六本木通り沿いのバー兼イベントスペースのような店が、レッド・ラビットの拠点だった。その夜、店にいたのは男が一〇人ほどと、女が数人。表にはさらに一〇人ほどの手勢が控えていた。ブラック・ネイルズによる報復の情報を掴んだ彼らは、返り討ちにすべく黒服の集団を手ぐすね引いて待ち受けていたのである。

 金属パイプやブラスナックル、ナイフ、スタンガン。めいめいに武装した少年たちは、皆上腕に赤いバンダナを巻いていた。レッド・ラビットのサインだ。そして彼らは全員、戦意に満ちていた。

 レッド・ラビットは入団に際して試練を課す。先輩らに混じって女をレイプするのだ。同じ女を犯すことで連帯感と、罪悪感を共有する。幹部格の男たちは必ずそのテストの様子を撮影する。それは女たちからの告発を防ぐためだと説明されるが、その実構成員たちへ組織への忠誠を誓わせるための材料としても用いられる。

 つまりレッド・ラビットの瓦解とは自分の恥が流出することである。そこに被害者である女たちの意志が介在することはなく、少年たちは自己中心的な被害者意識ばかりを抱く。

 その少年たちを、顔のない男の衣装を身にまとったひとりの男が襲撃した。

 憂井道哉である。

 表の手勢はまず、ひとりずつ暗がりに引きずり込む。そして人気のないところに誘導し、一気に片付ける。腕や脚の関節、鳩尾、そして金的などの急所を容赦なく打たれて戦闘不能になった赤バンダナの少年たちは、さながら狩られた獲物のように店の裏口に並べられた。

 地下にある店への入口に立って番をしていたひとりの身体が吹っ飛んでドアを破り、店外の阿鼻叫喚を知らない店内が騒然とした。薄暗く赤い照明。数人は酒と違法薬物でハイになっていた。敵がたったひとりであること、表の手勢が全員倒されたこと、そして現れた男がとてつもなく強いことを彼らが理解した時には、全員意識を失っていた。

 復活のサインとして、その場に黒い包帯を一切れ残しておく。

 ようやく、自分が認められる自分になれたかのような深い充足。だが、今夜の仕事はまだ半分しか終わっていない。

 騒ぎが広まる前に一旦地下へ潜り、監視カメラ経由でブラック・ネイルズらの動きを監視していた羽原紅子からの報告をインカムに受ける。

「好都合だ。南口の方のガードを通りそうだぞ」

「なら地上へ出て紛れる」

「気をつけろよ」

「大丈夫よ」と片瀬怜奈の声が挟まる。「彼らは互いの顔を知らない。どこに同じ組織のメンバーがいるかわからないという相互監視妄想を煽るやり方は上手いけど、悪意を持った人間が紛れ込みやすいという弱点がある」

「ふふふ。全くたまらんな。よくできたシステムを悪意で台無しにするのは」

「それに、誰も本当のブギーマンを知らない。でしょう?」

 暗闇の地下通路を進んで梯子を登り、マンホールを開けると空調の室外機が並んだビルの狭間へ出る。そこから人の意識の流れを感じられないことを確認してからフェンスを越え、裏通りへ出ると、道哉はフードの中の、黒い包帯で装飾したマスクを取った。

 腕も、力も衰えていない。

 最初のひとりを倒すまでは不安だった。目を覆ったら何も見えないのではないか、かつてのように戦う力などありはしないのではないか、と。だが世界は目を開いたときよりも明瞭に理解でき、どこをどう殴れば相手が倒れるか手に取るようにわかった。

 街中で、一般人に紛れて状況を観察・報告する怜奈が加わり、監視カメラやドローンだけでは追い切れない穴をフォローできるようになった。葛西は車で人と物資の運搬を担当する。

「連中、WIREで仲間に招集をかけている」通信に舌打ち、ややあってざまあみろ、という紅子の声が重なった。「……全員の位置情報を拾った。最寄りのやつから潰すぞ。だが人目があるな。横の路地へ誘い込め」

「どうやって」

 怜奈が言った。「任せて。あたしが一番近い」

 道哉は慌てて言った。「おい、いくらただの非行少年とはいえ……葛西先生、バックアップを」

 通信にノイズ。数秒の間があってから葛西の声が聞こえた。「すまない、ハンズフリーキットを落として……。えっと、片瀬さんがどうしたって?」

「憂井、その男に運転手と爆弾魔と淫行以上の仕事を期待するな。……っと、進行方向が変わったぞ。二名だ。二〇秒ほどで君と接触する。次の曲がり角だ。怜奈くん、君はどんなマジックを使った?」

