⑱
「ぽぽぽ~」
頭を振りながらドバト男が立ち上がる。明後日の方向を向いたマスクを直し、蝶ネクタイを直す。そして、目の前にあるものが食べられるかどうか探る街のドバトのような仕草で、崩れた木材の山を窺う。
ぽっぽっぽっ、と声を発しながら接近。黒いブーツを見出す。大げさなプロテクターに覆われた胴体を見出す。そして、フードの下の、黒い包帯で完全に覆われた顔を見出す。
包帯が揺れていた。頭上に、何かの回転音が聞こえた。ドバト男は、ブギーマンと呼ばれる男のフードに手を伸ばした。吸い寄せられていた。その影の下に何があるのか、確かめずにはいられなかった。この街の影を煮詰めた後に残った何かが人の形を取ったような男の正体を、見定めてやろうという蛮勇が、この時のドバト男を支配していた。
興味があった。この男は、何の目的があって、犯罪者に私刑を下して回っているのか。
ハトの仮面が欲望であるとして、何者でもない顔のない男は、何を代弁しているのか。
理性か。狂気か。嘘か。真実か。力か。怯えか。それとも愛か。
全てを自らの色に塗り込めるその黒が、乱れた。
それは混沌であり、無であり、全てだった。
その時ドバト男は悟った。誰かのためだとか何かのためだとか、そんな地に足の着いた理屈や欲望はこの男には通用しない。どこからやってきてどこへ行くのかなど、この男に問うても意味がない。
なぜならブギーマンは、人間ではないのだから。
黒い革手袋に包まれた手が、ドバト男の手首を掴んだ。
枯れ木のように関節が軋む。ブギーマンが起き上がる。ドバト男の全身が戦慄に震える。笑いと区別がつかない姿で人々に恐怖を与えてきた男が、初めて味わう恐れだった。
手首が壊れた人形のように曲がった。
ハトの演技を忘れ、ドバト男は悲鳴を上げた。黒い悪霊がゆらり、と立ち上がった。逃げなければならないと思った。
もう遅かった。
ブギーマンの膝がドバト男の腹部にめり込んだ。
殴打、殴打、殴打――一方的な蹴りと拳がドバト男を襲う。マスクが吹き飛ぶ。顔面に拳がめり込む。膝を崩され、肘を打たれる。倒れるまじと踏み留まれば、後ろ回し蹴りをまともに受け、集合住宅の扉を突き破って玄関に仰向けに倒れる。
歯が折れていた。殴られたところが腫れ上がり、片目が見えなかった。見える方の目も涙で霞み、全身黒に身を包んだブギーマンは、幽霊か亡霊か、あるいは何かの妖怪のように見えた。
胸ぐら代わりに蝶ネクタイを掴まれる。
殺される、と思った。
一刻も早く許しを請わねばならないと思った。だが何を口にすればいいのかわからなかった。この男は人間ではなかった。人間ではないものに何を言えば伝わるのかなど、想像もつかなかった。
むしろ、せめて人間でいて欲しい、ブギーマンが人間であることへの賭けだけが命を永らえる唯一の方法だと、ドバト男の本能が直感した。情に訴えかけるしかなかった。男、男だ。子供がいるかもしれない。妻や娘がいて、だからこそレイプ行為に怒りを燃やしているのかもしれない。そんな動機で目の前の男が戦っていないことなど、拳を受ければ一瞬で理解できたが、そう思わずにはいられなかった。
許して、許して、とドバト男は呟いた。
「アンタも、見たでしょお、映像。ちょっとくらい、イイって、思ったっしょお」
次の瞬間、ドバト男の意識は途絶えた。
*
無数の目に見られていた。
元は技能実習生か留学生か、それとも密航した難民か。この国に居場所のない外国人たちの群れが、暗闇の中から灰村禎一郎を見つめていた。
だがまだ、走り去るわけにはいかなかった。
ドバト男を殴り、蹴り、羽交い締めにして地面に転がす。だがそのたびに、ドバト男は立ち上がる。格闘技の素養などはないらしく、特にその抵抗に力強さは感じない。だが、異常な執着のようなものを感じた。
どんなに殴られても、ドバト男は、目の前の頭巾を被った覆面のマント男を見ようとしなかった。その目線は、常に震える女へ注がれていた。まるで、女が自分を裏切ることなど絶対にないと心の底から信じているかのようだった。
ドバト男にとっては、自分と愛を交わしている女こそが正しかった。だから、怯え、蔑み、そして怒りの目を向けている女の姿を前にしても、その感情を正しく受け取ることができなかった。
だからドバト男は、女が裏切りの演技をしているのだと考えているようだった。
笑うのだ。
とっくのとうにマスクは落ちていた。どんなに殴られても、ドバト男は女に向かって笑顔を向けていた。それは、思春期の娘に憎しみを向けられた父親のような苦笑いだった。悲しいな。でも年頃だから仕方ないな。心の底では信頼で繋がっているし、いつかはそのことを理解してもらえるけど、今はこちらがおとなになって我慢してあげなければならないな。そんな気持ちが透けて見えた。
