「まったくこいつは凄まじく、素晴らしく、そして忌々しい」吐き捨てた羽原紅子は上機嫌と不機嫌を一言ごとに行き来していた。「こいつに比べれば一時期流行った映像や音楽メディアのコピーコントロールが可愛く見える。ハードディスクの中に収まっていたのは、専用アプリケーションというかライセンスファイルというか、ドングルというか、とにかくそういうやつだ。起動すると、ものすごい数のサーバを経由してどこかにある〈入江文書〉のマスターファイルに接続できる。ライセンスひとつで閲覧できるのは全体の七分の一だ。おそらくそのサーバ上にネット上の記述を網羅的に監視する恐ろしく複雑な人工知能が走っていて、常にアップデートをし続けている。七つの断片は、なんというか、スレイブファイルとでもいうのか。マスターがあいまいさを残した検索を行うのに対し、スレイブ側は各領域に応じた具体的な手段方法を構築する。スレイブファイルの更新はマスターにも影響する。当然、他のスレイブファイルにも。常に並列化され続けるのさ。それでいて、マスターだけでは完成しない。七つの文書全てを集めた時、こいつは完成するんだ」

 そこまで捲し立てると、紅子は片手の人差し指を立てて高く掲げ、号令するように下ろす。

 すると、浮遊していたドローンが一斉に回転翼を停止。推力を失ってその場に落下する。あらかじめ敷かれていた毛布の上に軟着陸。一部始終を見守った紅子は満足気だった。

「やはりこの瞬間だよ憂井、意図した通りにものが動いた瞬間の快楽というものがな、たまらないのさ」

「犬に芸を仕込むようなもん?」

「私は猫派だ」苦々しく応じる紅子。その中指にはマーカーを印刷したプラスチックの指輪がある。「下方を撮影するカメラが規定時間だけマーカーを認識するとマーカーを着けた腕まで画像処理で切り出し、腕の動きを検知して推力を切る。使えるだろう?」

「何に」

「爆発物を積むのさ。本体は中国産の海千山千の足がつかないやつにしておけばいい。航空支援が欲しいときはいつでも言ってくれ。空爆してやる」

 うははは、という得意満面の笑い声が地下空洞にへ虚ろに反響していく。

 一月下旬の日曜日。東京は寒い盛りだったが、憂井邸の蔵から隠し通路を通った先にあるこの空間は、コートが要らないほど暖かかった。

 正月気分も今は昔。コンビニに入れば恵方巻きの予約広告が目につき、街では春物の新作が並ぶ傍ら、正月商戦すら生き延びた冬物の最終処分セールが行われている。

 連続強姦魔ドバト男に関する報道は落ち着きを見せつつあった。

 犯行直後は、テレビや新聞、ネットメディアが競い合うように犯行の経過や被害者の証言を掲載した。そして警察に先んじて悪辣な強姦魔に迫り、逮捕の直前まで争っていたという、ブギーマンを名乗る覆面のヴィジランテのこと。

 あれからもう一ヶ月。

 世間は事件を論じる段階へと移ろいつつあり、数日前には、どうしてまだ出版を続けていられるのかわからない思想・言論雑誌を、片瀬怜奈が面白がっているのかいないのかよくわからない顔で購入していた。特集はもちろん、連続強姦魔ドバト男について。その雑誌は今、この地下室の長机に放置されている。

 ドバト男事件を通じて得たものといえば、正体不明の〈入江文書〉の断片だけである。だが元々、犯罪者への技術供与を行った何者かを仮定して、この件の調査を決めたのだ。予想外だったとはいえ、狙った獲物が見事に釣れたのかもしれない。

 報道でも、捜査の進展とともに似たような情報が少しずつ聞かれるようになった。ドバト男はネットで交流のあった知人から動画配信というアイデアや監視カメラの欺瞞方法、犯行に適した土地や施設に関する情報を得た。ドバト男の犯行について、その知人が何らかの事情を知っているとして警察は行方を探しているが、ドバト男自身も面識がなく、捜査は行き詰まっている。

 だが、紅子が独自に進めていた調査の結果、その知人とは、ブラック・ネイルズに技術供与を行い、三ヶ月ほど前に不審な交通事故死を遂げた若者と同一人物である可能性が高いのだという。