 淫行はやめて、と葛西の嘆息。顔をすべて覆うマスクを被り直した道哉は、親指を拳の中に握り込んで大股で進む。怜奈が言った。

「ケータイのカメラを向けただけだよ。焦りながらも人目を気にしてるみたいだったから」

「やはり君にはセンスがある」と紅子。

 俯き気味に歩く。携帯電話に目を落としながら道を急いでいた黒ずくめのフードふたりが、正面に立つ男に気づく。同じブラック・ネイルズかと勘違いしたらしく相好を崩した彼らの前で、道哉は握っていた右手を開く。

 黒塗りされていない爪。そしてマスクで覆い隠された顔。彼らにとってふたつの予想外が重なったところに、三つ目の予想外である暴力を打ち込む。所要時間は五秒に満たなかった。

 雨が上がっていた。

 道哉はマスクを取った。そのまま、紅子が指示する灰村の進路予測に重なるルートを走った。他のブラック・ネイルズ構成員が続々と現れる。

 辿り着いたのは、高層ビルの谷間にひっそりと佇む神社だった。

 窮地に追い詰められた灰村禎一郎。

 おい、どうするんだと紅子が言った。道哉は、インカムの受話・発話を一旦切った。

 もしも彼が、単に殴られた友人の仇を取るだけのつもりなら、彼を守るつもりはなかった。後遺症が残らない程度に怪我をしたところで介入し、この場の全員を倒して喧嘩両成敗。灰村禎一郎もブラック・ネイルズも司直の手に引き渡して逃走するつもりだった。

 だが、彼は言った。

「俺の敵はお前じゃねえ」

 助ける価値はある、と思った。

 確かに、この世にヴィジランティズムほど愚かしいことはない。犯罪者と戦うために犯罪的行為に手を染めるような矛盾は、賢い選択とは言い難い。誰もが、納得しがたい矛盾や、受け入れがたい理不尽と折り合いをつけて、大きな社会の一員になっている。その、折り合うという努力を放棄することは、決して正しいことではない。

 だが、この世には、努力をして賢い選択をし続けた普通の人を食い物にする悪がある。ヴィジランティズムで立ち向かわなければ打ち倒せない敵がいる。「やつら」は悪として大きな社会の一員になることで、決定的な糾弾を避けている。たとえば教室の中で理由のない悪意をコントロールする者。たとえば歪んだ需要と供給のシステムを作り上げて非合法な薬物を売り捌く者。そしてたとえば、社会から阻害される者たちに善意の仮面で近づき、対立する思想・勢力を巧妙に利用して何もかもを出し抜くことで、人間の尊厳を踏みにじるビジネスの構造を誰にも追求されることなく作り上げる者。

 矛盾や理不尽と折り合いをつけた大人では、「やつら」とは戦えない。

 戦うには、矛盾を超克した先でしか得られない力が要る。得意げな薄ら笑いに拳を打ち込む、顔のない男の力が。

 もちろん、本当に顔がないわけではない。あたかも顔がないかのように、演出するのだ。

「ずるい大人、だな」

 道哉は、一同の注目が灰村禎一郎に向いているのを確認し、マスクを装着した。

 インカムを立ち上げ、言った。

「雨が上がった。灰村を助ける」

 即座に紅子の訝しげな声が返る。「……おい憂井、君、何を言ってる。助けるのはいいが、後先は考えろ。雨が上がった? 君はまさか、雨が上がったから灰村を助けるのではあるまいな?」

 敵は二〇人。ブラック・ネイルズの夜行は多くの通行人に目撃された。そしてここは警察署の真裏。時間をかける理由はない。

 まず左右にいた二名。それから灰村禎一郎に近づいていくと、彼を抑えていた二名が襲いかかってきたためこれを倒す。遅い。弱い。鈍い。頭の中で、これまでに戦ってきた相手の動きが思い出された。佐竹純次。アポロ君島。三星会の武装集団。入江明。あれらと渡り合ったのだという自信が、道哉に歩みを進めさせた。

