第6話 忘れ得ずして忘却を誓う

episode 6(Final) "END OF DAYS"

 イスラム系武装組織〈神の水滴〉の、新たなる聖戦。

 昨今国際社会を恐怖に陥れているこの組織は、これまでの爆発物を用いた自爆テロや、インターネットを介した思考伝搬とは異なる方法で聖戦を実行しているとして、名を知られ始めていた。標的は、イスラムの敵である先進諸国。紛争地域へ介入し自国に利する社会体制を構築しようと暗躍する西欧諸国を悪と断じ、攻撃の対象とすることには変わりない。だがその方法が、明らかに違う。

 彼らの武器は弾丸と爆発物ではなく、薬物とテキストだった。

 大都市圏へ安価な薬物を持ち込み、土着の反社会的勢力を販売代理店とすることで利益を提供する。製造は主に海外だが、場合によってはその敵国内に生産拠点を築くこともあった。フランスで摘発されたケースでは、薬物工場で働く人々の中に、ソマリアから逃れた難民が含まれていた。リビアから海を渡りイタリアを経由してフランスへ行き着いてもまともな仕事がなく、彼にできる仕事で一番条件が良好だったのが、イスラム過激派率いる違法薬物工場の工員だったのだ。

 どんな都市にもその都市なりの反社会勢力・組織犯罪集団が存在している。〈神の水滴〉は彼らに利益を与えて接触し、薬物をばら撒く。そうして次第に社会を蝕み、次の段階へと移行する。

 デマによる社会の不安定化である。

 どんな都市にも人種・民族、貧富の差、文化の差による対立がある。彼らはそれを煽る。薬物を売りさばいているのは移民だ。あの家では黒人が集団で薬をキメて騒いでいる。朝鮮人に薬を打たれてレイプされた。あの候補の支持者は集会で薬物を使って盛り上がっている。そんな真実と区別がつかないデマを次々と流し、火のないところに煙を立てていく。

 そしてどこからともなく、新しい政治団体が現れる。その団体は、煙をひたすらに煽り本物の炎にする。彼らは集会を主催し、デモ行進を行い、シュプレヒコールを打つ。民族間の対立を煽り、政権を批判し、その国の反主流派の主義者たちを勢いづかせる。

 中心にいるのは、イギリスはロンドン出身の男、通称『ジャンキー・ジャック』、またはJJ。元来イスラム圏の人間ではない彼は、容貌も英国人そのものだ。皮肉な笑みの似合う唇。賢しらに通った鼻筋。プライドの高そうな垂れ目。一〇代の頃からネットを通じて過激派思想に親しんだ彼は、今現在三〇代の半ばと言われている。前進となる組織のリーダーだった男に見込まれ、実権を握った彼は、内部の保守派の反発も厭わずに組織の巨大化と国際化を進めた。そしてただ爆死するばかりでない、新しい聖戦の方法を広めていった。彼のやり方は、戦いたいが死にたくない新しい世代の若者たちに熱烈に支持され、ISの斜陽化とともに勢力図が書き換わりつつあるイスラム過激派の中で特異な存在感を放っていた。

 そして、ジャンキー・ジャックと二人三脚で〈神の水滴〉を築き上げたのが、元ロシア政府関係者で、二〇一〇年台に繰り広げられたロシアの対ウクライナ諜報戦において主導的な役割を果たしたと言われる男。『Y』と呼ばれる男の本名は、ユーリ・フィリペンコ。陶器のような白い肌に金髪、ナイフの刃のような研ぎ澄まされた眼差しが四〇代という年齢を感じさせない怜悧な印象を与える彼は、ロシア連邦保安庁FSBの機密情報を漏洩したとして、日夜政府に追われる身だった。

 JJ&Yとも渾名される彼らの関係には憶測が絶えない。だが少なくとも、彼らは東西の国家機関の追跡を逃れて組織を指揮し、イスラムの敵が住まう都市へ打撃を加え続けている。

 否、それはもはやイスラムの枠を超えたものへと成長を遂げつつあった。インターネットによる思考伝搬を介してイスラム原理主義過激派の武装組織に身を投じた人々の多くは、自分たちが生活する日々の中で感じた違和感や正当な怒りの向かう先を求め、イスラム原理主義過激派の思想に共感したのである。〈神の水滴〉はそれをさらに脱構築し、世の中を悪くしている敵という曖昧な存在に抗い、戦いたいという人々の欲望を刺激したのだ。

