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 翌日からは冬休み。ようやく平穏を得た道哉の一日は、居候する榑林邸の、縁側の柱にもたれて新聞に目を通すところから始まった。

 ドバト男二名の逮捕を伝える報道だった。

 自身が強姦した女性の映像をネット上に配信し、莫大なアクセス数を稼いだ男。ネット上ではドバト男が一連の広告料収入で稼いだ金額の試算もなされていた。事件のセンセーショナルさから硬軟のメディアがこぞって取り上げ、昼のワイドショーなどはドバト男一色だった。

 だが、報道の大半は強姦魔の悪辣さからなぜかインターネットの異常性を攻撃する方へ向かい、それを消費した普通の人々のことには触れようとしなかった。あくまでドバト男は異常な世界の住人で、彼らがもたらしたものも異常な世界の産物。報道が対象とする最大多数の人々が暮らす普通の世界とは関係がないのだと暗に、だが声高に、主張していた。

 ドバト男の残した映像は、今後恐らく、動画サイトなどにアップロードされるたびに即時削除される類のものになる。一部の、一連の事件を知る人間たちの間でだけ語り継がれ、彼らのローカルストレージに残る。そしてそれらが耐用限界に達した時、全ては忘却の彼方へ消える。

 似たような伝説的なポルノ映像がネットの世界にはいくつかあるらしく、そういった伝説化は止められないだろう、と羽原紅子はシニカルに笑っていた。

 彼女は即日、ドバト男のハードディスクに収められていたうち、告発を望んだ女性のものを抽出してメディアに焼き付けた。これを追跡が困難な形で本人に送付すればひとまずは一段落だった。

 ハードディスクの方は、道哉の手で物理的に破壊した。ドバト男が自宅あるいはクラウドのストレージにバックアップを残していない保証はどこにもなかったが、紅子は大丈夫と断言した。ドローン越しの事情聴取の際、バックアップは残さないことが女たちとの約束だと証言したのだという。

 異常者だけにそのこだわりは信じられる、というのが紅子の見解だった。

 午前中に、道哉は小森モータースへ向かった。種々の書類手続きを経てナンバープレートもつき、納車前整備も完了した火の玉ゼファーが、青地に白の看板の下で道哉を待ち受けていた。

 小森は、年の瀬も迫る寒い日にも関わらず、やはり半袖だった。赤銅色の腕は金属かゴアテックスか何かでできているのだと思った。道哉は冬用のジャケットにオーバーパンツで完全防寒装備だった。

 おっかなびっくりで操り帰宅する。ゼファーχ。四〇〇cc空冷並列四気筒のエンジンは抜けがよく、特に低回転域でのパワーフィールがこれまでに乗った車両より弱く、排気量が大きければ何でも大きいと思い込んでいた道哉を戸惑わせた。

 榑林邸の離れの脇に停め、カバーをかけると、刃物のような目線を感じた。バイクには大反対していた榑林一花だった。引き戸で身体を半分隠すようにした彼女。怒り、憎しみ、悲しみ、失望といった信頼の対岸にある感情の数々を一斉に浴びせられ、道哉は思わず肩を落とした。

 止めとばかりに半紙を一枚示す一花。『暴走族』と書かれていた。

 確かにゼファーは八〇年台に族車のベースとして一世を風靡したフェックスことZ400FXの系譜に連なる車両である。意外と理解があるのかもしれないと頷いていると、「違いますから」という据わった声を残して一花は室内へ戻っていった。

 夕刻、刑事を名乗るふたり組の男が榑林邸を訪れた。主の榑林一真はこれ見よがしに嫌な顔をしたが、一花が愛想よく振る舞い男たちを居間に通した。彼らの目的は、ここに居候する憂井道哉という高校二年生の少年が、筋肉の方のドバト男に襲われたことの裏取りだった。

