⑩
街が、迫ってくる。
逃走するドバト男を追跡しようとしたとき、灰村禎一郎はそんな感覚に襲われた。腕の痛みのせいだけではなかった。何かがずれていて、道が見えない。ドバト男は自転車で逃走していた。追いつけないはずはなかった。それでも走り出そうとすると、足が竦んだ。
待て、と怒鳴る。ドバト男が「くるっぽー」と叫んで暗闇の中に溶けていく。
いつものような全力疾走で追いかけようとするが、道が見えない。塀や電信柱で入り組んだフィールドを最短で突き抜けていくためのルートがわからない。足を踏み外したり袋小路に入り込んだりする、悪いイメージばかりを見る。
「それで怪我したってわけ?」と藤下稜が言った。
ドバト男との会敵翌日。禎一郎は午前中から稜の部屋に入り浸っていた。
「でも大丈夫だよ。すげーマントで防いだから」
「何それ……」いつにも増してげんなりした顔の稜。
「防刃繊維なんだって。突っ張って勢いを殺せたから、直撃はしなかった」
「いや、怪我してるじゃん」
左腕の打ち身を戯れに突かれ、禎一郎は思わず声を上げた。しばらくは湿布が手放せない。
痛みを堪えつつ窓の外を指差す。
「そっから落ちたってことで、よろしく」
「よろしくって」
「怪我した理由を作れ、できればそれを証明してくれる第三者を用意しろって言われて」
「誰に。憂井? あいつそんなに頭回るの?」
「チームのひとりに」
「へえ。考えてるんだ」
「何が」
「捕まらないこと」
「そりゃあ、考えてますとも」
胸を張る禎一郎を、稜は鼻白んで笑う。「禎一郎は考えてないだろ」
「うるさいな」 ふてくされた禎一郎は携帯電話を抱えて毛布にくるまった。
住宅街での爆弾テロとあって、昨夜の一件は大きく報道されていた。閑静な住宅街に衝撃、外国人労働者の流入による治安の悪化。先日の三星会の事件と絡めた報道もあった。現場でブギーマンが目撃されたとも。
ターミナル駅や市街地で爆発物が見つかる事件は二〇二〇年台に入ってから増加の一途を辿っており、今年は既に一〇件を数えた。国際テロ組織の関与が認められたものは一件もない。日本特有の現象なのかと思いきや、むしろそれは世界中に見られる傾向だった。
古くは一九九〇年代。米連邦捜査局は犯罪者類型のひとつに『ローン・ウルフ型』と呼ばれるものを加えた。その名の通り、何らかの組織に属することなく、個別に過激な思想に心酔し、その思想に基づく確信犯として爆弾テロ等を実行する者のことである。
このローン・ウルフ型の犯罪者によって多く引き起こされるのが、ホームグロウン・テロリズムと呼ばれるテロ攻撃の類型である。組織に属さない個人が、独自の行動としてテロを起こす。その予測不明さは、入国管理局による水際作戦はおろか、そもそも対テロ国際捜査網の存在意義さえ揺るがした。
自国社会に上手くコミットできない移民等による敵意の発露としてのテロも、ホームグロウン・テロリズムに含まれる。結果として発生する事件は繁華街やイベント会場での爆弾テロ等、旧来のイスラム過激派等と同じであるものの、組織化されていないという決定的な差が、両者の間には横たわっている。
もっとも、二〇〇〇年代から二〇一〇年代は、ローン・ウルフ型犯罪者が共鳴する思想はイスラム過激派のそれであることが多かった。その代表が、過激派組織ISである。インターネットを介したプロパカンダに共鳴した人々による世界各地で続発したテロは、未だに国際社会にとって過去になり切ってはいなかった。
禎一郎は毛布から頭を出した。
「どうしたの禎一郎」
「脳がショートした」
「はあ?」
「いやー、昨日の爆発の話を読んでてさー……」
「偉いね禎一郎」
藤下稜が褒めたということは馬鹿にしたということである。「二〇二〇年台がよくわかんねの。読んで」
「知らねーよ……」
「えー、いいじゃんよー。解説の藤下さーん」
しばらく露骨に嫌そうな顔をしてから、渋々といった体で稜は携帯電話を受け取った。
記事に目を通し、言った。
「わからないってことだな」
「え」
「えじゃねーよ」稜は愛用のMacを開いた。「二〇二〇年台からは過激思想的な背景がないローン・ウルフ型が増えてきたんだって。誰かに影響されない自分だけの世界観で、周りを恨んで爆弾を作る。ひと昔前の通り魔とかバスジャック犯が使う刃物が、爆弾に置き換わったような」
「じゃそれって、人は変わってないってこと?」
「いや、変わってるだろ。刃物じゃなくて、いきなり爆弾を……」
「違うよ稜」毛布にくるまったまま匍匐前進して、禎一郎は続けた。「刃物と同じくらい簡単に爆弾が手に入るようになったんだ。たとえば……そう、ただの喧嘩と同じくらい簡単に、悪党を懲らしめることができるように」
稜は眼を瞬いてから応じる。「ま、夜な夜な悪党を懲らしめる覆面ヒーローが出てくるような時代だもんね。……そういえば何日か前にも逮捕されたな、ブギーマン。ニュースで見た」
「珍しくもないっしょ」禎一郎は仰向けに転がる。「思想まで一匹狼ってことかあ。あのドバト野郎も、そういうのなのか?」
「知らねーよ、私に訊くな馬鹿野郎」
「語呂よく言われても」
「クラスの友達にウケがいいんだけど」
「それ、誰?」
「アホどもと、そこに混じったとびきりのアホ」
「……誰?」
「たぶん、禎一郎も知ってる人」
「まじで」
それ以上詮索されたくなかったのか、稜はヘッドホンを着けてしまう。やがて大音声のデスメタルが漏れ聞こえてくる。
しばらく携帯電話の画面を睨んでから、禎一郎は「さすがに暖房点けねーの?」と言った。稜は空調が苦手で、夏も冬もエアコンを使わない。だが代わりの暖房器具が何一つない部屋はあまりにも寒い。涼しい顔をしている稜が信じられなかった。
それからしばらく、ぼんやりと稜の横顔を見つめてから、禎一郎は言った。
「俺さ、負けたんだよ」稜が首を傾げた。聞こえているのかいないのかわからなかったが、禎一郎はそのまま、普段より抑えた声で言った。「負けても走ってりゃ勝てたし、這い上がれたんだけど。なんかさー……」
稜の眠たげな目が禎一郎を見た。禎一郎は続けた。
「俺、劣等感持っちゃった。あの人に」
「は? 何か言った?」稜はヘッドホンを外した。
「何でもないです……」
「うるさい」
「俺なんかより猟奇趣味的激烈音楽集団の方がいいよな、やっぱり男はマスクだよ、いいもんいいもん……」
また毛布にくるまる禎一郎。すると頭上から声が聞こえた。「禎一郎さ」
「はい?」
ヘッドホンを首にかけた稜が覗き込んでいた。顔が近かった。何を考えているのかわからない稜には、時々不意打ちでどぎまぎさせられる。そういう瞬間だけ、稜が女の子であることを思い出す。そしてすぐに、音漏れする猟奇的なデスラップに何もかもが押し流されていく。
二〇センチの上から目線で、稜は言った。
「怪我させられたから、悔しいの? それとも、追いつけなかったから悔しいの?」
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