家に帰るのが仕事、と言われても落ち着かない。

 土橋に関する調査も、ステッカーの件も現在進行系。自分だけが何もしていないことに、焦りが募る。相手の得体が知れないことが、それに拍車をかけていた。

 休日。榑林邸の縁側でダウンジャケットを着込み、あぐらをかいた道哉は、スーツの上に着るようなコートを肩から羽織った榑林一真と向かい合っていた。

 道場には片瀬怜奈と榑林一花。一花を師範代にした護身術の稽古は実を結んでいるらしく、怜奈もかなり切れのいい動きを見せていた。少なくとも普通の高校生相手や、並の変質者相手なら遅れを取ることはないだろう。だが、拉致・暴行等の訓練を受けたプロフェッショナルから逃げ切れるとは思えなかった。

「さて、準備はいいね?」と一真が言った。

 線が細く色素が薄く、ウスバカゲロウのような雰囲気のある一真に言われると、なんでもイエスと応じてしまいそうになる。だが、彼は守られるべき存在などではない。道哉にとってはむしろ、いつ何時こちらの命を刈り取りに来るかわからない、死神のような存在だった。

 ふたりの間を挟んで、分厚い桂の将棋盤があった。王将から歩兵まで神経質に整列した柘植の駒。そしてなぜか、対局時計が置かれている。

「いつでもいいぜ」と道哉は応じた。

 畳の上での立ち合いでは勝てた試しがないが、将棋なら、一真とは概ね互角の戦績だった。幼い頃は、とにかくなんでも、兄貴分の一真と張り合うのが好きだったのだ。

 だが今日に限って、一真はとても互角とは思えない余裕の笑みだった。そして、出来の悪い生徒に答え合わせをしてみせる意地悪な教師のように言った。

「早指しだからね」

「えっ」

「持ち時間一〇分」

「ちょっと待った」

「時間が尽きたら一手三〇秒」

「いやいや、待ってって」

「待ったなしね」言うが速いが一真は対局時計を叩き、歩を前進させ、もう一度叩いた。「はい、そちらの番」

「こんなのフェアじゃない、スポーツマンシップに欠ける」

「榑林の技は元来殺人術、スポーツじゃない」

「まず俺に先手を譲れよ!」

「喋ってる暇はあるのかい?」

「ない」腹を決める。

 納得は行かないが黙って負けるつもりもない。時短を考え、手癖で指せるオーソドックスな手を選択する。振り飛車からの美濃囲いだ。

 駒が盤を打つ小気味いい音と安物の対局時計を叩く間の抜けた音。時間のなさに戸惑いながらも、王将を逃し攻めと守りの盤面を作っていく。対する一真は居飛車。仕掛けが早く、道哉が囲いを固める前から銀が前に出てくる。

 捌ききれない。

 一真の予想外の手に動転し、ミスを犯す。囲いが崩され、王が敗走する。そして道哉は、一真が全く等間隔に次の一手を繰り出していることに気づいた。

 手番が回ってから、常にきっかり一三秒。

 不規則な長考を繰り返す道哉をあざ笑うように、一真の手はきっかり一三秒で繰り出される。それに焦りを覚えたときには、時既に遅かった。

「はい、王手」と一真が言った。

 道哉はとっくに持ち時間一〇分を使い切っていた。それから持ち時間の三〇秒いっぱい、盤面を睨んだ。どの駒を進めても数手先で詰みだった。

「はい、参った。俺の負けだ」

「よし、じゃあもう一局ね」

「は?」

「いいから」

 問答無用で並べられていく駒。

 抗し難く二局目が始まる。

 今度は穴熊で守りに徹する。だが、盤面に集中しようとする道哉に、一真の言葉が投げかけられる。

「要するにね、一瞬の判断力なんだよ」

「なんの話ですか」と応じ、自分の眉間に皺が寄っていることに道哉は気づいた。

「或いは、決断力かな。考えていられないほどの一瞬に、本当なら長考を要するような判断を強いられることがあるだろう。手元にある情報だけでは正しい判断を下せないことも。そういう状況では、決断力が必要なんだ」

