憂井邸地下空洞。紅子が見せたPCの画面に映ったものに、道哉は思わず怪訝な顔になる。

「何だこれ。日記? ブログってやつか」

「繋がりや短期的なコミュニケーションを求める、あるいはオフラインへ回帰する方向へウェブが進化してもなお、ある程度の長文による発信の需要は残る。これも私の父の会社のサービスだ。ぜひ君もよろしく頼む」

「御託はいいから……これ、何なんだ。告発か?」

「そういう言い方が適切だろうな」

 紅子はページに貼り付けられていた動画の再生ボタンをクリックする。すると映像が流れ出す。

 道哉は目を見開いた。覚えがあった。仕事着らしき服装の女性が男に殴られ、薄暗い室内で押し倒されている。揺れるカメラ。女性は身体の自由を奪われ、男の下卑た笑い声が響く。そしてただの暴行映像が強姦映像となり、道哉は目を背けた。

 映像の中の男は、ドバトのマスクを被っていた。

「今ひとつ明るくないのだが、どうやら今各所で話題のポルノ映像だそうだ。このブログの主は、自分こそが撮影された被害者であると主張している。見ろ。警察で調書を取られた際に屈辱を味わったことなどまで事細かに書かれている」

「屈辱?」

「レイプ魔に何をされたのかを警察官に事細かに説明し、その説明が正確かどうかを繰り返し繰り返し確認され続けることが屈辱でなくて何だ。その上これらの映像は拡散され続けているんだ」

 都内在住の二十六歳の元会社員、園崎由貴は、今から半年ほど前の深夜、北区の路上でハトのマスクを被った男に襲撃された。路上から車へ連れ込まれ、猿ぐつわを噛まされ手足を拘束された。更に目隠しまでされ、自分がどこにいるのかもわからない不安の中、建物の中へ連れ込まれてレイプされた。

 その様子は備えつけてあったデジタルビデオカメラで全て撮影され、身近な人間や警察を含めた自分以外の誰かに相談したらこの映像をばらまくと脅迫された。

 園崎由貴は、その一件を三ヶ月隠し通した。だがある時、セックスが上手くいかない理由をパートナーに問われた彼女は、堰を切ったように泣いてしまう。話を聞いたパートナーは警察へ告発。直後から、まるで彼女の身辺を常に監視していたかのように、レイプ時の映像がネット上に出回り始めた。ネットに疎い彼女が映像の存在に気づいたのはごく最近、一ヶ月ほど前なのだという。

 今、彼女は流出してしまった自身の映像を削除するよう呼びかけている。それが紅子の発見したブログ記事である。アクセス数は数日で五万を超え、その訴えはネットを中心とした各種メディアや著名人によって拡散されていた。

 ネットには共感や支援の声と同じくらいの怒りや反発が渦巻いていた。フェミニズムに基づく男の欲望への怒り。女が暴力をいかに恐怖するかと、その恐怖を乗り越えて声を上げた彼女への賞賛。一方では些細な矛盾から訴えの信憑性を問う声や、世の中にはもっと不幸なレイプに遭った女性もいるのだからと、訴えた彼女を愚かと論う人々もいた。

 だが、羽原紅子は別のところに着目していた。

「この訴えにあたって、園崎由貴は犯行の一部始終を再度自分の足で調査しているんだ。どこで拉致され、どこへ連れ去られ、どのくらいの時間が経って解放されたか。ルートも割り出している。問題は、レイプと撮影が行われた場所だ」紅子は別のモニタに地図を表示した。「ここだ。現在は……というか、一年近く空き家になっている。管理していたのは難民保護団体『Dream for All』」

「DfA? あの入江明の?」

「そうだ。……緊急で呼びつけた理由がわかったか?」

 道哉は首肯して応じる。

 終わっていなかった、ということだ。

 新興コリアン・マフィア『三星会』の企みは、三号倉庫と通称された有限会社高千穂興産の倉庫における、武装集団とブギーマンの戦いを契機として司直の手が入り、結果として瓦解した。だが、自称・北朝鮮工作員、入江明が残した犯罪の構造はまだ生きている。

 それは右翼も左翼も関係なしに利用し、警察や極左集団の卵さえも取り込むほどの大規模なものではない。あくまで要素だ。だが要素にまで分解されたからこそ、あらゆる犯罪の手段となる。

