだよ。俺は憂井道哉なんて人は知らない。稜は憂井道哉の裏の顔を知らない。建前だけでもそういうことにしておかないと、いざってときに、稜を守れない」
「守る、守るって。ガキか」
「なんだよー。稜だって昔は……」
「うるさい」稜はヘッドホンを着けた。
以前に一度だけ、文字通り稜を守って喧嘩したことがあった。
確か中学の時で、相手は稜の初恋の相手だった。その男子生徒は、中学生らしい告白をした稜に、「お前みたいな男女」と言い放った。人づてにそのことを聞いた禎一郎は、先輩であるその男子生徒に喧嘩を売った。何も言わずに、廊下で後ろから蹴倒したのである。
禎一郎の耳に届いたということは、言い触らしたということ。男女の藤下稜に告白されたんだぜ、と笑うやつら全員に、無性に腹が立ったのだ。
それでも、その一件以来、ただ内気なだけだった稜はひねくれた。うるさい音楽ばかり聴くようになり、言葉遣いはささくれた。当時の話をするとへそを曲げる。そして思い出す度、禎一郎は、もっと何かしてあげられることがあったのではないか、という後悔に苛まれる。
いつものように喧しい音楽をヘッドホンから音漏れさせる稜に、禎一郎は小声で語りかける。
「俺、助けてもらったんだよ」稜の耳に届いているのかいないのかわからない。どちらでもよかった。「小学生の、除染された時は、同じ福島からの避難者だった高校生が、たまたま俺のこと気にかけてくれた。担任の先生に掛け合って、いじめが収まるまで俺の傍にいてくれた」
稜はじっと画面を睨んでいる。
「その人すげー頭良くてさ。将来は原発の廃炉のための技術開発するんだって言ってた。仇名は〈博士〉だった」しばらく反応を伺うも、稜は黙ったままだった。聞いていないということにして、禎一郎は続けた。「道哉さんも、最初はいじめを苦にして自殺した同級生の名誉のために戦ったんだろ。いるんだよ、そういう人。稜だって、あれ以来俺に避難や放射能の話をするやつがいたら、キレてくれたし」
すると稜が、ヘッドホンを外した。「あのさ、禎一郎」
「何?」
眠そうな目が禎一郎を見た。「お前、あいつみたいなのに、憧れてる?」
「なんだよ、悪いのかよ」
「私は、やめて欲しい」
「どうして」
稜は目線を逸らさなかった。「あいつらは、普通じゃない。普通じゃないことをよしとして、普通じゃないことを誇ろうとしている。そして本当に、あいつらは普通じゃない」
「あいつらって、誰だよ」
「憂井道哉と、片瀬怜奈」
「なんで怜奈さんが……」
「ここが戦場で誰もが兵士だったとして、みんなは戦友に恥じないようにとか大事な人を守り、大事な人の待っている場所へ帰るために死ぬとして。あいつらみたいなのは、国とか、名誉とか、思想とか、そういう抽象的なもののために死ねるんだよ。お前も、多くの人に守られたことへのご恩返しって言って、あいつらみたいになろうとしてる。違う?」
「そうかもしれないけど、それは悪いことなの?」
「普通からのズレは、いつか取り返しがつかなくなる」稜は、音漏れし続けていたヘッドホンの音量を下げ、部屋に貼られたデスメタルバンドのポスターを見遣った。「私みたいなのとは、次元が違うだろ。あいつらは。お前が、足を踏み入れようとしてる場所は」
でも、と禎一郎は応じる。
電話が鳴っていた。相手はサカグチだった。手に取りつつ、目は稜へ向けた。
稜が言っていることは、なんとなく理解できた。だが禎一郎には、彼女の不安にちゃんと向き合う言葉を知らなかった。たとえ憂井道哉の『灰村には物の本質が見えている』という言葉が当を得ていたとしても、禎一郎本人には自覚がなく、結局ピントがずれたような応答しかできないのだ。
「俺は、俺に手を差し伸べてくれた人に恥じない生き方をしたいだけだ」
「知らねーよ」と稜は応じ、またヘッドホンを着けた。「勝手にしろ」
禎一郎は電話に出る。
そして二言三言聞いて、言った。
「え、マジで?」
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