 番のドバト男はいずれも警察の取り調べに対し素直に応じているのだという。

 筋肉のドバト男は、ドバト男になる前から都内各地の格闘技ジムや道場に張り込み、練習を終えた門弟を襲撃していた、その筋では知られた有名人だった。はた迷惑な現代の道場破りだが、単なる喧嘩はめっぽう強く、ジムや道場の運営者の頭を悩ませていた。

 彼を知る者は、ハトのマスクはただの気まぐれだと思っていた。連続強姦魔と二人三脚で活動しているとは誰も想像だにしなかったのだ。

 災難でしたね、と刑事は笑っていた。事件からまだ一晩にもかかわらず、彼は榑林邸が取り上げられた新聞記事のスクラップを手にしていた。記事になったから襲撃されたのは偶然。それ以上のことは警察は何も気づいていない。

 だが、一晩という速さは道哉を慄然とさせた。警察では取り締まれない、警察は無能だと紅子は繰り返していたが、取締可能な罪に対して警察は圧倒的に強いのだという当たり前の事実を思い知らされていた。

 だが、今回逃げ切れたのは、決して幸運だけの産物ではないと、道哉は確信していた。

 刑事二人が帰った後の居間で、思うところあってじっと腕組みしていた道哉に、湯のみとお茶菓子を片付けていた一花が「そういえば」と言った。

「明日、ちょっと友達と出かけてきます」

「ん。了解」

「みんなでクリスマスパーティしようって言ってて。夜、遅くなるかもです」

「あ、クリスマスか。すっかり忘れてた」

「あの、道哉さん」と一花は眉を寄せた。「いくら浮世離れしてるからって、そのクール気取りはちょっと引きます。大体、テレビも広告も全部クリスマスなのに、忘れるわけないじゃないですか。最近結構出かけてましたし」

「えっと、あ、いや……」

 彼女の言うことは正しい。家を出るや否や地下に潜り、東京を震撼させた連続強姦魔と戦いを繰り広げていれば世間の浮かれた気分など忘れてしまうが、普通の人なら、嫌でも目に入るのがクリスマスというイベントだ。楽しみだ、と応じるのが正しかった。

 狼狽える道哉を見ると、一花は嘆息して言った。

「別にいいですけど。道哉さんが何してようが」

「別にも何も、興味ないとか気取りたい年頃だから、俺も、バレてたかあ、ははは……」

「その子の家にみんなで泊まってくるかもしれないです」

「みんなでお泊り会? いいね、そういうの」

「ので、電話番号を置いてきます。何かあったら連絡してください」

「俺? 一真さんは?」

「視覚障害者の方の集まりで挨拶しなきゃならなくなったそうです。今年は断りきれなかったって、言ってました」

「あの人も忙しいんだな」

「今回は忙しいふりじゃないみたいです」

「上手いよなーあの人、忙しいふり」

 一花はそれには応じず、エプロンを取って道哉の向かいに座った。

「あの、道哉さん。大したことじゃないんですけど」

「何?」

 一花はいつになく真っ直ぐな目線で言った。「道哉さんにとってのわたしって、何ですか?」

 不意打ちだった。

 咄嗟に応じる言葉が見つからなかった。黙っていれば黙っているほどおかしな空気になることが肌で知れたが、何も言えなかった。

 戸惑いを誤魔化してやっと疑問が湧いてきた。道哉は言った。

「どうして急に、そんなこと?」

「いいから答えてください」常にない断固とした口調だった。

 可愛い従妹だよ、と言おうとしてやめる。そんな言葉を求めていないことはわかった。

 両親の事故死まで、道哉と一花はあくまで他人だった。ひとつ屋根の下に暮らし、一真を師であり兄とするようになったのは両親の死後であり、一花との関係も同時に劇的に変わった。他人から家族のようなものになったのだ。

 幼少期を共に過ごさない家族だったためか、一花と過ごす時間には常に違和感があった。怜奈には冗談めかして再婚した両親の連れ子同士などと言ったが、それは言い得て妙なようで当を得ていない表現だった。