 その若者こそが、おそらく〈I文書〉の前の持ち主。

 地下室の拷問の結果、ブラック・ネイルズのリーダー・野上善一は、組織の構築方法やARタグを用いたフィッシング詐欺等の手口について、『ヒカル』という若者からレクチャーを受けたと語った。野上のスマートフォンに残されていた通信記録やWIREでのやり取りを通じ、ヒカルの姓が入江であることを紅子は突き止める。そして、これまでは成果物としての『悪の方法』を教示されるだけだったドバト男が、〈I文書〉スレイブファイルの本体を受け取った日が、ヒカルの事故死の前日であったことから、紅子はI=入江と断定。ふたつの事件が水面下で繋がっていることが、蓋然性高く示されたのである。

 そして死の直前、ヒカルはWIREに追い詰められる無念と運命を呪うような投稿を繰り返した。その中には、自分の父親が狙撃手に射殺されたことを仄めかすような文もあった。

 加えて、〈I文書〉の前の所持者は自身の父親から受け継いだと言っていた、とはドバト男は証言した。

 情報が揃えば揃うほど、ヒカルの父親が入江明であること、そして〈I文書〉が、死んだ自称北朝鮮工作員・入江明の置き土産であることを、認めざるを得なくなっていた。

「しかし……」道哉は、紅子が難しい顔で腕を組むPC前へ近づいて言った。「なんで、『P』なんだ?」

 〈I文書〉こと〈入江文書〉の終端アプリケーションは、起動すると最初にロゴのようなものが現れる。そのデザインは、奇妙だ。スキンヘッドの頭部を後ろから見たような白抜きの絵に、文字が添えられている。その文字は、どう見てもIではなく、Pと読めた。街角に張られているステッカーのデザインと言われれば、なるほどと頷くだろう。グラフィティのようなデザインだった。

 こればかりは羽原紅子をもってしても意味不明であるらしく、「さあ……」と応じて首を傾げるばかりだった。

「無力化の手立ては掴めそうか?」

「すまんな。さっぱりだ」紅子は苛立ちを通り過ぎて疲労気味だった。「並列化されているということは、私たちが持つこの終端アプリケーションに致命的な打撃を与えれば、マスター・スレイブともまとめて無力化できるはずだ。だが、方法が全くつかめん。ネットワークのトラフィックを監視したところで何がわかるわけでもない。一応、簡単なプログラムを組んで統計は取っているが……」

「偽情報を掴ませるとか」

「試した。マニュアルの情報入力機能があってな。電脳探偵が持っていた都内の侵入容易な監視カメラリストを、私が作った困難なものリストとシャッフルして入力した。一時間ほどで全部修正されて返ってきたよ」

「使えるじゃん」

「前向きだな、柄にもなく」

「お前が柄にもなく後ろ向きなんだよ」

 そうかな、と応じて紅子の目は画面に戻る。

 期待した反応がなく、道哉は首を傾げた。羽原紅子も時には思い悩むという単純な事実に驚いたのだ。

 降着したドローンたちを拾い集めていると、紅子が苛立たしそうにキーボードを叩きつつ口を開いた。

「それで憂井、今日はなんの用だ」

「用がなくちゃ、来ちゃいけないか」

「そういう台詞は女子専用だ」

「はあ……?」また首を傾げる道哉。「そもそもここは俺の家だ」

「おお、そういえばそうだったな」

「おおって、お前……」

「私はお前なんて名前じゃない」

 それそれ、と道哉は笑って応じる。

 冬休みが明け、三学期が始まり、道哉は来年からの進路に文化系コースを選択した。羽原紅子のような純粋理系を見すぎたことと、数学がどうにも苦手なためである。

 従兄の榑林一真は相変わらず半分茶化した調子で道場を継げと言う。湘南の伯父はとりあえず大学は出ておけばと言う。人生の選択肢を増やすことはやぶさかでないし、選択肢をくれる人がいることには深い安心を覚えた。だが一方で、自分の行く道を自分で定められないことには、不安を感じずにはいられなかった。

