③
憂井道哉がオートバイに乗るには、いくつかの障害がある。
まず、予算。これは伯父に相談することで不本意ながらも解決した。ふたつ返事で全額立て替えてくれたのだ。ローンを組んでアルバイトで返済しようにも、夜の活動があまりにも多忙で時間が取れないのだ。
次に、用品。前のエストレヤと一緒に譲り受けた一式はせいぜい秋までしか対応できず、今は冬。曲がりなりにもスポーツバイクなのだからプロテクションも疎かにできず、そうなるとジャケット一着にも値が張る。
紅子には命と金とどちらが大事だと脅され、致し方なくマウンテンパーカのようなものをひとつ購入した。見た目は格好いいレザーだが、内部に空気の層を作れないため、寒い。そのくせ夏は暑い。バイクといえばレザージャケットというイメージはライダーたちのやせ我慢で出来ているのだ。
そして第三にして最大の障害が、家族だった。
「あの、新しいバイクを買おうと思って」
ある夜、道哉がそう切り出した相手は、榑林一花。三日前から毎日榑林邸へ帰り、夜に出かけることもせず、可能な限り家族団らんの時間を取った。昼休みには書道部の部室を訪ねた。羽原紅子からの、何かのシステムの運用テストに付き合えという誘いも断った。同じように、片瀬怜奈の何を考えているのかわからない不可解な誘いも断った。
頼るつもりが見え透いていた松井広海からの勉強会の誘いも断った。島田雅也に頼み込み、一花の機嫌がいいかも探ってもらった。禎一郎とのことについて教えろと好きあらば詰め寄る藤下稜への回答機会は引き伸ばし、警察以外の力を必要とする犯罪が折悪く起こらないことを祈った。
そんな夜だった。
返ってきたのは、「はあ?」という低音の声だった。
夕食を終えた食卓だった。道哉が顔を引きつらせていると、一花は朗らかに笑った。
「あ、すみません。聞き間違いでしたか。道哉さん、自転車に乗られるんですね?」
「えーっと、うん。自転車。原動機のついてる……」
「いいですよね、自転車。運動にもなるし、エコですし。むき出しですけど、オートバイと違って周りが止まってくれますもんね」
「だから邪魔なんだよ……」
「え? 最近は自転車専用道とかも整備が進んでいますよね。歩行者と、自転車。環境に負荷をかけない交通手段が優先されないなんておかしかったんですよ」
「うん、自転車は素晴らしいね。でも俺はバイクを……」
「え? すみません、わたし聞き間違いましたか?」
「あの……」
「まさかあんな怪我しておいてまたオートバイに乗るなんて仰りませんよね」怖い笑顔だった。「ね?」と念押しされ、道哉はまた顔を引きつらせた。
「いや、その……駄目かな?」
「駄目です」
「そこを何とか」
「駄目です」
「一台だけだから」
「絶対駄目です」
「タイヤ二本しかないよ」
「我が家の敷居は跨がせません」
「そんな」
割って入った一真が言った。「じゃあ、これからは向こうの家に帰らなきゃね」
「えっ……?」一花は顔色を変える。
肩を竦める一真に、道哉も調子を合わせた。「そうだなあ。敷居を跨げないんじゃあっちで生活するしかない。離れの荷物をまとめないと」
「えっ、そんなの駄目です。道哉さんここでの暮らしよりオートバイのほうが大事なんですか? あの、あの……」
肩を落とした一花に罪悪感が芽生え、半ば火事場泥棒のようにその後の話をまとめた。
オートバイ通学はOK、離れに置くのもいい。ただし雨天と風の強い日は乗らないこと。そして、なるべく榑林の家へ帰ること。一花は年下だというのに、口うるさい母親を相手にしているようで妙な気分だった。
明くる日には振り込みの完了と納車予定日の連絡が小森モータースからあった。カレンダーを見てみると、ちょうど期末試験が終わった頃だった。ほぼ時を同じくして、一花から画像が一枚送られてきた。力強い楷書で『飲んだら乗るな』と書かれていた。