 つまり家族であるはずの榑林一花を異性として見てしまうことがあった。

「一真さんはさ、七割くらい本気で言ってたよ。結婚して継げって話」

「わたしも、絶対に嫌だとは思いませんでした。昔のお見合い結婚ってこんな感じなのかなあ、って思いました」

「他に好きな人がいるなら不幸ってことだ」道哉は、一花の透き通った瞳を覗き込んだ。「いるんだ」

「はい」一花は真っ直ぐに目線を返した。はにかんだ頬にはうっすらと朱が差していた。そんな彼女が常になく艶めいて見えた。同時に、薄氷の上を踏むようだった関係が崩れていくのを感じた。煙のように漂っていたものが固まる。はっきり言葉にできなかったものが、単純な言葉へと落ち込んでいく。得る、得られないに関わらないところで、それは大きな悲しみを伴っていた。もう曖昧なふたりではない。

「一花ちゃんは俺の可愛い従妹だから」道哉は頬杖をついて言った。「嫌な気持ちにさせられたらすぐに言えよ」

「はい。明日、出かけるならちゃんと鍵をかけてくださいね」

 あいよ、と応じると一花は居間を後にする。

 残された道哉は息をつくと、もう何度か目を通した新聞を再び手に取った。そして日付を見て、ふたつのことを思い出した。

「あ」

 まずは片瀬怜奈のこと。彼女は、『二十四日の予定、訊こうと思ったの』と言っていた。あれからドバト男が現れて何もかも曖昧になってしまったが、事件はもう片づいた。

 そしてもうひとつ。

「あーっ!」

 道哉は椅子を倒しながら立ち上がった。

 島田雅也が、二十四日の夜、一花とデートの約束を取りつけたと言っていた。


 どう切り出すか。どう話せばいいのか。悩みに悩んだ挙句、道哉は発信ボタンを押すことができなかった。だが翌日の朝、何もかも一旦忘れて布団でぬくぬくとしていた道哉を、携帯電話の着信音が叩き起こした。発信者は片瀬怜奈。寒さも忘れ、道哉は飛び起きて応じた。

「はい、はい、もしもし?」

「もしもし? ごめんね、朝早くに」

「いいよ。どうしたの?」

「有沢先生から連絡があった」

 道哉は思わず姿勢を正した。「マジかよ。何だって?」

「気にしてたよ、道哉のこと」

「何かあったわけではないのか?」

「まあ。月に一度は彼に会ってるし」

「そうなのか?」

「野崎の月命日にね」

「……いや、それ俺にも声かけてよ」

「あんたは忙しいでしょ。それに、あたしの問題だから」

「怜奈の?」

「君は誰も殺していないし、普通の恋に生きてもいい」怜奈は書かれた文を朗読するように言った。「有沢先生、結構気障なこと言うよね」

 始まりは贖罪だった。

 野崎悠介の死と、その最後のひと押しになったかもしれない怜奈の言葉。怜奈がチーム・ブギーマンのエージェントとして活動する理由には、その罪の意識があった。野崎悠介は片瀬怜奈に憧れ、片瀬怜奈はその憧れに気づきながらも拒絶した。間に佐竹らのおぞましい行いがあったにせよ、最後の引き金を引いたのは自分だと、彼女は考えていた。

「でも、もう行かない」

「どうして?」

「忘れちゃいけないけど、引きずられるのはもっといけないから」

「年に一回くらいは行こうよ。俺も一緒に行きたい」

「年に一回、年賀状みたいに?」

 そうそう、と道哉は応じ、会話が途切れた。

 久し振りに有沢と話がしたかった。まだ、ちゃんとお礼を言えていなかった。

 数秒の沈黙があって、怜奈は言った。

「それとは全然関係ないんだけど、道哉」

「何?」

「あんた今日何か予定ある?」

 カレンダーを見た。十二月二十四日だった。

 これが彼女の本題だと気づいた。


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