 ドローンを粗方片付けると、道哉は画面に熱中する紅子の肩を叩いた。

「あんまり根を詰めるな。せっかく世の中平和なんだから」

「つまりどこかで誰かが犠牲を払っているということだ」

「後ろ向きだな」

「安心はできんさ。この文書が稼働し続けている限り、私の理想は否定されるんだ」

「理想?」

 紅子は回転椅子を回して振り返ると、背後の画面に立ち上げた検索エンジンを親指で示した。


「意外と理系選択が多いんだよなあ」と松井広海が言った。

 誰かが明らかに暖房を利かせすぎた、放課後の教室。三々五々生徒たちが帰宅し始める中、気づけばいつもひとまとまりになっている面子が、道哉の周りに揃っていた。

 終礼の途中からライトノベルに目を落としていた島田雅也が顔を上げた。「いや、みんな文系じゃん」

「いや、俺らじゃなくてクラス全体な」と松井。「俺とみちやんと……稜さんも文系?」

「まあね」と稜。寒さに耐性があるらしい彼女は制服の上着すら着ていなかった。「松井は理系に行って欲しい」

「なぜ」

「なるべく顔を見たくない」

「えっ酷くないっすか。それ酷くないっすか」

 道哉は口を挟む。「でも俺、理系って頭のやつかパソコンのうまいやつが行くイメージあった」

「パソコンて」と松井。「あーでも確かに、エリートか、まさやんみたいなのだよな」

「遠回しに馬鹿にされた気がするんだけど」島田が本を閉じて応じる。

 すると、道哉の携帯電話が震えた。制服のポケットから伝わる振動に、不穏を感じて席を立った。

「どこ行くの、道哉」と稜に呼び止められる。

「ちょっと野暮用」

「……お前、野暮用って言いたいだけだろ」

「バレた」

「いいけどさ」鬱陶しそうに稜は手を払った。「失せろ、また明日」

 苦笑いしつつ、鞄とコートを手に道哉は教室を出る。二台持っているスマートフォンのうち、紅子が輸入品のジャンク端末に親の会社が提供するIP通話・通信回線を繋いで支度したものを取り出す。デバッガ用の回線だから一回ごとに履歴が自動削除されるといつか紅子が得意気に語っていた。

 だが、今回の発信者は紅子ではなく、片瀬怜奈だった。

 ニュース記事と画像が送られてきていた。大森のあたりで、非正規雇用の倉庫作業者の死体が発見されたというニュースだった。画像は、居合わせた人が撮影した映像をキャプチャして拡大したものだった。

 往来の真ん中で突然倒れる、五〇代くらいの汚れた身なりの男。寒空の下にも関わらず肌着が見え、提げているのはコンビニのビニール袋。周囲の人が、彼が倒れると油膜に界面活性剤を垂らしたように離れていく様子が映像には収められていた。

 校門まで出ると、待っていた怜奈が片手を挙げた。

「よっ、道哉」

 怜奈は制服の上に、スカートの裾が少し見えるくらいの丈の、暗いグレーのピーコートを着ていた。いやに砕けた挨拶を口にするまで、女子高生の幽霊がそこに立っているかのようだった。下校する生徒たちは、彼女に目線を向けつつも、誰ひとりとして声をかけることはなかった。学校の支配者はもう三年生から二年生に移り変わりつつあり、彼女に声をかけるような軽薄な上級生はいなくなっていた。そして同級生や下級生のほとんどを、彼女は圧倒していた。そういう人間だった。

 喋ればいい人だよね、と同級生の女子が話しているのを漏れ聞いたことがあった。でも、と継いで、彼女たちが目撃した片瀬怜奈の奇行について語った。道哉が知っているのはシロツメクサの花を潰す姿だけだったが、それだけではないということをその時に知った。

 片瀬怜奈には、きっと無数の顔があって、そのすべてを知り尽くすことは誰にもできないのだろうと思う。心を通わせても肌を重ねても、決して暴けない秘密の領域があるかのような。

