ゼネコンのロゴが書かれた囲いを飛び越える。元来二階建てほどの高さがあったが、放火や暴力によって崩され、白地は落書きで装飾され、もはや往時の面影はない。

 勢いを殺しながら『三拍子』地区へ転がり込む。棄民、貧民、犯罪者。強盗、強姦、恐喝。麻薬、コカイン、覚醒剤。三拍子が意味するありとあらゆるこの世の悪徳が四方から迫ってくるように思えて、灰村禎一郎は防刃繊維のフード付きマントをこれ見よがしに翻した。

 目から下を覆ったマスク越しに感じられるほど、鼻につく臭いが漂っていた。汚物。腐敗臭。そしてそれらを覆い隠そうとする刺激的な香料。異様な空気に感覚が鈍らされる。

 左右を見回す。基礎と鉄骨だけで放置され、汚れたビニールやボロ布で囲われたテントのようなものがそこかしこに見える。八方から血走った目が向けられる。人種、性別、年齢、全てに統一感がない。だが汚れていることと、背筋が伸びていないことは同じだった。

 まるでテレビの中で見た途上国の市場か何かのよう。我が目を疑う。曲がりなりにも日本の、東京のど真ん中にこんな場所が存在していることが信じられない。

 どこだ、と呟き目を凝らす。

 頭上、三階建ての建物が解体半ばで放棄され、柱と床だけになったものの、元二階部分に、ドバトマスクの男の姿を見出す。女が叫んでいる。言葉が通じなくても理解できるだろう尋常ではない叫び声だが、地区の住人らは手出しする気配もなかった。ただ、秩序を乱す異分子が一刻も早く立ち去ることを祈っているかのような目線だけを送っていた。

 ドバト男の手にはハードディスクドライブ。

 声が聞こえた。名前も知らない女の声。なるべく知らないようにした、被害者そのものの声。

 デリケートな事件だとは禎一郎にもわかった。一度被害に遭えば決して取り戻せないものを奪われ、拭えない屈辱を味わうことになる。

 母親がいないこと。今の家族との折り合いが悪いこと。そんな壁を前にしても這い上がってきたのが禎一郎だった。友を傷つけたブラック・ネイルズへの報復が潰えようとした時も、禎一郎は這い上がった。自分のその強さが自慢であり、誇りだった。だから、拭えない屈辱というものは想像の範疇になかった。

 だから聞かないことにした。ドバト男という変態野郎が気に入らないからただ殴るだけだと自分に言い聞かせ、差し出がましい共感を自分に禁じた。

 ザ・ファースト――憂井道哉も同じことを考えていると思った。

 彼がブラック・ネイルズの頭目だった野上善一を恫喝する声を、禎一郎は耳にしていた。広い地下道が丸ごと揺さぶられるような激しい怒りに、禎一郎は瞠目した。とぼけたような出で立ちの彼が腹の中に飼い殺している黒い怒りの巨大さを、その時に知ったのだ。

 にもかかわらず、今回の事件に対して、彼は平時のようなぼんやりした態度を貫いていた。羽原紅子へ怒りをぶつける片瀬怜奈の背中を目にした時、みな同じなのだと気づいた。

 憂井道哉と羽原紅子のふたりは、人間から遠ざかろうとしている。

 そして彼らが守りたいと思っているものを、人間味のある世界に留めようとしている。

「今だって……!」

 舌打ち。走る。積み上げられたコンクリート材に片手を触れながら飛び越え、住居と化したコンテナの壁を蹴って屋根へ。そこから飛び出した鉄骨に手をかけ、禎一郎はドバト男と同じ高度までよじ登る。

 被害女性と接触する役割を片瀬怜奈に預けた羽原紅子。連れ去られる女性を助ける役割を託した憂井道哉。彼らは似ている、と禎一郎は思った。形の上では面倒事の押しつけだが、彼らは理想を共有している。

 人ではない存在になるという理想を。

 何よりも純粋な正義の味方。どこからともなく颯爽と現れ、悪を成敗し、颯爽と去る。

 そこにはイデオロギーも感情も必要ない。世の中に正しさをもたらすためにただ戦う。それだけ。

「じゃあ俺は、何だ!」と禎一郎は叫んだ。

 崩壊した建物が形作る意図しない吹き抜けを最大加速で飛び越える。肩から前転しながらの着地。鉄パイプで組まれた足場の跡を飛び越えながら、布やビニールのはためきを貫き矢のように疾走する。

 ドバト男に蹴られ、逃した時、確かに悔しさを感じた。だがそれは、ドバト男に負けた悔しさではない。セカンドの自分が、ファーストのように戦えなかったことの悔しさだった。