 呆然とする擦り傷だらけの少年。まるでニューヨークの街角のようなスウェットパンツにスニーカー。だが一方ではボクシングジムのようなノースリーブの黒パーカー。そのちぐはぐさが気にかかる。だが反体制的という意味ではどちらも同じだ。

 ただの仇討ちや安い正義感ではない、矛盾や理不尽と折り合わないことで生まれる黒い影の力を、この少年も持っていると道哉は確信した。個人の思いを超越することで手に入る匿名の力を彼も持っているのだとわかった。

 その時、藤下稜のことを不意に思い出した。

 禎一郎を助けてやってくれ、と言って涙を見せた彼女の幻に心の中で詫びた。

 道哉は手を差し伸べる。

「まだ走れるか?」

「はいっ!」と力強い返事で手を掴まれた。

 その瞬間、稜への負い目が全て消えた。この少年を鍛えようと思った。もしも、同じ思いを持ち、同じ力を持ち得る者と、肩を並べて戦うことが出来るなら、これほど嬉しいことはない。

 起き上がらせ、背中合わせに周囲を睨む。各々の武器を手に取り囲む黒いフードの仮装集団が、空気を読み合うようにじりじりと間合いを詰めてくる。偽物たちのパレードの中に、紛れ込んだ本物がひとり。

 いや、もうひとりではない。

「ザ・セカンド・フェイスレス」と道哉は言った。「行くぞ」

 はい、という返事とほぼ時を同じくして一斉に数名の少年たちが襲いかかってくる。鉄パイプを振り上げた少年の手首を掴んで一本背負い。次いでナイフの懐に飛び込んで顔面に肘打ち。背後に回り込んで腕を捻り上げる。すると、禎一郎がその少年の肩を踏み台にして躍り上がった。

 空中で一回転しながら別の少年の顎に蹴りを見舞う禎一郎。そのまま本殿まで突っ切って柱を足場に宙返り。追いすがっていた手下の背後を取って蹴りを入れる。変幻自在。その場にあるありとあらゆるものを利用する立体的な動き。鍛えるのは容易いかもしれない、と道哉は思った。すでに乱戦になればすこぶる強い。

「やるじゃないか、あの灰村とかいうの」と紅子が驚嘆する。

 一方、道哉も次々に迫る少年たちを一人ひとり戦闘不能にしていく。足払いからの鳩尾に一撃。次のひとりへはがら空きの脇に手刀を打ち込んでから膝関節に正面から打撃を加えて倒す。

 残りはおよそ半数。鉄のチェーンを引いた少年が道哉へ迫った。間合いがあればという思惑が透けて見えた。遅い。

 少年が右腕を振り上げた時には、懐に顔のない男の顔があった。

 掌底打ちで体勢を乱し、脚を腕関節に絡ませて倒す。固め技で肩を外した。

 正面からスタンガンを持った別の少年が迫る。立ち上がって迎え撃とうとしたとき、背後に矢のような気配を感じ、道哉は片膝立ちで身を伏せた。

 その肩に手をかけ、ちょうどガードレールを躱すときのように、灰村禎一郎が躍動する。

 勢いを殺さない体当たりでもつれ合って倒れる。揉み合いの中、禎一郎にスタンガンの電極を突きつけようとした少年の腕を道哉は掴んだ。

 そのまま握力を込める。少年が呻き、スタンガンが地面に落ちた。

 蜘蛛の子を散らしたように他の手下が逃げ出す。

「いかん、野上が逃げる!」インカムから紅子の声。

 表に停まった黒い軽自動車の後部座席に野上が乗り込んでいた。そのまま発進。

「えーっと、僕で追跡しようか?」葛西の頼りない言葉。「しかしカーチェイスとなると自信がない。車両を送り込める出入り口がそのあたりにあればなあ」

「こちらで高速機を飛ばす。憂井、一時撤退だ。灰村少年を……憂井?」

「彼なら追いつく」言い、道哉は足元で土埃を払っていた禎一郎に告げた。「行けるな?」

「はい!」

 閃光のように出走。生け垣を越えて姿が見えなくなる。

「GPS発信機をつけた。そっちからでも追えるはずだ」

「おいおい、いくらパルクールの巧手だからって、それはいくらなんでも……」紅子の言葉が、途中で驚愕に染まった。「嘘だろ。この少年……車よりも速い!・・・・・・・

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