 そして彼らの次なる標的は、日本だった。

 夕刻。名古屋市郊外。かつては大手自動車メーカーの何次受けかもわからないような零細工場のひとつが所有していた倉庫に、ジャンキー・ジャックの姿があった。

 〈神の水滴〉がこの地に拠点を築いたのは、名古屋港の密入国対策が東京に比べ遅れているためだった。昨今の中京圏は、外国人の就労規制の緩和も手伝って外国人労働者が多く、日本人ではない〈神の水滴〉のメンバーらが目立ちにくくなっていた。そして彼らは、他国と同じように既存の反社会勢力に対して利益供与を行い、従来の薬物流通経路を塗り替えようと試みた。ちょうど、海上密輸等の従来手段に治安組織が監視の目を強めており、国内では覚醒剤の流通量が不足し価格の高騰が起こっていた。彼らの薬物が浸透する余地は十分にあり、日本も中東の紛争地域へ自衛隊を派遣していた。

 さらに彼らは、〈I文書〉と呼ばれるもののを入手していた。

「全部で七つあるのよ」と黒装束の少女が言った。「あなたの指の欠けた数だけ」

 あどけない顔に嗜虐的な笑みを浮かべ、少女は拳銃を発砲する。

 少女の眼前には、椅子に身体を縛りつけられた英国人――ジャンキー・ジャック。左右には腰ほどの高さのスチールラックが置かれ、両手はその上に。手首だけでなく、指の一本一本が広げられてタイラップで固定されていた。

 残りは二本だった。

 樹脂か何かのようなケミカルな黒に染まった長い髪を靡かせ、少女は手にした拳銃の銃口を、次の指へと押し当てる。彼女が笑えば、フリルの沼から這い出してきたかのようなゴシック調のワンピースが揺れる。

 指先に力が入る。すると、傍らから現れた白い手が、拳銃ごと包むように黒い手を止めた。

「やめて、お姉さま」

 白装束の、もうひとりの少女だった。

 全く同じデザインで、色だけが真っ白なロリータ調のワンピース。髪型も顔立ちも見分けがつかないほどに同じふたりは、双子だった。

 白装束の少女が、手を離さないまま上目遣いで黒装束の少女を見る。

 すると、黒装束の少女は銃を引いた。

 ジャンキー・ジャックがFで始まる呪詛を吐く。血走った目で、眼前の少女ふたりを睨む。

「スガタ、マボロ、〈スペクター・ツインズ〉……」

「あら、私たちの名前までご存知なのね。嬉しいわ。ご褒美をあげる」

 黒装束――まぼろが目で合図すると、傍らに控えていた男が歩み寄り、ライターでジャンキー・ジャックの指先を焼いた。

 有機溶媒の刺激臭が漂う薄暗い室内に、ジャンキー・ジャックの悲鳴が木霊する。

 元々自動車部品工場だったこの場所は、〈神の水滴〉によって覚醒剤製造工場として密かに再稼働させられていた。そして主が少女ふたりに弄ばれる間にも、成果物たる薬物は、日本人と朝鮮人の男たちによって次々と運び出されていく。足元には、ジャンキー・ジャックの部下である中東系の男らの死体が転がされていた。

 血と硝煙と化学薬品。錆と砂。黙りこくって俯く白い少女。黒い少女の笑い声と、男の呻き声。作業する男たちは咳きひとつ立てない。全員が美しい双子に忠誠を誓っていた。

 乱雑に運び出されるコンテナの中から、真紅の粉末が少量漏れ落ちる。その名は〈ヴァーミリオン〉といった。まるで捨てられた工場の赤錆と差し込んだ夕日を、残された情念ごと吸い上げたような、真紅。

 幻が拳銃をカウボーイのように指先で回し、ライターの男に投げ渡す。

 受け取ったライター男も異様だった。

 その顔面には極彩色な笑顔の仮面。他の男たちと違って、彼だけは肌のやや浅黒い、東南アジアの人間だった。だがそれでいて、左腰には黒漆塗りの日本刀。ケブラーとセラミックプレートで固めた最新式の戦闘服とあまりにもミスマッチなそれを、男は持て余す様子もなかった。右腰の拳銃や全身に備えたナイフやスモーク、手榴弾等の装備と日本刀が、男の中では一直線に繋がっているかのようだった。

 息を切らし、悶絶するジャンキー・ジャックを見下ろし、幻は口を開く。

入江光いりえひかるという名をご存知?」答えも待たず、ジャンキー・ジャックの眉間に銃口を突きつけて彼女は続ける。「彼は七つの〈I文書〉のうちひとつを所有し、文書から得られた技能で非行少年や犯罪者予備軍らに力を授けていたわ。でも殺された。実行犯はイラン系のマフィアだった。でも調べていくと、その殺人は〈ヴァーミリオン〉という薬物を提供する見返りだったことがわかった。つまりあなたたち〈神の水滴〉が、彼の殺害を指示したの。〈I文書〉を強奪するために」