 羽原紅子の言葉を借りるなら、『悪の方法』だ。

「DfAの難民支援住宅。入江にとっては子供を収穫するための畑だ。一年前から空き家だったということは、さしずめ休耕地だな。この情報が流出……いや、オープンソース化され、『ドバト男』に利用されたのだと私は見ている」

「ドバト男?」

「名前は必要だ。何者にもね」吐き捨てるように紅子は言った。「。誰が名づけたか、いつの間にやらネットでの通称は確定してしまったよ」

「通称って。こんなもの、楽しむやつが……」

 動画の再生回数に目が止まった。十万に届こうという数字だった。島田雅也も知っていた。「山ほどいるさ」と紅子が言った。言われるまでもなかった。

 反応を伺うように腕を組む紅子。「問題は、ドバト男は見つけたのか、与えられたのかということだ」

「入江は、確かに死んだんだよな」

「私も少し疑わしく思えてきたよ。だが、頭を狙撃で撃ち抜かれる瞬間はテレビでお茶の間に流れたんだ。あれで死んでいないとしたら、漫画だな」

「じゃあ、お前の言う『クリエイター』とやらがイコール入江という線はないか」

「そうだな。与えられたと考えるには、与えた何者かの存在を仮定しなければならない。唯一の手がかりになるはずだった、野上善一と接触していた少年は死んだ。入江も死んだ」

「偶然ではない?」

「だろうな。裏にあるものを何者かが隠匿しようとしている。だが、そうはいかん」紅子は回転椅子から勢いをつけて立ち上がった。「誰かから何かを奪う側の人間に、効率化の手段など与えてなるものか。ドバト男を捕らえ、背後関係を洗い出す。異存はないな?」

「異存はないが、問題がある」

「問題? 片瀬嬢なら私がとりなしてやる」

「そうじゃなくて」道哉は深々と息をついた。「週明けから期末試験だ」


 電脳探偵を使うぞ、と紅子は言った。

「名前は怪しいが実力は本物だ。私が保証する」

 そう断言する紅子に、灰村禎一郎はぎこちない笑みで言った。「聞いたことあるっすよ。確か、警察のスーパーハッキングコンピュータをハッキングしたスーパーハッカーで、大体なんでもわかるすげーハッカーとか……」

「おお、ハッキングか。それはすごい」と古文の単語帳を片手にした道哉は応じた。

 週末。学校の友達と勉強会、買い物、放浪の旅、等々それぞれの理由をつけて、チーム全員が憂井邸地下空洞へ集合した。目的は当然、ドバト男対策である。だが、紅子と葛西以外は全員が片手に教科書やノートを携えている。期末試験を目前に控えていたのだ。

 地下空洞には、羽原紅子ここにありと宣言するかのように、いくつものドローンが自律飛行している。その様を、丸椅子の上でしゃがんだ禎一郎は、右に左に予断なく見定めている。まるで虫と、虫を獲ろうと躍起になっている鳥のようだった。

「デジタルディバイドここに極まれりだ」紅子は三角形のデスクトップ型マイクスピーカに触れた。「私が喋っている時には声を控えろよ。向こうに聞こえると都合が悪い」

 黙る一同。紅子は満足気にボタンを押した。ややあって、デスクトップにくたびれた見知らぬ女の顔が映し出された。何となく、紅子があと十歳ほど歳を取ったらこうなるのではないかと思い、同時になぜか、これは絶対に口に出してはいけないことだと直感した。

「よぉ、聞こえるか電脳探偵」

 しばらくマイクテストのような発声を繰り返してから、関西弁もどきのような変わったイントネーションで『電脳探偵』は応じた。「あのー、そっちの映像が見えんのだけども……」

「構わん。こっちはよく見えているぞ」

「あのー、なんというか、フェアじゃないっていうか……」

「はあ? まさか私と貴様がフェアだとでも思ったのか?」

「ひっ……」首を竦める電脳探偵。

 紅子が見つけてきたこの怪しげな女の素性は誰も知らない。以前、紅子が「協力者だ」と言って連れてきたのは他でもない片瀬怜奈であり、最初に話を聞いた時は、また知人なのではないかと疑ってしまった。だが、幸か不幸か全く覚えがない。