一連の顛末を島田雅也に話すと、彼は感心したような顔だった。
「へえ、そんなこと言うんだ」
「なぜバイクは理解を得られないのか、3ない運動が悪いんだ」
「趣味に理解がない家族を持つとね。うちの母親なんて僕がアニメ見てるだけで馬鹿にしてくるし。でも榑林さんがそういうこと言うのは、意外だよ」
「そうかあ?」
「憂井のことが心配なんだろうな」
「はた迷惑な」
昼休みの廊下は絶え間なく生徒が行き交っていた。そこかしこから、目前に迫った期末試験とその後の話が聞こえてくる。冬休み。クリスマス。年末年始。数学、英語、歴史の語呂合わせ。
「憂井さあ、クリスマスの予定とかあるの?」と島田が言った。ちょうど、女子のグループがクリスマスのことを大声で話しながら、ふたりの目の前を通り過ぎたところだった。
「ない」つい最近似たような質問をされたような気がして道哉は首を傾げた。「お前は?」
「作ろうとしてる」
「そうかい、頑張れよ。ひとり悲しい聖夜にならないように」
「そっちだってないんだろお」
そもそも予定を立てることにためらいがあった。再優先は自警活動だ。何が起こるかわからない以上、何月何日にどこかへ出かけるなどという計画を立てること自体、頭になかった。そういう普通さから一歩浮いているのが自分たちだと思っていた。
だが、このところの東京は平穏無事だ。犯罪は日々起こっても、黒ずくめにマスクとフードの謎の男を必要とするような事件はなかった。
道哉は顔を上げた。「そうか。クリスマスなんだな」
「何今更」
「いや、あんま実感なくて。クリスマスなんだなあ、って思った」
「浮世離れしてんな……」
「島田、去年何してた?」
「一日四回オナニーしてた」
「いやいや……」
「いや引くな」
「何だ冗談か」
「本当だけど」
「いやいやいや……」
「引かないで引かないで」
「どうしてそんなにアグレッシブなんだ」
「我々は常に反動勢力なんだよ」なぜか得意気な笑みで言って、島田は携帯電話を取り出す。「そう、昨夜ちょとすごいやつ見つけてさ。教えてやる。特別な」
「何、すごいやつって」
島田は左右を見回す。「いやあ、あまりそういうのに造詣が深そうにない憂井くんに、いいことを教えてしんぜようと」
「そういうのって」
「有害ポルノコンテンツ」
島田は携帯電話の画面を示した。覗き見防止フィルタがかかっていたが、それでも周りの目が気になるようだった。
動画だった。あまり上手くない、手持ちカメラの映像らしく、よく揺れる。フィルタと外乱光のせいで、よく見えない。
そして目を凝らし、映っているものの正体に気づいた道哉は思わず顔をひきつらせた。
「お前なあ……」
「すごいだろ。完全無修正。しかもこれ、どこかで販売、配信されているわけじゃない。完全ホームメイドだ。どうやってるのかは知らないけど、このハトのマスクを被った男が、いかにも一般人の、でも結構可愛いこの女優を思いっきりやっちまうの。嫌がってる叫びとか抵抗がめっちゃリアルでさあ」
「いやいや、それ本当に犯罪だったらどうすんだ。いや犯罪だろこれ。何罪か知らないけど」
「え~、いや、そこはほら、ね。こういうのって一〇〇パーセント仕込みだから。ネットで検証されたところ、ガチ動画ってされてるけど。ま、そういうの含めて最高だと思うんだけど」
「検証って……こんなもん大喜びで検証してる連中が山ほどいるのかよ」
「蛇の道は蛇ってね。蛇は群れないけど、どこにでもいる」
「というかこんなんどうやって観るんだ? ハッキングとか?」
「いや、ちょっとマイナーなアダルト系の動画サイトだけど。広告とかは出るけど、アクセスするだけなら別に危険性はないよ。ひとつの放送がBANされても、星の数ほどある他のアダルト動画配信サイトに移るんだよな」
「いやいやいや……」
