*


 朝は榑林邸で目覚め、一真、一花と共に食卓を囲む。バスと徒歩で登校し、授業を受け、松井広海や藤下稜らと歓談する。時折そこに島田雅也が加わる。さらに時折、片瀬怜奈と、チームの自警活動とは関係ないひと時を過ごすこともある。そして間近に迫った期末試験の対策に勤しむ。

 凡庸だがなぜか忙しい毎日。だがそんな中でも、耳元で囁かれるように、顔のない男としての顔へと引き戻される。

「じゃあ、後ろに立たれても見えるわけ」

 藤下稜がそんなことを口にしたのは、ある日の移動教室へ向かう休み時間だった。

「稜さん、それ、今言わないで」

「あ、そうか。秘密なんだっけ」稜は事もなげに応じる。「禎一郎に訊かれたんだ。あの人はどうして顔面全部覆って戦えるんだって」

「俺にもわからないんだよ」

「そうなのか?」

「うん。靄というか、気配というか、そういう言葉にしづらいものなんだよ。でも形とか色とか、人なら表情みたいなのも、何となくわかる」

「真似したいからやり方を訊いといてくれって、禎一郎が」

「教えたくても、教えられるものじゃない。それに……」

「それに?」

 言葉でちゃんと説明できてしまうと、力そのものが失われてしまう。

 どうしてか、道哉はそんな予感を抱いていた。

 いつの間にか身につけていた能力だから、いつ失われてもおかしくない。そして、自分は一真のような達人ではない。自分がこのまま成長し続けていくという確信などどこにもない。技を極めた結果の能力ではなく、今この瞬間にだけ、超常の力を神や仏から借り受けているに過ぎないような気がしていたのだ。

 だが、それら全て稜に伝えられるようなことではなかった。

 第一、と道哉は続けた。「自分で訊け」

「そこだけ伝えとく」

 それで満足したのか、稜はそれ以上その話を蒸し返すことはなかった。

 とはいえ、加入以来灰村禎一郎には数日おきに稽古をつけていた。

 彼を『ザ・タンブラー』と名付けたのは紅子だが、その名に違わず基礎体力と軽業の技術には眼を見張るものがある。だが、あくまで彼は複雑な都市空間における移動術を心得ているにすぎない。基本さえ覚えれば、ザ・ファーストとしての地位が脅かされるに違いないが、それはまだ先のことだと道哉は慢心していた。

 道哉が意を決したのは、その日の放課後のことだ。ちょうど金曜日であり、週明けからは期末試験が始まるというタイミング。

 ホームルームが終わり、隣のクラスから生徒が捌け始めたのを確認してから自席に戻り、道哉は怜奈の番号に電話をかけた。

 彼女はすぐに電話口に出た。「もしもし、道哉? どこにいるの?」

「教室」

 そう応じると、即座に電話が切れた。三〇秒ほどで、教室の扉が開いた。片瀬怜奈だった。コートと鞄を片手にした彼女はつかつかと歩み寄ってきて言った。「何」

「いや、何って何だよ」

「電話してきたのあんたでしょ」

「面と向かうと言いにくいこともあるんだよ」

「は、意味わかんない」

 ちょうど下校する他の生徒が通りがかり、道哉は怜奈の腕を引いた。怜奈とは顔見知りだったらしく、互いに会釈を交わしていた。

 怜奈は、授業中にかけていたらしき眼鏡を取った。険のある目線が刺さった。

「で、何」

 道哉は席を立った。「やめとく」

「どうして」

「不愉快そうな顔してるから」

「そんなことないけど。……そうだ」怜奈は微かに首を傾げた。「今からお宅にお邪魔してもいい?」

「え、なぜ」

「ほら、本。例のネズミみたいな名前のやつ」

 ああ、と応じて、貸す約束をしていたことを思い出した。

 いつ見ても底が見えない微笑だった。ただ本当に、書庫に積まれている実のないハードボイルド小説が目的なのか、それとも何か、もっと他に問い質したいことや伝えたいことがあるのか。先日は、『何のために戦うのか』と訊かれた。

 思わずじっと顔を見つめていると、怜奈はややたじろいだように首を竦めた。

「都合悪かった? だったらごめん」

「何も悪くないよ」道哉は怜奈の肩を叩いた。「行こうか」

 バイクならあっという間の帰路を、バスと徒歩で遠回りする。

 機先を制されたような心地だった。バスで隣に座っていても歩いていても、怜奈の心中が読めなかった。

 最寄りのバス停から歩き始めた頃、怜奈は口を開いた。

「道哉、あんたちゃんと勉強してる?」

「それなりに」

「それなりって」

「以前と変わらない成績になるかな、ってくらい」

「そんな器用じゃないくせに」

「力いっぱい頑張ってるってことだよ。俺のことより、自分はどうなんだ」

「あたしは」やや考えてから怜奈は応じた。「それなりに」

「以前と変わらないようにってこと?」

「まあね」

「器用だな」

「そんなことないよ」長い髪を片手でかき上げ、怜奈は応じた。

 ただの期末試験の話にも関わらず、何だか深刻な決意を固めたかのような儚げな微笑みに、道哉は思わず目を奪われた。そのせいで何も言えなくなった。本当のところは特に何も考えていないようにも思える、正体不明な女の子。