 感情や共感に依存せず、常人には理解できないスキルを持ち、ただ純粋な意志でこの世に正義をもたらそうとする彼に猛烈に嫉妬し、強烈に憧れた。

 遠かった。

 どんなに走っても追いつけなかった。

 灰村禎一郎は、走るのが早いただの人だった。

 ドバト男が砂利道のスロープを下る。禎一郎は、すぐ横を二階ほどの高さから身を躍らせる。捻りを加えた前方宙返り――膝のクッションを万全に効かせて着地。防刃繊維のマントでガラスやコンクリート片から身を守りながらの前転で勢いを殺さず、逆に着地の衝撃を前進力に変えて即座に再び走り出す。

 ドバト男がぎょっとして首を仰け反らせる。いつの間にか、肉薄といっていい距離まで接近していた。

 腕を組まれた女が、暴れながら何か叫んでいた。身体には痣が目立ち、顔も腫れていた。乱れた髪。血だらけの足。残された全ての力を振り絞っての抵抗と知れた。そして青ざめた唇から、最後の希望に縋るように発せられたその言葉に、愕然とする。

 ああ、勘弁してくれ。

 そんな声を聞いてしまったら、地に足を着けてしまうじゃないか。

 こう聞こえた。

!」

 待ってろ、と禎一郎は叫んだ。

「俺は誰よりも早い!」



 フラミンゴの構えからの、あまりにも鋭い蹴り上げが道哉を襲った。ドバト男が、マスクの下にあるはずの人間の喉から、ぽっぽっぽっ、と気合声を発する。軸足を入れ替えて三連発。すべてフードを掠めながら躱す。脚が一本のロープになったかのように錯覚するほどにしなやかな連撃だった。

 四発目をX字に組んだ腕で受ける。掴んだ。だがそのまま組技へ移行しようとすると、ドバト男の大柄な身体が躍動した。倒れ込みながら、軸足だったはずの左足による、全身の捻りを加えた中段蹴りだった。

 たまらず防御。数歩後退し構え直す。倒れたドバト男も起き上がる。間合いを詰めれば地を這うような蹴りが襲い掛かってくる。

 ドバト男が繰り出す中段蹴りの連打。防御に徹してひたすら捌く。榑林一真に口伝されたところによれば、舞い散る花弁のような防御。本来はあらゆる技に名前がつけられていたが、一真の先代で全て廃止された。

 肝心なのは呼吸だ。

 吐く時は攻める。攻め続けている時は吸うことを忘れる。だが無限に呼吸をせずにいられる人間はいない。果たしてその瞬間がやってくる。

 ドバト男の、剥き出しの胸が、微かに膨らんだ。

 反転攻勢――蹴り掻い潜り鳩尾に掌底を打ち込む。一撃、残心の構え。ドバト男がよろめきながら数歩後退し、「ぽっぽぉ……」と唸った。

 構えが変わった。

「ムエタイだ!」と紅子の声が響いた。「男を襲った事件のみをピックアップした。全て、被害者は何らかの格闘技を学んでいる。一部発覚が遅れたのは、そいつが被害者を挑発して喧嘩をふっかけたからだ。負けた恥が告発を遠のかせたんだ」

 斜め四十五度に開き、やや後ろ脚に体重を乗せて軽く飛び跳ねるようにステップするドバト男。やや高めのガード。聞いたことがある。ムエタイの、全身の捻りを加えた後ろ脚からの中段蹴りは、全格闘技最強なのだという。一撃で人間の身体を容易く吹き飛ばし、時に命さえも奪う。

 フラミンゴの構えからの蹴りはパフォーマンスにすぎない。そのパフォーマンスでさえあの鋭さだ。実力は推して知るべし。道哉の背筋を冷や汗が伝った。灰村禎一郎が倒されたのも道理だ。

 この男の強さは本物だ。

「そいつは道場破り気取りの変人だ。都内のムエタイジムのブログに破門した弟子のことが書かれていた。写真の顔はこちらで掴んでいる筋肉ドバト男と一致した。君を襲撃したのは、榑林真華流道場が新聞で取り上げられたからだ!」

「粉砕する」

 道哉=ブギーマンの十指が昆虫の脚のように一斉にうごめく。大股で接近。ドバト男が奇声を上げる。果たして放たれる後ろ脚からの中段蹴りへ、敢えて突っ込んだ。

 飛び上がりながら左の拳を打ち下ろす。どちらが早いか、相打ち覚悟――その瞬間、憂井道哉は手応えと痛みを同時に感じた。

 ドバト男は昏倒して外周フェンスに背中から倒れ込む。一方のブギーマンは朽ちた木製パレットと家具の山に突っ込む。砕け崩れる木材。舞い上がった土埃が、漆黒の肢体を一瞬覆い隠した。

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