 怜奈だけは何か知っている風だったが、今は素知らぬ顔で数学の問題集に向かっている。よく見れば、難関大学向けの定番と言われる受験参考書だった。

 紅子は珍しく穏やかな笑みを浮かべる。「仕事は順調みたいじゃないか」

「ん。意外といいもんね、人助けって」

「だろう。……昨夜の資料は見たか?」

「拝見したさー。例の告白にあった場所周辺の、当時の監視カメラ映像を集めればいいんじゃろ?」

「さも楽勝という口ぶりじゃないか」

「集まったし」

「……やるな」

「でー、そちらから提供してもらった画像処理を走らせたらー、ハトマスクの男が、被害女性を拉致する瞬間の映像が手に入った。たぶん、警察はまだ入手してない」

「なぜ」

「そっち系の宗教団体の建物でさ、警察の捜査に非協力的なことで有名なんさね」

「どうやって入手した、そんなもの」

「ちょっと、伝手があるんさね」

「まあ、貴様の事情は詮索しないが」紅子は、共有したらしきデータを別のモニタに表示させた。「いい仕事だ。報酬はやりがいとお前自身の成長でどうだ、電脳探偵?」

「BG嬢、ブラック企業みたいね……」

 コサックダンスのようなポーズで下腿を鍛えている禎一郎が、片足で跳びはねるように近づいてきて言った。「道哉さん、BGって何か知ってます?」

「さあ? 前も似たような名前の架空の企業を作っていたような……」

「羽原さんのこだわりなんスかね」

 おい、静かにしろと一声告げてから、紅子はまた発話ボタンを押す。

「男の顔はわかるか。やはりハトマスクか?」

「基本はハトなんだけどねえ。被害女性が抵抗した拍子にマスクが外れてる。その瞬間をキャプチャしたやつを送りまっさ」

「特徴点の解析はこちらでやる。認識関係は私の側でいいな?」

「んー、それとね、できればサーチする範囲の指定をそちらでして欲しい。都内全域は無理よ、無理」

「承知した。だが今のところはプロファイル素材が園崎由貴の証言しかない。犯人の生活圏と重なっていればいいが……」

「あの、BG嬢」電脳探偵が、急に声音を変えた。「『被害女性』と呼んでもらっちゃ、駄目かいな」

「構わんが……」紅子は数秒発話ボタンを切り、背後で固唾を呑んで見守る道哉と禎一郎を一瞥した。「貴様の事情か?」

「ん、ちょっとね」

「女の敵はお前の敵か? 女性ホルモン足りてなさそうな面で、よく言うな」

「そっちも似たようなもんでしょーに、現役女子高生のくせに」

「ま、それはそれだ」

「流しますか」

「私には得意なことがみっつある。都合が悪ければ無視すること。他人のせいにすること。自分を棚に上げること」

「最低の人間ってことかいな」

 長テーブルで参考書を広げていた怜奈が忍び笑いを上げた。紅子は不満気な目線を怜奈に向け、それからまた画面に向き直った。

「貴様と同じ程度にはな。……画像を受領した。標準的なアルゴリズムで問題ないとは思うが……」

「検索範囲はいつ頃もらえる?」

「本日中には。あの派手なマスクだ。絶対に目撃情報がある。エリアはある程度絞り込めるはずだ。むしろ、警察に先んじることが出来るか……」

「あのー、BG嬢。前から訊きたかったんだけどね」

「何だ」

「あなた、例のブギーマンの関係者?」

 禎一郎が息を呑み、怜奈がペンを置いた。思わず眉をひそめる道哉。だが紅子は、表情も変えずに「ノーコメントだ」と即答だった。

 それから次回打ち合わせ予定だけ決めて、紅子はビデオ通話を終了させた。

 椅子をくるりと回して紅子は言った。「さて、葛西には別で例のポルノ映像の解析と新装備の開発に従事してもらっている。憂井、灰村、君らは訓練に勤しめ。怜奈くん、すまないがこの後少しいいか?」

「構わないけど」怪訝な顔で首を傾げる怜奈。

「さて諸君」紅子はぽんと手を叩いた。「それより何よりもっとも重要なことがある。試験勉強だ。こちらの活動にかまけて本来の自分を見失うな。それは我々をつけ狙っているかもしれないあらゆる組織、権力につけ入る隙を与え、結果的に我々の力を弱めることになるのだからな」

「うええ、マジすか」禎一郎が首を竦める。

「それと、憂井。君はちゃんと家に帰れ。君の従妹が現時点では最大の露見リスクなんだからな」

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