誰かを殴ったのは、中学生のときに稜に嫌がらせをした先輩を殴ったとき以来だった。

 手が震えていた。呻いてうずくまるブラック・ネイルズの少年が死んでいないことに安心して、安心するくらいなら殴らなければよかったと思う。

 灰村禎一郎は、拳が震える右の手首を左手で掴んだ。

 雨が降っていた。

 まずひとり、背後からの奇襲でアスファルトに沈めた。すると即座に怒号が飛ぶ。やり過ごしたつもりだったが、ブラック・ネイルズの集団の目線はまだ遠ざかっていなかった。

 立体駐車場へもう一度上る体力はなかった。三方から黒ずくめの少年たちが迫ってくる。

 禎一郎はフードとマスクを取り、人目の少ない路地から表通りへ出た。

 時刻は既に夜の一〇時を回っている。さすがに商業施設は営業を終了しているものの明かりはあり、飲食店などはまだ眠るには早すぎる。人通りも多く、この衆目の中では襲うのもためらうだろうと計算しての行動だった。

 黒尽くめの、非行少年集団の一員とひと目でわかる服装で傘も差さずに歩く禎一郎。通行人が一斉に目を逸らす。さらに五メートルほど後方から各々に似たような服装の少年たち。

 傘の花咲く中、雨粒を浴びながら歩く。あくまで平静を装い、歩く。走ったら負けだ。走り出してしまったら、向こうも走る。そうなれば囲まれて終わる。

 息を整えながら街の地形を思い出す。スクランブル交差点を中心に放射状に広がる坂。超えられるフェンスや壁。乗り越えられる建物。道行く群衆がひとつの生き物のように大きくうごめく瞬間に自分を溶けこませ、禎一郎は深呼吸する。

 すると、見えた。

 人混みの隙間を抜ける一本道。足場、越えられる壁、クライミングの手がかりの全てが、黄金に輝いて見える。

 フードを被り、マスクを着け直し、身を沈める。

 その瞬間、周囲のあらゆる人々の視界から、灰村禎一郎の姿が消えた。

 スーツ姿で肩を組むサラリーマン風の数人。この後に向かう場所を巡って無言の攻防を繰り広げる男女。肩を落としてギターを背負う青年。足早に家路を急ぐ若い女。彼ら彼女らの意識に留まらないほど早く、禎一郎は疾走する。頭の中で、自分自身が叫んでいる――走れ、走れ、走れ!

 最高の走りが出来ているときは、走るべき道がひとりでに光り輝いて見える。

 日常のいかなる瞬間にも、走ること、乗り越えること、這い上がることを考えている禎一郎にとって、その黄金の道は、錯覚と言い切れないほどのリアリティを持っていた。だが、なかなか見えない。心と身体のコンディションが高まり、極限の集中が得られたとき、そして何よりも、見えれば最高の走りができるという確信があるときでないと見えない。

 卵が先か、鶏が先か。先に立つのは黄金の道なのか最高の走りなのか。そんな問いが意味を失くした瞬間に、輝きが待っている。

 横断歩道を駆け抜け、植え込みの石垣を蹴って地下鉄の入り口の上によじ登る。そのまま反対側の縁まで駆け抜けて飛び降りる。膝を曲げ、肩から地面に転がって衝撃を受け流し、再び走る。

 商業施設の軒下。雨が遮られたところで、禎一郎は通りの反対側を見た。忙しなく行き交う車両や客待ちのタクシーの向こう、駅へ急ぐ人垣の中に、黒服の少年らが見える。数が増えていた。

 最初から罠だったのだ。

 レッド・ラビットの襲撃に先立って奥渋谷のコンビニの駐車場に集まった禎一郎らに、ガミさんはこう宣言した。

「この中に一人、裏切り者がいるんだよなあ」

 総勢一〇人ほど。だが一〇人が組織の全貌とは到底思えず、そして幹部格の少年が全員その場に顔を揃えていたことから、些か違和感を抱いた矢先のことだった。

 ざわつくかと思えた一同はいやに落ち着いていた。そしてガミさんの言葉に動揺しているのが自分だけであること、にやついた顔にいつの間にか取り囲まれていること、そしてガミさんが懐から取り出したものに気づき、禎一郎は即座にその場から逃走したのだ。

 ミントタブレットだった。ブラック・ネイルズへの入団テストの時に、万引きを強いられたもの。あの時は幸運にも躱すことができた。だが、ガミさんには知られていた。走りながら悪態をついた。店員の右の親指に黒いマニキュアが塗られていたのだ。