「何が目的だ」

「全ての〈I文書〉の収集」

「ならば、なぜっ……」

「あなたたちは〈I文書〉の強奪に失敗した。入江光は、すでにそのオリジナルを個人的に親交のあった婦女暴行の常習犯に引き渡していた。その男……連続強姦魔ドバト男は警察に拘束され、文書は行方不明。だから今あなたをいたぶるのは」九本目の指へ銃口を押し当て、発砲。絶叫するジャンキー・ジャックを見下ろし、幻は満足気に微笑んだ。「個人的な復讐よ。まさか関東の施設が本拠じゃないとは、思わなかったけど。おかげであなたに辿り着くまで、回り道しちゃったわ」

 何度目かの叫び声を上げるジャンキー・ジャックの足元に、双子の片割れである白い少女が縋るように蹲る。そして涙を零し、繰り返す。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

すがた、あなたが謝らなくていいのに。この人たちは光を殺したんだから」

「でもぉ……」

「ま、いいわ。あなたはそういう子だもんね」言い、幻は片割れの像から目線を離し、血と汗と埃に汚れたジャンキー・ジャックに顔を寄せた。「最後の〈I文書〉について、知っていることを全て話しなさい。愛しの彼の命が惜しければ」

 幻が合図すると、仮面の男がスマートフォンを差し出す。その画面では動画が再生されている。スーツに刈り上げ頭のロシア人が、ジャンキー・ジャックと同じように椅子に拘束され、猿轡を噛まされている。カメラの方を見ながら、必死で何かを叫ぼうとしている。映像の右肩には『LIVE』の四文字。周囲にはやはりコリアン・マフィアのような男たちがいる。

 Yことユーリ・フィリペンコだった。

 双方向配信しているらしきカメラが下を向く。

 ユーリが座らされている椅子は骨組みだけになっており、ユーリ自身は下半身が裸だった。脚は広げて固定されており、股間のものが垂れていた。映像をひと目見た像が、両手で目を覆って顔を背けた。あっという間に耳まで赤くなった。

 美しい顔に下卑た笑みを浮かべ、幻が言った。「あなたたち、男と男の関係なんですって? Yの方が白状してくれたわ。彼の指に触られた時の、自分の中の欠けた部分が満たされたという思いが、私に祖国を裏切らせたって言ってたわよ。果報者ね」最後の指に銃口を押し当て、ためらいなく発砲。破裂音が工場を貫き、夕闇迫る空を裂いた。「残念、もう触れない」

 一〇個目の肉片が、経年劣化でコンクリートが剥き出しになった床に落ちた。

「入江光は私たちの兄なの」

 画面の向こうで、ユーリの周囲に動きがある。フェドラハットを被った男が、椅子に縛り付けた下半身裸のユーリの前に立ち、水を入れたペットボトルにロープを固定している。厳重に巻きつけ、ぐるぐる回して遠心力がかかっても外れないか確かめる。

 これから行われることを悟ったらしきジャンキー・ジャックが、やめろ、やめろと息も絶え絶えに叫ぶ。

 だがその声は届かない。

 帽子の男はおもむろに、椅子を下からすくい上げるような角度で、遠心力を効かせたロープつきペットボトルを投げ込んだ。逃れようなく、股間へと直撃した。ユーリの上げる苦悶の叫びが、スマートフォンのスピーカを介して幻や仮面の男、ジャンキー・ジャックの耳へと届く。繰り返し、繰り返し、ペットボトルの打撃がユーリの睾丸を襲う。

 像の、自分の顔を覆っていた手がすとんと落ちた。目は、映像に釘付け。その表情は恍惚。

 ジャンキー・ジャックが叫んだ。「ブギーマンだ! ドバト男を捕縛した、自警団ヴィジランテ気取りの男だ! きっとそいつが、ドバト男から〈I文書〉を奪い、今も……」

「別にあなたにはその情報を守る理由はないでしょう?」幻は冷たく言い放つ。「だからそれを話したところで、私たちはあなたたちを痛めつけることをやめない。でも……」

「お姉さま?」首を傾げる像。

 すると幻は、像の手首を掴んで乱暴に引き寄せ、有無を言わさずキスをする。像は驚きに声を上げ、やがて幻に身を委ねる。絡み合う白と黒。舌と舌が互いを求めて這い回り、次第に像は身体を仰け反らせる。まるでそのまま天上へと吊り上げられていくかのように。