おぞましかった。
そんな感情を勝手に妄想し、納得し、微笑み続ける男の精神構造が理解し難く、禎一郎は殴ることさえ躊躇った。唾棄すべき行為を働いた男への怒りが、哀れみへ変わりかけていた。その哀れみはやがて、無関心へ変わるだろうことが自分でもわかった。
追跡戦の時は三拍子地区のかなり奥地まで入り込んでしまっていたが、いつの間にか外周へと近づいていた。ゼネコンのロゴが印刷された仮囲いが見えたのだ。
朽ちたプレファブ小屋の外壁にドバト男の身体を叩きつける。まだ笑っている。そのままずるずると壁に沿ってドバト男の細長い身体が崩折れる。
右の手首にまだしっかりと握り締められたスマートフォンとハードディスクドライブ。手首を踏み、力を込め、無理矢理に引き剥がして奪った。スマートフォンの方は、その場で破壊する。
ドローンが一基、ゆっくりと飛来し、電子音声に変換された羽原紅子の声が言った。
「さて、ドバト男。貴様には訊きたいことが山ほどある。時間もない、素直に答えてもらうぞ」ぽー、ぽー、と唸るドバト男。構わずに紅子は続けた。「質問はみっつだ。ひとつ、もうひとりのドバト男とはどうやって出会った? ひとつ、貴様はどうして『Dream for All』の難民支援住宅をレイプ現場にすることを思いついた? ひとつ、監視カメラを欺瞞する行動術や配信元の追跡を不能にする不正アクセス技術を、貴様は誰から手に入れた? 最後のひとつだけでもいい。今すぐ答えろ。私の推測が確かなら、それだけで十分なはずだ」
ドローンには記者が使うような携帯型の録音機が固定されていた。録音と書かれたランプが緑色に灯った。
ドバト男は、ハトの声で何言かを呟いた。ややあって、人間の声で切り出した。声は小さく、何を言っているのか禎一郎には聞き取れなかった。
事情聴取は五分ほども続いた。禎一郎の背中に隠れるように、女はずっと啜り泣いていた。なんと声をかけていいのかわからなかった。抗えない絶対的な恐怖に、二度も襲われた女にかけるのに適切な言葉を、禎一郎は知らなかった。でも何か言わずにはいられなかった。それを我慢できないのが憂井道哉との自分の違いだと理解しながら、禎一郎は振り返った。
「大丈夫です」ずっと俯いていた女が顔を上げた。涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃだった。「もう大丈夫ですから」と続けて言っても、女の震えは止まらなかった。剥き出しになった、真っ白な腕と脚。自分より少し年上のように、禎一郎には思えた。ほとんど裸に近い姿のために目のやり場に困り、禎一郎は目を逸らした。
せめて、身体を覆うものを。そう思って、防刃繊維のマントを脱ごうとした時だった。
いつの間にか、中東系と思しき外国人の女が近づいていた。大きな布を差し出していた。茶色く薄汚れていたが、彼女はそれを、震える被害女性の身体にかけた。そして、彼女の国の言葉で何事か呟くと、被害女性を抱き締めた。
時間にして数秒ほどだった。だが、震えは止まっていた。代わりに彼女は、何が起こったのかわからないといった様子で呆然としていた。
外国人の女は、被害女性と禎一郎と、ドバト男とを順番に見て悲しげに微笑むと、三拍子地区の混沌の中へと消えた。
それから禎一郎にとっては唐突に、ドローンは上昇し靄がかかる街の灯の中へと消えた。その飛び方は心なしか満足げに見えた。
今度はインカムから羽原紅子の声。
「残念な知らせだ。警察の車両が接近している」
「……マジっすか」
そう応じた途端、急に周囲の音がクリアに聞こえた。特に、雑踏を貫くパトカーのサイレンの音が。
「ああマジだ。まずは君の左手にある仮囲いへBの爆弾を投げろ。クゾゼネコンと地上げ屋のゴミどもへの憎しみを込めろよ」
これに付き合う憂井道哉は相当寛大で気が長いに違いない。苦笑しながら、言われた通りの爆弾を壁に投げた。すると、耳元で思い切り手を叩かれたような音とともに、金網に何かを張った囲いの一部が破れた。近づいて、手で押し広げると、人ひとりは通れそうなスペースができた。
サイレンが近づく。
ここを出ればいいのか訊くと、紅子は即答した。「被害女性だけだ。君は別ルートだ」
「そんな」禎一郎はげんなりとして応じ、女を手招きする。
「あの」と彼女が言った。先程までの憔悴が信じられないほどに落ち着いた声だった。「ありがとう。その……あなたは、一体?」禎一郎が答えずにいると、彼女は続ける。「お名前を、教えていただけますか?」
「俺は」と応じかけ、口ごもった。
何者なのか。
少し考え、彼女の背中を押して三拍子地区外へ押し出してから、禎一郎は応じた。
「