 歩道橋に外側の手すりを飛び越えて進入。桜丘町の方へ逃れようとしたが、まさにその方向から黒い服を着た数名が階段を登ってくる。もしかしたら単に黒っぽい服を着ているだけかもしれないが、この雨では右の親指を見定めることなどできなかった。

 歩道橋の階段を飛ぶように駆け下り、途中で手すりから外へ飛び出す。放置自転車のサドルを蹴って着地。そのまま山手線のガード下を走り抜ける。延々と工事が終わらない区画を抜け、また歩道橋を駆け上がる。

 警察署が見えた。小馬鹿にするように、正面から黒いフードつきパーカーの数人が迫った。分岐は既に通りすぎていた。引き返せば追いつかれる。

 腹を決めた。

 相手は四人。歩道橋上で一直線に並んで迫ってくる。正直、喧嘩に自信はない。だが、この場所ならば戦えるという確信があった。

 息を吐く。踏み切る。歩道橋の手すりの右側へ飛び乗り、鋭角を描いてさらに跳躍する。前方宙返りしながら、最後方のひとりに狙いを定めた。

 驚愕に染まった顔に膝をめり込ませる。

 鼻血を吹きながら昏倒する姿を尻目に着地し肩から前転。その場で右足を支点にコンパスのように一回転し、背後の三人を正面に見た。

 てめえ、調子に乗るな、そんな罵倒の言葉を連ねる少年たち。倒されたひとりを介抱するひとり。近づいてくるふたり。禎一郎は、片手を地面について息を吸い、吐いた。

 このふたりを倒すための道が見えた。

 まず前へ。そして三歩目で、左へ跳ぶ。四歩目で、鉄柵を蹴る。弾丸となった禎一郎は、ブラック・ネイルズの少年に体当たり。もつれながらも反対側の手すりに叩きつけ、止めに顔面をがむしゃらに殴る。

 背後に気配。確かめる必要はない。既に道は見えているから。

 両手を手すりにかけ、飛び乗る。そして手すりを足場に、後方宙返り。血液が引っ張られる心地よさに酔う。ちょうど身体が反転したところで手を伸ばす。ブラック・ネイルズの少年のフードを掴む。

 着地しながらフードを引き、勢いのままに引き倒す。最後に容赦する余裕すらあった。

 無力化した四人。なお歩道橋の上に立つ禎一郎。そして事の顛末を見ていた通行人。

 さらに複数人が追いかけてくるのを見定めた禎一郎は、再び走り出す。

 歩道橋を、スロープから垣根を超えて車道側へと降りる。渋谷の中心街とは明らかに異質な開けた通り。通り過ぎる車や人の目を避けて横道へ入る。数台のバイクの排気音が聞こえた。進行方向を塞ぐように停車する軽自動車。

 息が上がっていた。いつの間にか追い詰められていた。敵が何人いるのかわからない。黒い爪の少年少女。黒い服の集団。夜の影から絶え間なく湧き出てくるかのようだった。

 敵の姿が見えない脇道へと走り続け、辿り着いたのは、ビル街の谷間に迷い込んでしまったかのような、小さな神社だった。まるで、ビル風の吹き溜まりに生じた幻。

 雨水を吸った服が重い。剥き出しの二の腕を冷たい雨が流れる。

 逃げ込んだ禎一郎。通りに繋がる道を黒服の少年たちが塞ぐ。木立と朽ちかけた木造の拝殿から落ちる影が、夜の闇をなお一層暗く染めていた。

 鳥居の向こうに軽自動車が停まった。扉が開き、後部座席から『ガミさん』こと野上善一が姿を現した。

 禎一郎を取り囲むように徐々に距離を詰める手下たちを抑え、野上は煙草に火を点けると、大物ぶった緩慢な所作で禎一郎の目の前まで歩み寄った。

 手下のふたりが禎一郎の腕を左右から捻り上げる。

 たまらず膝をついた禎一郎を睥睨し、野上は言った。

「お前、例のサカグチの友達なんだって?」

 黙って睨み返すと、蹴りが飛んだ。腹に野上の爪先がめり込み、禎一郎は呻いた。

 野上の膨れた腹が目の前にあった。野上はまたミントタブレットを取り出し、足元――禎一郎の前に落とした。

「何もかもお見通しなんだよ。なあハイムラくんよ」野上は禎一郎の胸倉を掴んで起き上がらせ、汚い笑みを向け、何かの声真似のように言った。「復讐なんか何も生まないよぉ! もうやめてハイムラくぅん!」

