⑪
光り輝く、道が見えた。
灰村禎一郎は、ブロック塀の影から身を躍らせ、、道に迷って徐行運転していた軽自動車のボンネットに飛び乗った。ハンドルが乱れた。運転手はブラック・ネイルズの幹部。知った顔だった。後部座席から野上が何かがなりたてているのが見えた。禎一郎はサイドミラーとアンテナを掴んだ。直後、車が急ブレーキをかけた。
弾かれそうになる身体をぎりぎりまで支え、車がビルの壁に追突する寸前に自分から離した。衝撃音が辺りに響いた。軽自動車は右のフロントランプが砕け、バンパーが凹んだ。まだ自走可能に見えたが、野上と幹部の少年は慌てふためいて飛び出そうとする。幹部の方が扉を開きかけたところで外から勢いよく閉じると、指が挟まれた。悲鳴。それに背中を押されたように野上が車外へと飛び出す。
野上には、訊きたいこと、問い質したいことがたくさんあった。なぜサカグチを殴ったのか。なぜメンバーに盗みを強要するのか。なぜ意味もなく周囲を威圧して悦に入るのか。なぜブギーマンの衣装を真似たのか。徒党を組んで、夜の街を荒らして、それで一体何が得られるのか。自分たちの身勝手な行いでどれだけの人や物が傷つくか、想像したことはないのか。
だが、真っ当な答えが得られるとは思えなかった。それらの問いに答えられるほど思慮深ければ、こんなことをしないか、あるいは、もっと上手くやる。揃いの衣装で行進するような、所属や承認の欲求を掻き立てるだけの子供じみた行いは、社会に寄生する真の悪からは程遠いもののように見えた。
だから禎一郎は、野上を後ろから蹴り飛ばした。
これ以上言葉を交わす価値を感じなかった。
この街の虹色を、自分だけの色に染めようとする連中など。
地面にうつ伏せに倒れた野上だが、素早く起き上がってチェーンを構えようとした。遠心力をつけたハイキックで顎を打った。すると野上はその場に倒れた。身動きはしていたが、立ち上がらなかった。
パトカーのサイレンが聞こえた。それより早く、一台のライトバンが現れ、禎一郎の前で停まった。数基のドローンがどこからともなく飛来し、後部座席の窓から車内へと吸い込まれていった。
そして助手席から現れた意外な人物に、禎一郎は仰天した。
「怜奈さん……?」
片瀬怜奈。渋谷の街で、サカグチのグラフィティをきっかけに出会い、以来何度か午後のひとときを共にした少女だった。年上の、ミステリアスで優しい、とびきり美人な女の子。押せば逃げ、引けば近づいてくるような彼女と話していると、時間があっという間に過ぎていたことをよく覚えている。同じ学校にいるどんな女子とも違う、怜悧で知的な眼鏡越しの目線に、禎一郎は心奪われていた。
そんな彼女が、眼鏡もかけずに、こんなところにいる。
怜奈は有無を言わせない調子だった。「ここは私たちに任せて、あなたは早く逃げて」
「逃げてって、でも、俺は」
「いいから、早く!」そう怒鳴ると、彼女は大股で歩み寄り、禎一郎の耳元で囁くように言った。「また連絡する。絶対よ」
何も言い返せなかった。禎一郎は、サイレンの聞こえない方へと走り出した。入り組んだ路地も、渋谷ならば全部頭に入っていた。たとえ一〇〇人の警察官に追われても逃げ切れる自信があった。
再び降りだした雨に、禎一郎はふと、走る脚を止めた。
また連絡する。絶対よ。怜奈の言葉が頭の中で反響していた。走り通しだったせいか、胸が高鳴っていた。
「何だ、あれ。ずるいよ」
眼鏡のない彼女からは、甘い秘密の匂いがした。
*
目を覚ますと、そこは暗闇だった。
身体が動かない。自分の足元さえも見えない。混乱に陥りながらも、しばらく身じろぎして、椅子のようなものに身体を固定されていることがわかった。
猿ぐつわのようなものを噛まされていて、言葉を発することもできない。ただ呻き声のようなものが漏れるばかりだった。だが音の反響で、拘束されている空間がかなり広いことがわかった。
暗闇に少しずつ目が慣れてくる。少なくとも床があって、天井があることがわかる。そして、誰の気配も感じない。