「博打打ちみたいなこと言わないでくださいよ」

「ま、人生博打みたいなものさ。正解を引き当てる決断ができるってのは、必要なことだよ」

「何に必要なんです?」

「負けないために」

 また気づけば盤面は道哉に不利。そして気づけば道哉は長考してしまっている。

 まるで稽古をつけられているような気分。ふと浮かんだ疑問を、道哉は口にする。

「なぜ、今、こんなことを?」

「虫の知らせのようなものかな」

「なんだそりゃ」

「教えていなかったな、ってふと思ったんだよ。他人への教え方を」

「教え方?」

「たとえば君の近くに戦う力を求めている人がいるとして」一真は駒を動かし、対局時計を叩く。「技術や才能はあってもその活かし方がまだわからない人がいるとして。正しく彼の力を引き出すためのテクニックを、君に伝えていなかった」

 背筋が凍った。

 まるで、灰村禎一郎のことを言い当てられているようだった。

 禎一郎は禎一郎で自分なりに何かを掴んでいるようだったが、年長者として彼を上手く導けていないことが、ここ最近の道哉の悩みだった。ドバト男事件の時も、彼はかの怪人ドバト男に一度は敗北したことについて、自分だけで決着をつけた様子だった。

 もっと上手く導けていれば。走るのが早く喧嘩もそれなりにできる彼に、ちゃんと戦う技術を伝えられていれば。そう思うこと頻りだったのだ。

 平静を装って駒を動かすも、既に圧倒的不利な盤面だった。

 また時間が尽き、三〇秒が過ぎる。道哉の二敗目だった。

「最後まで諦めないところは買うけどね」と一真は言い、駒を並べ直す。

「盤を汚した」

「早指しは汚れるものだから」

「これがなんになる?」

「生死を分けるのは決断を下す力だ」手は止めずに一真は言った。「ここを継いだら、門弟に伝え広めて欲しいからね」

「なんだ、そういう……」

 駒が揃い、一真が手を止める。「別の理由があるのかい?」

「ないけど」道哉は歩を進めて対局時計を叩いた。

 互いに駒を進め、対局時計を叩くだけの繰り返し。次第に、前二局のいずれとも違う盤面が形成される。

 暑さを感じ、道哉はダウンジャケットを脱ぎ捨てた。

 一真が言った。「今度は中飛車か。懲りないね」

「守りに入ったら駄目かなと思った」

「う~ん、いいね、その意気だよ」

 コートを羽織ったせいか、一真の出で立ちがいつもより大きく見えた。まるで、山だ。押しても引いてもびくともしない山。挑発の言葉を投げようとした道哉は、口を噤んで盤面に向かった。

 だが、崩される。

 そもそも道哉は守り主体の手を得意としていた。将棋でも拳法でも変わらない、癖のようなものだ。将棋なら囲いを。拳法なら構えを重視する。特に強い相手ほど、まず守り隙を突くスタイルを一貫させていた。そして中飛車はどちらかといえば敵陣をかき回す、攻めの手と道哉は考えていて、あまり使ってこなかったのだ。

 それでも、崩されるだけで終わりたくはなかった。

 劣勢明らかな盤を睨み、道哉は深呼吸する。

 そして駒を進める。対局時計を叩く。一真の手番になり、一三秒で返ってくる。道哉は盤上の布陣を一瞥し、駒を進めて対局時計を叩く。一三秒。

 一真が初めて動揺した。

 一三秒の応酬が始まる。一真も、道哉も、きっかり一三秒で一手打つ。劣勢は覆らないが、投了するまで一三秒で指し続ける。

 やがて手が止まる。そして盤面をじっと睨み、道哉は言った。「負けた」

「まあまあだったね」

「この野郎」

 苦笑いする道哉に、一真は呵々と笑う。

 それでやっと、集中が解けた。道場の物音がいつの間にか止んでいることに気づいた。額の汗を袖で拭った。

 背後に気配を感じた。振り返ると、ジャージ姿の怜奈だった。

「負けたの?」と怜奈が言った。つい先程道哉が脱いだダウンジャケットが、折り目正しく畳まれて彼女の腕に収まっていた。

「フェアじゃないから、一真さんの勝ちじゃない」

「負けたんでしょ?」

「事はそう単純じゃない」

「負けてるじゃん」怜奈は珍しく楽しげににやにやと笑っている。まとめた髪がほつれて、上気した肌に張りついていた。生々しい汗の匂いがした。

「うるさいな」

 わざとらしくそっぽを向いてみせる。

 すると、一真と目が合った。

「道哉。君には遠からず、人生の岐路ともいえる決断を一瞬で下さなければならない時が来る」

「一真さん?」

 真実味の薄い笑みで、一真は言った。「迷いが許されなくなる時が来るということだよ」

「何言ってんだか」ため息半分に息を整えていた一花が言った。「将棋盤、ちゃんと片付けてくださいね」

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