 手下たちがどっと笑った。都市の中の静寂だったはずの神社が騒がしさに包まれた。ここを居所にしているらしい茶トラの野良猫が、その声に怯えて生け垣の中へと逃げ込んだ。

 禎一郎は、野上の顔にツバを吐きかけた。

 野上が指先で頬に触れる。直後、また野上の蹴りを腹に受け、禎一郎は呻き声を上げる。蹲ろうにも、後ろのふたりからフードごと襟首を捕まれ、引き起こされる。

「わかってないなあ。礼儀がなってない。目上の人間への礼儀が」と野上は言った。「俺は今、お前を教育してやってるんだよ。俺の足が、お前の先生なんだよ。わかるな?」

 禎一郎はやはり黙って睨み返す。三度腹に蹴りが跳ぶ。

「教えてもらったらありがとうと言うんだ。いいかハイムラ。敬え。俺の足を敬え! 敬え! 敬え! 返事は! 返事をしろ! ありがとうと言え!」

 蹴る、蹴る、蹴る――跪いた身体が浮いた。

 雨はいつの間にか上がっていた。境内の砂利に転がり、禎一郎の二の腕は擦り傷だらけになった。黒い衣装は泥に汚れた。経験したことのない屈辱と苦痛。一度蹴られるたび、怒りが無へと呑まれていった。

 地面に倒れた禎一郎。野上が、膝を広げてしゃがみ、汚いものを覗きこむようにして言った。

「どーしたー、ハイムラくぅん。俺に復讐するんじゃなかったのかー? どう? このままお友達の隣に入院しちゃう?」野上は手下の方を振り返る。「入院がいいと思う人!」

 少年たちが気勢を上げた。全会一致だった。一同の叫びが木々に染みていく。

「入院! 入院! 入院! 入院! 入院! 入院!」

 禎一郎は、腹を抑えて咳き込みながら立ち上がる。

 友の仇。それもある。

 街を穢されたこと。それもある。

 友の作品を愛する人のため。それもある。

 フィッシング詐欺行為への怒り。それもある。

 ブギーマンという偶像を利用し貶めていること。それもある。

 だが何よりも、このような下らない人間たちに、これまでも今も、そしてこれからも、誰かが傷つけられ続けることが、許せなかった。利己的で、他人の痛みに鈍感で、それを悪いとも思わないどころか、弱い人間に上から目線でだからお前は駄目なんだと言ってみせる。そのくせ一方的な共感や連帯による高揚を持て囃し、彼らのノリについてこられない人間を蔑視する。彼らのような人間は彼らだけで多数の社会を作り、組織の主流となり、あらゆる場所に漂う空気を生み、彼らのようでない人間が一方的に苦しむように世界を造り替える。

 それが許せない。

「お前に復讐? 眼中にねえな。お前じゃねーんだよ」と禎一郎は言った。「お前らが坂口を襲ったのは、お前のやってるフィッシング詐欺の利益を損なうグラフィティを、坂口が作ったからだ。でも、お前はどうやって気づいた? どうやって、自分らに不利益だと判断した? お前らだけじゃ無理だろ。だってお前ら、頭足りてなさそうだからな」

 禎一郎自身も、半分も理解していない。前に片瀬怜奈と会ったときに言っていたことを、そのまま言葉にしているだけだ。ふと、あの片瀬怜奈という少女は何者なのだろうと思った。まるで事情の全てに、曲がりなりにも当事者である禎一郎よりも通じているかのような物言いだった。

 そして、彼女の考えは、的中したらしい。

 野上の表情が歪んだ。「おい……あんま調子乗ってんじゃねえぞハイムラぁ!」

 野上が大振りなパンチを繰り出すのを、軽く上体を逸らして躱した。止まって見えた。

「俺の敵は、お前じゃねえ」

 そのまま本殿を背にするような位置へ逃れようとすると、数人の手下が禎一郎の周囲を取り囲んだ。ひとりは倒したが、多勢に無勢だった。

 羽交い締めにされて、再び境内の中心に引き出される。

 誰かが持たされていたのか、いつの間にか野上の手には半ば錆びついた金属のチェーンがあった。表の路地で、軽自動車が迎え入れるようにトランクを開いた。サカグチから聞いた暴行の内容を禎一郎は思い出した。