冷静になれ、と自分に言い聞かせた。
レッド・ラビットの連中を潰す前に、組織の中の虫を始末するつもりだった。灰村禎一郎が何かの目的を持ってブラック・ネイルズに潜入していることはわかっていたし、あえて泳がせていた。その方が企みが露見した後の服従心が強まるからだ。
だが、予想だにしなかった妨害が入った。黒服の中に、灰村禎一郎とは別の、害意を持った男が紛れ込んでいたのだ。
他と一線を画した洗練されたコスチューム。圧倒的な格闘術。そして何より、立つだけでその場の空気が変わる威圧感。もしかしたら、と考えてしまう。あれは本物のブギーマンだったのではないか、と。
ブギーマンは逮捕された。もういない。だからあの服装を借りた。悪を成敗する黒衣の男というわかりやすさは使いやすかった。
それからのことを順々に思い出す。車で現場から逃亡。あろうことかそこへ飛び乗ってきた灰村禎一郎。あれに蹴られて倒れた。ここではまだ意識があった。その後。
その後、何かがあった。何か恐ろしいものに襲われ、意識を失った。
気がついたらここにいた。
怖気が立った。こんな得体の知れない場所に人間を監禁するような誰か。そもそもここは建物の中なのだろうか。こんな光のない大きな建物があるのか。ブラック・ネイルズなどとは比べ物にならない巨大な組織、あるいは人間の存在を感じた。勝てない、と確信した。自分が蛙なら、この場所の暗闇が蛇の眼差しだった。
「野上善一」
名を呼ばれ、叫び声を上げた。耳元だった。あからさまなボイスチェンジャーを介した声。気配など少しも感じなかった。だが声がした瞬間から、どす黒い暗赤色の気配があった。今まで感じられなかったことが信じられなかった。殺意。敵意。害意。この世のありとあらゆる負の感情を凝縮したような暗黒の存在が、背後に立っていた。
問うまでもなかった。
「ブギーマン!?」
「答えろ。お前は、どこで悪の方法を手に入れた」
「あ、悪の……」
暗黒の気配が押し寄せ、心臓が締めつけられた。括りつけられていた椅子を蹴られ、為すすべなくその場に倒れた。床はコンクリートだった。砂の味がした。
「貴様はゴミだ。何の技術も能力もなく、他人を支配し他人から搾取することだけに長けているクズだ。だが貴様は、そんなクズらしからぬ賢しいことをしてみせた」
「何のことだよ! 何でっ! 何で!」
「フィッシング詐欺だ。ただの十九歳で、高校時代から麻薬の密売に手を染め、今は少年グループでお山の大将。端的に言って、ただの馬鹿。そんな貴様がなぜ、高度な情報セキュリティ犯罪を行えた? それがわからない。だから、貴様の身体に訊くことにした」
金属音がした。チェーンだ、とわかった。他でもない自分自身がよく使う武器。
椅子ごと身体にチェーンを巻かれた。息が苦しくなるほどきつい。肉が金属の隙間に挟まり、思わず悲鳴を上げた。
靴音が遠ざかった。金属音も。男はチェーンを引きずっていた。この広い空間をそのまま男の力で引き回されるのかと覚悟し、野上は身を震わせた。
だが、次に聞こえた音は、その予想を上回った。
エンジンの始動音。威圧するようなアイドリング。最初はごく一瞬、回数を重ねるごとに長くなる暴力的な排気音は、巨大な鋼鉄の獣が獲物を前に舌なめずりしているようだった。
ただチェーンを引きずるのとは違う鋭い金属音が聞こえた。それで男の目的がわかった。
固定したのだ。
「やめろ! やめてくれ! わかった、謝る! 俺が悪かった、何でもする、するから、金だってある! 話す、話すよ! あのフィッシングタグは……」
「謝っても、何をしても、金を積んでも、秘密を話しても、お前をいたぶることをやめない」ボイスチェンジャー越しの男の声は、心なしか弾んでいるように聞こえた。「話に聞いた。サカグチというグラフィティアーティストは、鎖で縛られ車に引きずられたそうだな。一体誰だ、そんな
*
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