⑨
東京都世田谷区の住宅街の一角。高級住宅街、なら空き家などあるはずもないだろうと思い込んでいたが、紅子の調べによれば事故物件。近くを通る路面電車と環状線の騒音もあって、借り手がつかなかったところをDfAが確保した。
地下でバイクを止め、マスクを装着し、防火水槽に偽装した扉を開いてブギーマンとなった道哉は地上へ出る。一方では通り二本隔てた路地で車から転がり降りた灰村禎一郎が塀を伝って現場建物へ接近する。
快晴の上空へ複数のドローンが展開。多角的な眼を得た紅子からの指令が下った。
「セカンド、その場で一分待機。通行人らしき人影が接近している。やりすごせ。ファースト、西側の塀を越えて敷地内へ侵入しろ。三十秒後にツールを投下する」
「住宅街って、案外どんな時間でも人が通るんですよね。前に一回だけ仲間で走ったんスけど、危なくって……」
「セカンド、口を慎め」
了解、とだけ応じて禎一郎の言葉が途絶える。街灯と建物が作る影の中に身を埋めるように静止していた道哉の上空にドローンが飛来し、フックのようなものを落とした。
銀杏の葉を二枚重ねたような形をした、住居侵入用ツールである。
ワイヤーを引き出し、住宅のベランダへ向け投げる。格子手摺の間に入ったところでスナップをつけて引くと、二枚の葉が双子葉植物の芽のように開き、固定。そのまま引っ張ってよじ登ることが出来る。登攀具の構造を参考に紅子と葛西が自作したものだ。
「ファースト、二階に明かりが見える。静粛に突入して取り押さえろ」
「電気は消えてるようだが」
「空き家だぞ。電気が通じているわけがないだろう」呆れて肩を竦める姿が目に浮かぶような声だった。「表に一基回した。門の外側に南京錠。錆びついてるな……ノブを捻ってみられるほど器用なドローンでなくて悪いが、これは開いてないな。君の努力が無駄にならなそうでよかった」
ベランダへ潜り込み、開いていた双葉を閉じる。ワイヤーを巻き取ると、工具箱を懸架した別のドローンが飛来。ツールを預け、代わりに受け取った粘着テープを窓の鍵のあたりに貼り、先端の尖ったハンマーで叩く。道具を全て預け、飛び去るドローンを見送り、手を入れて鍵を開いた。
建物へ侵入――気配を殺して歩み入る。
「あれ。ちょっと待って。おかしい」と怜奈が言った。「その中で今レイプしているなら、どうして外から南京錠が? 今中に人がいるはずなんだよね」
途端、違和感に襲われた。
部屋の奥からは物音が聞こえる。女の悲鳴。男の笑い声。だが何か、おかしい。音に立体感がない。
「報告」と禎一郎の声が割り込む。こちらも違和感。いつも気楽な声が、明らかに緊迫している。「こちらセカンド。緊急事態」
「どうした。報告しろ」と紅子。
禎一郎は告げる。
「ドバト男を発見。通行人はドバト男。道哉さん、そっちにはいない。……仕掛けます!」
「待てセカンド。ファーストと合流してから……」
怜奈の鋭い声が飛んだ。「ファースト! 突入して内部の様子を報告!」
音の発信源めがけて一足飛びに突入。扉を開けばそこは家具のないリビング・ダイニング・キッチン。
誰もいなかった。
ノートPC。観光客向けの契約不要なプリペイド式モバイルルータ。チープなスピーカー。再生されているのは、つい先刻までネット経由で見ていたものと、全く同一のレイプ映像。録画だ。
そして、バトンのようなものを黒いビニールテープでぐるぐる巻きにし、ケーブルが飛び出したものを一抱えほども束ねた謎の物体。その傍らにはこれみよがしなカウントダウンの電光表示。
10、9、8――淫行爆弾魔教師という不名誉な渾名をつけられて久しい葛西翔平が常にない声を上げた。