 唇が離れる。互いに上気した顔で見つめ合う幻と像。すると背後から、部下のような男が恐る恐る近づいてきて、仮面の男の足元にクーラーボックスを置いた。その音に引き戻されたように、幻はまたジャンキー・ジャックの前に立った。像は呆然としたまま、潤んだ目で斜め上の方を見続けていた。

「人間は、進化の過程で尻尾という自在に動く器官を切り捨てた。それでもひとつ、残っている。舌よ。舌は、指よりも自在に動く。……ゾエル!」

 ゾエル、と呼ばれたのは、仮面の男だった。彼は足元のクーラーボックスを開け、収められていたものを取り出すと、ジャンキー・ジャックの眼前に示した。

 ユーリ・フィリペンコの生首だった。

 唖然として口を半開きにしたジャンキー・ジャック。その口にゾエルが手を突っ込む。舌を引っ張り出す。工具で摘み、器用に右手で、左腰の刀を抜き放つ。差し込むオレンジの陽光を浴びて血の色に輝く刃を、舌に当て、切断する。

 いつの間にか正気を取り戻していた像が、ドレスの太腿のあたりを掴んで言った。

「ごめんなさい、ごめんなさい、さっきの映像、録画なんですっ……」

 そのときジャンキー・ジャックは、ユーリ・フィリペンコの首の断面を目にする。野菜か何かを切った後のような、滑らかな断面。そして朦朧とする意識の中、ユーリの首を斬り落としたのが、眼の前にいる笑顔の仮面の男であることを悟る。

 仮面の男――人呼んで〈首狩りゾエル〉。

 フィリピンのダバオ出身で、青年期からダバオ・デス・スクワッドの一員として活躍。ドゥテルテ政権下でも麻薬の売人や汚職警官等に次々と超法規的な処刑を下した。二つ名は、そのスタイルに由来するものだった。彼は殺害した犯罪者の首を、旧日本兵が守り刀としてフィリピンに持ち込んだという業物の日本刀で切断し、往来の真ん中に晒すことを繰り返したのである。

「気分はどう?」と幻が満面の笑みで言った。「一番肝心なところではまだ、彼に触れるわよ?」ユーリの生首を掴み、ジャンキー・ジャックの股間に押し当てる。「ほーら、しゃぶらせてあげる。彼とはいつもどんなふうにしていたの?」

 ジャンキー・ジャックが絶叫する。最後の力を振り絞るように暴れ、涙と涎と血をばら撒き、目の前に立つ黒い少女を血走った目で睨む。

「嫌な目だわ。ゾエル、やって」

 幻が身を引き、ゾエルが前に出る。刀を構える。笑顔の仮面の下から発せられた気迫に、工場中が振り返る。

 気合一閃。薙ぎ払われた刃によって、ジャンキー・ジャックの首が落ちた。

「いやあ~、毎度ながら結構なお手前で、旦那」

 そう、軽薄に口を挟んだのは、先程腰も低くクーラーボックスを持ち込んだ男だった。彼は腰に引っかけていたフェドラハットを取ると息を吹きかけ、手首の先まで気障な所作で被った。映像の中でユーリ・フィリペンコを拷問していたときのような冷酷さは、その人懐っこい笑顔のどこからも垣間見えなかった。

「でも凄かったぜ、Y氏。タマなしになっても愛しのJJの居所を吐かなかった」

 像が頬を膨らませる。「そもそも、あんな酷いことしなくたって、私たちにはこの場所がわかりましたっ……」

「酷いなあ、俺はお嬢が見たがってるからやったのに。そもそも俺ちゃんってば気が弱いから……」

「ゾエル、そいつの首を狩って」と幻。

 まだ血の滴る刃を本当に構える〈首狩りゾエル〉に、フェドラハットの男は一気に一〇歩ほども後退った。

「まあまあ、積もる話は道中にしましょうや。車を回しますから」

 そうね、と幻が応じる。ゾエルは刀の血を拭いて鞘に収める。

 男たちが、搬出の手を休めて整列する。その中心を、〈首狩りゾエル〉を従えて歩くゴシック&ロリータの双子――その名も〈幻像姉妹スペクター・ツインズ〉。

 彼女たちの父親の名は、入江明といった。

 自称・北朝鮮工作員にして、新興コリアン・マフィア〈三星会〉の指導者だった男である。半年ほど前、彼はブギーマンを名乗る覆面のヴィジランテとの戦いに敗れて警察に拘束され、その後射殺された。

 そして彼の遺したものが、再び動き始める。

「行くわよ、像」

「はい、お姉さま。でも、どちらへ?」

「決まっているでしょう」と幻は言った。「ブギーマンを、箪笥の影から引きずり出すのよ」

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