三拍子地区――元々の名前と合わせて「四の五の言うな」という含意もある、そのわずか五百メートル四方ほどの区画から通り一本隔てた場所に、難民支援団体『Dream for All』がかつて管理していた集合住宅があった。

 不法滞在の外国人が集まる地区に面するように設置された、難民の自立を支援するための住宅施設である。運営開始当初は、非営利団体の活動の美しき成功例としてマスコミにも取り上げられ、代表である入江明が微笑みを浮かべる記事もネットから幾つか拾い出すことができた。

 だが、数ヶ月と保たずにその成功は崩壊する。施設は全員が入居できるほど大きくはなかった。また、入居にあたっては煩雑な難民申請が必要であり、制度に明るくない外国人にとってはハードルが高かった。加えて、政府がその申請を認可することは稀だった。つまり入居のために申請を出せば棄却され、不法滞在者として戦乱の続く故郷へ強制送還されかねないのである。かくして三拍子地区のスラムを根城にした人々は、幸運を手にした、所詮どん底ではない人々を憎んだ。

 施設の窓には空き瓶やコンクリートの塊が投げ込まれ、フェンスは切られ、塀は落書きだらけになった。出入口にはゴミが散乱し、注射器やコンドームがこれ見よがしに放置された。入居者が外出すれば、どこからともなく現れた三拍子地区住民に取り囲まれた。男は恐喝され、女はレイプされた。そして入居者はどこへともなく失踪し、住宅は廃墟となった。

 そしてDfAが崩壊し、管理責任が宙に浮いて現在に至る。最近はとあるインディーズロックバンドが無許可で敷地に侵入し、プロモーションビデオの撮影を行ったことでも話題になった。

「最寄りの出口から建物まで六百メートルほど距離がある。二本隣の路地に二輪を止めろ」

「了解」

 無人の小学校の外壁に面するように設置されたプロパンガスボンベ置き場。だがこの地域は基本的に都市ガスであり、プロパンは使われない。にも関わらず置き場が存在する。気に留める者はいない。万が一気づいても、古い設備が撤去されていないだけだろうと納得し、それ以上踏み込むことはない。

 コンクリートブロックが二メートルほどの高さまで積み上げられ、トタンの屋根を張っただけの簡素な置き場。道を挟んで反対側は神社であり、人通りはない。腐りかけた木の板を簡単な金具で留めた、扉とも言えないその扉が、内側からひとりでに開いた。

 都市の隙間に空いた暗闇。冷たい風がその奥底から微かに吹き上がる。ファンが回るような街のどこにでもある音が、風と共に這い登る。

 そして黒い旋風が姿を現した。

 黒いブーツ。両脚を締めつけ膝にプロテクターの入ったパンツ。威嚇、警告、発破用の火薬類や格闘武器を満載したベルト。黒いインナーにハードプロテクタを露出させてハーネスで固定した凶悪な装いの上半身。フードを被った頭部、そして黒い包帯で巻かれたミイラのように見えるよう装飾されたマスク。

 跨るのは都市迷彩を施された完全電気駆動の大出力静音オフロードバイク。路地から路地へ。人目についたとしても一瞬。むしろその一瞬がブギーマンの伝説を形作り、存在と非存在の境界を曖昧にする。一分程度で指定の路地に到着し、ゴミ捨て場の脇に停める。予め地上チームが置いておいた隠蔽用のネットを被せる。