「ま、ケータイ歴二年目の憂井くんも、少しずついけない使い方を覚えていこうな」
「バレたら、何言われるか……」道哉は乾いた笑みになる。
「え、家族にケータイ見られんの?」
「そういうわけじゃないけど」
気にしたのは、羽原紅子のことだ。どんな手段を使っているのかはともかく、携帯電話も何もかも、彼女には筒抜けだと道哉は考えていた。下手にネットでポルノ映像など見ていては、次に地下で顔を合わせたときに何を言われるか知れたものではない。
ひとの弱みを遊びで握るような女だ。隙を作るべきではない。
「一花ちゃんに言っとくよ。二十四日、島田に誘われても絶対に断れって」
「え、ひどい」拗ねた顔で目を逸らす島田。「いいよなー。何だかんだで当てがあるやつは」
「当て」
それで、片瀬怜奈に、雑談か何かのように予定を訊かれたことを思い出した。彼女は自身の予定について何か言っていただろうか。腕を組んで考えこんでみても思い出せない。
誘うだけ誘ってみよう、と意を決する。
「そういうのも、悪くないかな」
*
東京都江戸川区西葛西。東西線で都心へのアクセスもよく、住宅地としても栄える一方IT産業の集積地としての側面も持つこの街は、比較的外国人の多い地域である。IT企業に勤めるインド人は、緩やかながらもインド人コミュニティを形成する。一方、中国残留日本人の自立施設があり、悪名高い怒羅権の発祥の地であった。一連のブギーマン事件とともに名を知られるようになった三星会も、主要構成員の一部は怒羅権にルーツを持つとも言われる。
それが理由、というわけではないが、産業用システム開発エンジニアとしてIT企業に勤務する三十二歳の男、森本耕太はブラジリアン柔術のジムに通っていた。
始めたのは二年前。身体を鍛えようと思い立ったきっかけは、仕事のストレスである。
だが、最初はストレスのはけ口としか考えていなかったそれが、次第に楽しくなっていた。身体に筋肉がつく快楽。練習の分だけ上達していく実感。それら全て、同じ毎日の繰り返しに慣れこそすれど、成長することはないと感じていた仕事とは全く別の満足感を与えてくれていた。
二〇時過ぎに退勤してからジムへ向かい、一時間強のトレーニングをこなしてから帰路に着く。
その道すがらだった。
二十三時。人気のない住宅街。
森本の眼前に、奇妙なマスクを被った男が現れたのだ。
まるで宴会芸のグッズのような、ゴム製の、荒い作りの被り物だ。よく見れば、それはハトの形をしていた。公園でよく見かける、灰色のドバト。上半身は、素肌にボロボロのデニムベスト。下半身は黒タイツのみ。股間が高々と屹立している。
そのドバト男が、構えた。
両腕を高く左右へ掲げ、手首を鳥の首のように折る。足はフラミンゴのような片足立ち。こんな構えを、何かの映画で見たような覚えがあり、警戒するより先に可笑しさがこみ上げてきた森本は、思わず吹き出した。写真を撮っておこうと思い、携帯電話を構える。
すると、ドバトが、啼いた。
「くるっぽー」
早業だった。
弾き飛ばされた携帯電話が弧を描いてアスファルトに落ちた。ドバト男は、片足でリズムを取るように軽くジャンプしている。蹴りを繰り出されたのだ。
この野郎。
そう呟いて、森本は鞄を置いた。
何の目的があるのか知らないが、喧嘩を売られたのだ。こんな気味の悪い変質者、倒してしまっても問題はないと、森本は考えた。そもそも、売られた喧嘩だ。
森本には、自信もあった。週に三回ジムに通い、稽古を受け続けた。強くなることや誰かに勝つことでなく健康が目的だったが、学べば学ぶほど、力を試してみたいという欲求は森本の中で大きくなっていたのだ。
肩を回し、緊張を抜いて、森本は構えた。
『ドバト男』が再び啼いた。
「くるっぽー」
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