即座に身を翻し、朽ちかけの柱を蹴ってプレファブ小屋の上に飛び乗る。鉄パイプを伝い崩れかけの建物へ飛び移ると同時にサイレンが止まり、たった今破壊した仮囲いの隙間から赤色灯が差し込んだ。雪崩れ込む警察官。ドバト男が拘束される。
「ファースト、セカンド、よく聴け! 三方向から警察車両が接近している。だが君らなら切り抜けられる。セカンドの身体能力とファーストの天性の勘があればな」
「具体的な方法を説明しろ!」憂井道哉の声が耳朶を打った。あの怪物のようなドバト男を相手に、無事であることが嬉しかった。「どのルートを、どう走ればいい。お前が示した道なら、切り抜けられる!」
「セカンドはそのまま直進。今は二階だな?」
「二階です。壁も何もないですけど」
「その建物なら好都合だ。――ファースト、次を右折。いったん停車しろ。やり過ごす」
「了解」
「怜奈くん、タイミングは任せるぞ」
「うわ、重責」と怜奈の重たい声。
「葛西、そこを右折だ。怪しまれるなよ。女子高生ふたりを乗せた淫行前科持ちなど一発逮捕だぞ」
「それ言う? おかしくないかな? 僕のこの役回りおかしくないかな?」
「黙れ、前線の通信が聞こえん」
羽原紅子と葛西翔平の言い争いを貫くように、サイレンの音が四方八方から聞こえる。距離感も方角も掴めない。
捕まるかもしれない。
そう思うと、脚が竦んだ。
知らない街。知らない人々。綿密に下調べをしてから行うパルクール・パフォーマンスとは根本的に違う。だが同時に思う。これは、パルクールの本来の形に近い。
本来のパルクールは、パフォーマンスやアクション映画の演出ではなく、都市空間における移動術だ。狭く特殊で本来移動するために作られたのではないオブジェクトを徹底的に活用して、どんな場所でも最高速で駆け抜ける。
人間が都市を作った。なら都市のあらゆるものは、人間の身体活動を拡張しうる道具である。
目に見える姿だけに囚われてはいけない。
一見不可能に思えても、必ずどこかに突破口はある。なぜなら街は人間が作ったものであり、灰村禎一郎は人間だからだ。人の作ったものならば、必ず人に利をもたらしてくれる。それが本来あるはずの形であり、失われかけたその形を見出すのが、パルクールだ。
「セカンド……いや、灰村。正面は開けているな? 君がいるのは建物の二階、その先に……」
「大丈夫です」と禎一郎は応じた。
困惑したような羽原紅子の声。「おい灰村。無茶は……」
「大丈夫です。タイミングを下さい」
「ええい、どのみち今だけだ。怜奈くん、預けたぞ」
「よっし……ファースト、セカンド、いい? 三拍子で行くからね」道哉と禎一郎が各々に応じ、数呼吸置いて怜奈が言った。「スリー、ツー、ワン……ファースト、ゴー!」
インカムを通じて激しいモーター音。どこかで憂井道哉が大出力超静音バイクを発進させたのだ。
それから三秒も経たずに怜奈の号令が飛ぶ。「カウント、スリー、ツー、ワン……セカンド、ゴー!」
「行きます!」
引き絞られた矢のように、禎一郎は出走した。
朽ち果てたビルの二階フロアを駆け抜け、ベストな歩数で踏み切る。宙へ――重力が消滅するような浮遊感。内臓が引き込まれる失墜の感覚が、逆に脳内麻薬を迸らせて最高の興奮へと変わる。全身が電撃に打たれたようにピリピリと痺れる。真冬の風が氷のように肌を刺す。
街が見えた。
遠くにサイレン。無数の灯火。今日も懸命に生き、懸命に暮らす無数の人々。ありとあらゆる命の光が、禎一郎の全身を包んだ。風の中を泳ぐように、両腕を回す。この街が観客だった。
見てろよ、お前ら。
禎一郎は誰へともなく呟く。
そして鋼板仮囲いの――板厚僅か一.二ミリメートルの頂点で片足をつき、衝撃を生かさず殺さずで受け止め、宙返りしながら落下。視界の右端に、街に溶け込むようなモータ音を発しながら、無灯火・猛スピードで疾走する夜間迷彩のバイクを捉える。
歩道と車道を隔てるガードレールで逆立ちするようにさらに衝撃を殺し、前転して車道へ転がり込む。
タイミングは完璧だった。
いつもならそのまま走り出す勢いを利用してジャンプ。そこへほんの少しだけ減速しながら、憂井道哉――ザ・ファースト=ブギーマン・ザ・フェイスレスの駆るバイクが突入する。
シートの後ろに収まる禎一郎。その右手には、ドバト男のハードディスクドライブ。頭上を複数のドローンが飛び、そして散開していった。
深く息をつく禎一郎。するとハンドルを握る憂井道哉がふいに口を開いた。
「やべえ。どうしよ」
「え、何かミスりましたか、俺」
「違う」憂井道哉は、顔のない顔で振り向いて言った。「免許取得後一年間は、一般道でのタンデム走行は禁止なんだ!」
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