 彼いわく、まず、チェーンで滅多打ち。その後、車の後ろに繋がれて路上を引きずられる。さすがに人目につくだろうから、恐らくはここから別の場所へ拉致されるのだ。

 野上は、にやついた顔でチェーンの感触を確かめている。

「残念だわー。お前がちゃんと目上の人間を敬って、俺の言うことを聞いてくれれば、こんなことしなくても済んだのにな。俺博愛主義者だからさ、こういうの辛いんだわ」すると、雰囲気を察知したのか、手下らがわざとらしくざわついた。野上が宣言した。「入院決定!」

 禎一郎は舌打ちし、深呼吸した。

 一旦無に呑まれた、友を傷つけられたときの怒りが、よりどす黒く粘り気を帯びた怒りとなって禎一郎の中に満ちた。フードを被り直したかった。新たな怒りの醜さは、覆い隠さなければならないと思った。そして理解した。

 だからブギーマンは顔を覆うのだ。

「まあ何人か倒してくれたみたいだけど? お前がブギーマンなんか気取ってもなあ。代わりに俺が、悪い悪い裏切り者をぶっ潰してやろうと思います!」周囲に向けて再び宣言してから、野上はチェーンを振り上げた。「俺、カッコよくね?」

「不細工は何してたって不細工だよ、馬鹿」

 野上の額に青筋が浮かんだ。これまでだと悟った。だが同時に、どんなに殴られてもいつか絶対に殴り返してやるという強い決意が禎一郎の足をその場に踏み止まらせた。逃げ出したいとは全く思わなかった。ここで沈んでもいつかまた這い上がる。置き去りにされてもいつかまた追いつく。今勝てなくても絶対に負けないのだと、禎一郎は歯を食いしばり、正面を睨んだ。

 その時、光が見えた。

 初めは、駆け抜けるときに見える黄金の道かと思った。

 だが、違った。

 それは火の玉だった。どこからともなく、とてつもない速度で飛来した発火体が、振り上げた野上の右手に突き刺さっていたのだ。

 野上が叫び声を上げた。右手に金属片のようなものが刺さり、その中心から花火か何かのように、真っ赤な火花が上がっていた。

 飛来した方向に全員の視線が注がれた。

 神社の一角。灰村禎一郎を取り囲む仮装集団のひとり。

 異様な雰囲気を纏った、男がいた。

 周りの全員があり合わせの黒い服なのに対し、その男だけは威圧的なハードプロテクタのようなもので胸部や関節を覆っていた。質感を整えられているためか、着ている服と防具が一体のもののように見える。ハーネスも身につけており、金具の赤が毒々しかった。腰にはベルト。多数の収納部分が見受けられ、今の金属片もそこから投擲されたようだった。他にも、用途の分からない筒のようなものがいくつもあった。そして、他の手下らと同じく、フードを被っていた。

 だが、顔がなかった。

 フードの下の影。何かが蠢いている。街頭の明かりを神社の木々が遮っていた。

 普通に直立していた男が、野生の獣のような前傾姿勢になり、拳を結んでいた両手が、大腿部の横で目に見えない球体を掴んでいるかのように構えられる。一〇本の指が一本一本、まるで昆虫の脚のようにばらばらに動いた。

 左右にいた少年がぎょっとなって後退り、それからおずおずと、声をかけながら近づいた。

 その少年の身体が、空中で一回転して地面に叩きつけられた。

 別のひとりが罵声を浴びせながら男に襲いかかり、逆に見えない壁に弾かれたように吹き飛ばされた。何が起こったのかわからなかった。男が何かをした瞬間すら見えなかった。

 男が、一歩一歩確かめるように、境内の中心にいる禎一郎に歩み寄る。

 禎一郎を羽交い締めにしていたふたりが手を離し、左右からその男に襲いかかる。当の禎一郎は支えを失ってその場に尻餅をつく。

 ふたりの手下は。やはり瞬く間に倒される。だが男は、先程までとは違い拳の行方を確かめるかのように、必殺の一撃を入れた姿勢で一呼吸静止してから構えを解いていた。

 まさか、と思わず声に出た。

 単身コリアン・マフィアと抗争を繰り広げ、北朝鮮の工作員が裏で糸を引いた大規模な組織犯罪をたったひとりで潰した男。夜ごと東京の街に現れては誰にも裁かれない悪を打ち倒しているという伝説の男。

 ここは偽物たちのパレードなはずだった。

 男は禎一郎の前に立った。顎のあたりから、するりと何かが解けて足元に落ちた。

 黒い包帯だった。

「ザ・フェイスレス……本物?」

 顔のない男はそれには応えず、禎一郎に手を差し伸べた。

 そして言った。

「まだ走れるな?」


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