 そこから先は徒歩で移動。どこからともなく現れた灰村禎一郎が、歩いて三歩、跳んで一歩ほど背後の塀の上から随伴する。

 互いに無言。だがインカムからはメンバー間の通信が入る。

「危ない危ない……ドローンを盗まれかけたぞ」

「何してんの羽原さん」

「三拍子地区の偵察飛行だよ。参った、構造がまるで把握できん。奥まで飛ばすと解体されて売られてしまいそうだ。私の虎の子が」

 今度あたしにも教えて、ダメだダメだ、という紅子と怜奈の話し声が聞こえる。

 三拍子地区を横目に敷地へ侵入。どこにも錠前などかけられていない。かつてかけられたものが、全て破壊されたのだ。

「やつは二階だ。また爆薬か、本当にレイプ遂行中かは……」インカムからの紅子の声が一度途切れ、それから続いた。「今回は実行中だ。割れ窓から見える。映像も配信中だ」

「まずはそっちを止めるぞ」

 枯れ草の跡が残る湿った土を踏み分け、投げ込まれた廃棄物を躱して建物入口に接近する。両開きの引き戸は学生寮か何かを彷彿とさせた。遠くに街の雑踏。通りの向こうに三拍子地区の混沌とした気配。二階に物音。そして先行した禎一郎が、煤けて蜘蛛の巣が張った引き戸に手をかけようとした時だった。

「待て、セカンド」と道哉は言った。「誰かいる」

 内側から扉が音を立てて開く。勢いのあまり扉は外れて左右へ。過剰演出なLED照明が灯る。いつか自分たち自身が行ったこと――まるで現代アートのように黒包帯で飾った連続放火魔を思い出す。

 逆光の中、大歓迎するかのように両腕を大きく広げた男がいた。

 黒いタイツ。上裸の上からぼろぼろのデニムベスト。なぜか今日は首に蝶ネクタイを巻いている。そして頭には宴会グッズのようなハトのマスク。

 ドバト男、その人だった。

「どっち」とインカムから怜奈の声。「眼鏡? 筋肉?」

「筋肉だ」と道哉。「どういうことだ。二階では……」

 ドバト男『筋肉』が首を下へ向けた。そして頭上を見上げ、叫んだ。

「くるっぽーーーーーーーー! ぽーーーーーーーーー!! くるくるっぽーーーー!!」

 道哉の脳裏に電流が走った。

 これまでの再三の探索をドバト男が躱し続けた理由。男を襲うことと女を襲うことの矛盾。顔が二種類キャッチされたということ。

 この叫びは、仲間への警告。

 なぜ考えなかったのか。ブギーマンはふたりいる。やつらも同じなのではないかと。

 ドバト男もふたりいるのだと。

「くそ、やられた」同じ結論に達したらしき紅子が呻く。「拉致・監禁・移送役とレイプ・録画・配信役のだったんだ。ファースト・アンド・セカンドだよ。ドバト男も!」

 二階から物音。そして女の悲鳴。もうひとりのハトマスクの男が、この寒空にスリップひとつの女を羽交い締めにしながら、外階段を早足で下っている。ボディバッグがひとつ。手にはハードディスクドライブとスマートフォン。そのカメラは、唖然とするふたりのブギーマンの姿を、女越しに捉えていた。

 禎一郎が走り出そうとする。

 その行く手に立ち塞がる筋肉のドバト男。

 一方、レイプ担当眼鏡のドバト男は、階段を降りて通りを横断する。三拍子地区へと逃げ込もうとしているのは明白だった。

「邪魔すんなこのハト野郎! ナメたツラしてんじゃ……」

 激高する禎一郎の肩を道哉は掴んだ。「こいつは俺がやる。お前は眼鏡を追え」

「でも……」

「お前なら三拍子地区の内部でも追いつける。行け!」

 禎一郎が目を見開き、ややあってから言った。「了解!」

 ドローン二基を引き連れ、表を経由して走り出す禎一郎。阻止しようと動くドバト男。それをさらに阻止すべく、道哉――ブギーマン・ザ・フェイスレスの蹴りが飛ぶ。

 激しい右ローキックの打ち合い。だがわずかにドバト男の体幹が傾く。

 プロテクターで覆った左脚からのハイキックを道哉は放つ。ドバト男はL字に組んだ腕でそれを防いだ。

 間合いを取って互いに構える。

 ドバト男が、フラミンゴの構えで叫んだ。

「くるっぽー!」


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