「
後ろ上方の死角を完全に取ったつもりだった。街灯の明かりに自分が重なり、影が落ちてようやく、愚かしさに気づいた。
防弾・防塵繊維で編まれたフード付きマントに身を包んだ灰村禎一郎は渾身の蹴りを放つ。だが、直前に背後の気配に気づいたドバト男は、必殺だったはずのその一撃を呆気なく躱す。人間の遅すぎる動きを容易く見切る野生動物のような気配。戦慄する禎一郎の放った二発目の蹴りに、ドバト男のローキックが交差する。
飛び退る禎一郎。早くも奇襲の優位が消える。ドバト男が唸りながら構える。フラミンゴか何かのような、カウンターの一撃必殺を狙う体制。対する禎一郎は助走をつけ、ゴミ捨て場の蓋を蹴り上がって頭上を取る。
蹴り技の射程外だ。
ドバト男が身体を捌きながら構えを切り替える。高く掲げていた腕を取って体勢を崩そうという低一郎の狙いは外れる。着地ざまの肘打ちは浅い。
憂井道哉を苦戦させたというドバト男。奇襲なら仕留められるという考えは甘かったかと、嫌な汗が禎一郎の腕を伝った。
ドバト男の構えが様変わりしていた。
肘を上げ、目線のあたりで構えた拳。後ろに体重を乗せ、タイミングを図るように前の足が上下する。脇が空いているが、攻め入る隙には見えない。むしろ、安易な攻撃を誘う罠だ。
その時だった。
住宅街に爆発音が響いた。目標地点の方角だった。集中のあまり遠のいていたインカムからの通信音が聞こえた。
ドバト男の嘴が、爆発の方を向いていた。
今だ。考えるより先に身体が動く。低い姿勢で一気に踏み込んで鳩尾や顎を狙い、戦闘不能にしてやるつもりだった。動いてしまってから、光る道が見えないことに気づいた。失敗に終わった最初の奇襲と同じだった。
マスク越しに、ドバト男が笑ったように見えた。
ドバト男の、前足でステップを踏み込みながらの、後ろ足から繰り出される中段蹴り。四十五度に開いた身体を捻りながらの一撃は、二度目の爆発に等しかった。
風を切り、嵐を呼ぶ、電光石火の蹴り。
咄嗟のガード。禎一郎の左腕に、激痛が走った。
カウントダウン――肌が焼けるような危険の感覚。
元来た道を戻って逃げるべきだと理性が告げる。だがもうひとつの理性が、そうすべきではないと叫ぶ。身を沈める。安全地帯への最短ルートにして最大の戦果を勝ち得る唯一の道。
道哉は直進する。爆弾と配信機材一式を掠め、頭部を腕で守りながら真正面の出窓へ向かって突っ込んだ。
砕けるガラス。背後で爆発。轟音とともに、宙に浮いた身体が吹き飛ばされる。普段の生活では想像だにしない熱量を間近に感じ、電流のようなスリルが脳を灼いた。
どこかで一部始終を監視しているだろうドバト男へ心中で告げる。決して、お前の思い通りにはならない、と。
半分は自信だが、半分は意地だった。
同じ仮面の怪人なら、憂井道哉とブギーマンの方が半年は先輩なのだ。
塀を飛び越えて通りに背中から転がり込む。衝撃。禎一郎ほど上手くはいかないが、全身のハードプロテクタに救われる。
「ファースト、憂井! 無事か?」
「俺はいい。セカンドは」紅子の金切り声に即座に応じる。身体に違和感はない。「セカンド、応答しろ。無事か。ドバト男は」
「大丈夫です」と禎一郎の力ない声が返る。「逃げられました。すいません……」
「構わん、撤退だ」紅子は息をつく。「……ヒヤヒヤさせるな。左折して二ブロック先のマンホールだ。空振りは癪だが」
「でもないさ」
起き上がった道哉の片手には、古びたノートPCがあった。
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