 何かをわかってほしいと、彼女は言葉を使わずに言っている気がした。その傲慢が許される美しさに苛立った。目を奪われてしまった自分にも腹が立った。

 怜奈を伴い、久しぶりに憂井の家に戻る。倉持老人は在宅であり、道哉の帰宅を喜んでいた。

 書庫に入ると、怜奈はわざとらしくはしゃいだ様子で書棚に手を伸ばす。道哉は鞄を置くと、しばらく怜奈の横顔を見つめてから言った。

「何かあるのか?」

「え?」

「ずっと何か言いたそうだから」

「あたしが?」

「うん。何か変だし。この間だって……今日だって、本はどうでもいいんだろ」

 怜奈は目線を合わせずに応じる。「そんなことないよ。……お、見つけた見つけた。借りてくね」

「怜奈」

「カーテン閉めてよ。眩しい」

「カーテンなんかどうでもいいだろ」

「よくない」

「もう、何なんだよ」道哉は文机の奥に手を伸ばし、小窓のカーテンを乱暴に閉めた。「言いたいことがあるならはっきり言ってくれよ。この間から、ずっと、そんな思わせぶりの搦手ばっかりでさ」

「そんな大袈裟な話じゃないんだけどな」

「じゃあこっち見ろよ」

 思わず強くなってしまった語気に怯えたように、怜奈は顔を上げた。表情には失望が混じっているように見えた。それで言わなければよかったと思った。彼女には、憎まれるよりも失望されたくなかった。

 そもそも、今日先に電話をしたのは道哉の方だった。言いたいことがあるのも道哉の方だった。でもそれは、相手がどんな気持ちでいるのか確かめずに口にするのはとても難しい言葉だった。こんな思いをするつもりはなかった。こんな気持ちになるつもりはなかった。たぶん、生まれてから二度目の、取り繕うことのできない失敗をしたと思った。一度目は、有沢に黒装束を着せて逃げ出した時。

 嫌になるほど自分は浮世離れしている、と思った。普通のひとは何てことなく口にしているはずなのに。

 ただ、十二月二十四日夜の予定を訊くだけだ。

 いつの間にか、携帯電話のバイブレーションが鳴っていた。いつから鳴っていたのかもわからなかった。十秒ほど経って、止まった。

「ごめん」と道哉は言った。目線は合わせられなかった。「何か俺、空回りしてる」

「してないよ。確かに、この間も今も、これは口実だし」怜奈は、古びたノベルス版の小説を鞄に収めた。「あたしだって、こういうの初めてだからすっごい緊張したし、言い方とかずっと考えてたのに。なんでいつもこうなるのかなあ」

 心底呆れたような、ため息混じりの言葉。思わず、頭に血が上った。普通の言葉を普通に言えないことを嘲笑されたような気がした。そういう浮世離れを認めて同盟などと笑ってくれた彼女が嘲りの笑みを浮かべたことが、裏切りのように思えて許せなかった。

「何なんだよ。他人事みたいに。俺のせいか? 何もかもを察してあげられない俺が悪いってか?」

 怜奈は表情を消え入らせた。表情というものを引き出しの奥にしまい込んだような顔だった。

「何、じゃあ、あたしのせい? そうだよね、いっつもあたしの勘違いだもんね」

「いつもっていつだよ、自分の理屈で勝手に納得されたってわからないよ」

「……帰る」

 おう、そうか、と曖昧に応じる。怜奈は、足を踏み入れたことが間違いだったかのように踵を返す。

 引き戸に手をかけて、怜奈は肩越しに振り返った。

「二十四日の予定、訊こうと思ったの」

 呆然とする道哉をよそに、怜奈は振り返らずに書庫を後にする。

 そのまま、五分ほどもその場に立ち尽くしていただろうか。

 またバイブレーションが鳴っていることに気づき、道哉は放り出した鞄の中から携帯電話を取り上げる。

 羽原紅子だった。

「もしもし?」

 紅子の早口が道哉の耳朶を打った。「先に謝っておく。不可抗力だったが、今の君らのやり取りは全部聞かせてもらった。つまらないことで喧嘩をするな。君らにはどうせ君らしかいないんだ」

「不可抗力って、お前」

「電話しても出ないからだ。緊急だったから、君の居場所を探るついでにその書庫に設置した盗聴器を使わせてもらった。一応言い訳はしておくが、普段は受信していない。君との約束もあったからな。道場の離れの方は既に取り外してあるぞ。書庫の方も遠からず撤去予定だった。意外とあのじいさまが鋭くてな。まあ例の盲目の従兄には見て見ぬふりをされていたような嫌いもあるが……目が見えないのに見て見ぬふりとはこれは一体どういうことか」

「もういいよ、勝手にしろ……」

「言われなくとも勝手にするさ。おっと、本題だが、できれば直接話したい。今から地下へ来られるか。入口はすぐそこだろう」

「行くよ。気を紛らわせたいから」

「すまんな」電話口の紅子は重い溜息をついた。「とても気晴らしにはなりそうにない」

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