 道哉は羽原紅子提供機の画面を見せた。

「これ、なんなんだ」

「羽原さんから、気になるから確認してきてくれって連絡があったの」

「気になるって、何が」

 怜奈は道哉の爪先から髪まで視線を上下させて言った。「まず、コート着たら?」

 言われるがままにコートを着た道哉は、怜奈と連れ立って学校最寄りの私鉄の駅へ向かった。

 そこからターミナル駅まで出て、山手線を経由。さらに京急に乗り継いで大森へ向かう。

「平和島とか、大森海岸とかから、埠頭の倉庫での作業をする人を送迎するバスが出てるんだって」

「派遣の規制緩和とか、ニュースで見たな」

「人手不足だから。外国人を呼び込むくらい」電車の揺れも構わず、怜奈は道哉の脇腹を肘で小突いた。「あんたも、ちゃんと勉強しないと。楽して儲かる仕事に就けないよ」

「俺がひとり生きてくだけなら親の遺産でなんとかなるし」

「そういうことを言ってるんじゃなくて」

「別に、関係ないだろ。怜奈には」

 眦に険が宿った。「何それ。関係あるって言わせたいの?」

「そうじゃないけどさ……」

「ないんだ。ふぅん」

 それきり怜奈は黙ってしまう。車内のアナウンスや列車の走行音が、急に大きく聞こえた。

 彼女が次に口を開いたのは、目的の駅に着いてからだった。

「死亡した倉庫作業者の男性、身元が判明したみたい」

「何者なんだ?」

「何者でもない。……って羽原さんは言ってる」改札を抜け、つかつかと歩みを進め、スマートフォン片手に怜奈は続けて言った。「土橋信幸。五五歳、住所不定。去年の末まで、山谷の簡易宿泊所で寝起きしている姿が目撃されている。独身。妻は七年前に死亡。その医療費等で借金を作り、看病のために仕事も辞め、住んでいた家の家賃も支払えなくなり再就職もままならず……というお決まりの転落コースを辿ったみたい」

「もうちょっと言い方をさ」

「読み上げてるだけだし。それに……」

「公開されている情報を束ねただけだって言うんだろ、あいつのことだから」

 怜奈はそれには応じず、画面に目を落としたまま言った。「あ、鈴ヶ森刑場が近い」

「何それ」

「江戸時代に罪人が磔にされてた場所」

「ってことは、ここは地の果てだったの?」

「道哉、たまに変な言葉使うよね」

「え、そう?」

「市中引き回しの上磔、ってよく時代劇で聞くでしょ」

「よくは聞かないし時代劇を観ない」

「観るとして。その引き回しのゴールが、ここから徒歩一〇分なの」

「へえ……」道哉は、怜奈のスマートフォンの画面を覗き込む。表示されていたのは、地図アプリだった。「なんか、嫌だな。ゴールが処刑場の旅って」

「縁起でもないこと言わないでよ」怜奈は顔を上げ、前方を指差した。「そこ。土橋信幸の発見された場所」

 ビジネスホテルに挟まれた、ありふれた線路沿いの路地だった。海からは、首都高速を挟んで反対側にあたる。海が近いためか高速道路のせいか、獣が唸るような都会の風音が絶え間なく聞こえた。

 紅子経由で送られた画像をスマートフォンに表示させ、実際の景色と重ねてみる。ものの数分の試行錯誤で、全く同じアングルが見つかった。そして、ここでごく最近男が死体となって発見されたなどとはとても想像できないほど、アスファルトも電信柱も平然としていた。

「それで、羽原の言う気になることってのは?」

「その拡大画像……このへんかな?」怜奈がスマートフォンを見ながら、現実の景色に目を走らせ、そして一点を指差した。「見つけた。いつもとはいえ、すごいね、羽原さん」

 風雨や落書きで汚れたガードレールのひとつだった。道哉は、訝しみつつ歩み寄る。そして貼られたいくつかのステッカーのひとつに驚愕した。

 見覚えがあった。

 呆気にとられる道哉をよそに、怜奈は半ば独語するように言った。

「自称・北朝鮮工作員、入江明が遺したと思われる犯罪の標準手順書、通称〈入江文書〉は、ウィンドウズPC用のアプリケーションのような形式であり、起動時すると不可解なロゴが表示される。白い、スキンヘッドにP印。それがなぜか、倉庫作業者が不審死を遂げた場所に、

「よく気づいたな、羽原のやつ」

「そしてもうひとつ」目線はステッカーを睨んだまま、怜奈は言った。「土橋信幸はこのステッカーを指差したまま事切れていた」

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