②
「みちやんよー、お前明日暇?」
「暇だけど……」
「なあお前よー、見るからに不満そうな顔でポジティブな答えするのやめね? そういうのよくねえと思うわけよ、俺は」
十月の末。教室の
まず、空模様が悪い。今年は秋雨前線が列島上空に長居しており、秋の台風が過ぎ去った後も、季節の切り替えを渋るように重苦しい雲が空を覆っている。
話しかけてきた相手は、松井
代わりに、顔だけは知っている同じクラスの女子が松井の隣に立っていた。
「憂井くん、パルクールとか見たくない? もちろん見たいよね」
「パルクール?」
「明日ハロウィンじゃん。それに合わせて、渋谷でパルクール愛好家の団体がゲリラパフォーマンスをやるんだ。見たいでしょ」
「ゲリラパフォーマンス」
「見たくない?」
ぐいっと顔を寄せてくる彼女。松井とは親しいようだが、道哉は二、三度しか話したことがなかった。藤下という苗字は覚えていた。携えているノートの表紙を盗み見て、名前を確認する。
松井が口を挟んだ。
「稜がお前を連れてけってうるさくてさ」
「友達は? 俺が行ったら、何というか……」道哉は、教室内の、いつも稜らと親しくしているグループの生徒に目を向ける。「邪魔にならないか」
稜も、追いかけるように教室内を見た。「いや、みんなパルクールとか面白がらないし」
「松井がいるだろ。こいつ、何でも面白がるよ。そういう才能すごいから」
「聞こえてんぞ憂井、褒めてねーなお前」ぎろりと睨む松井。
「あのー、言いづらいんだけど」ちょっとちょっと、と手招きする稜。応じると、彼女は声を抑えて道哉に耳打ちした。「こいつ、下心が鬱陶しい。助けろ」
「はあ……?」
道哉は、横目で松井の姿を確認する。彼の目線は何気なく、だが絶え間なく、稜のスカートから伸びた太ももに注がれている。気の毒だった。
今の一言がなかったかのような笑顔で稜は言った。「見たくない?」
「うん、すごく見たい。絶対行く」と道哉は応じた。
そんなやり取りの翌日。
放課後、道哉は、松井広海と藤下稜と連れ立って渋谷を訪れていた。雨は前日の夕方には上がり、三十一日は快晴だった。路面は乾き、街は人に賑わっていた。
外灯からハロウィンの訪れを告げる広告が下がっている。ファッションビルは中も外もオレンジ色に染まっており、ジャック・オ・ランタンを象ったキャラクターが思い思いの描かれ方で店頭に跋扈していた。
一花に帰りが遅くなることを伝えた流れで、渋谷へ行くことをWIREで知らせると、彼女はこんなことを返した。
「カメラのAR機能を使ってみてください」
横には「必見」と二文字書かれた半紙の画像が添えられていた。
そもそも携帯電話のカメラにそんな機能があること自体道哉は知らなかった。掌の中に収まっている機械に自分が知らない能力が備わっていることは感動的であり、恐ろしくもあった。
「でもARとかVRって毎年元年的なこと言われてね?」と松井。
「そのぶん毎年の進化が凄まじいんじゃ?」
稜が口を挟む。「毎年流行らせようとして流行らないんじゃないの」
人気女優が出演している連続ドラマの広告を捉えた。すると、ドラマの公式サイト案内と同時に、大手ファッション通販サイトが提供している商品リストが立ち上がった。ワンピース、靴、時計、指輪、髪留め、鞄。化粧品もある。
左隣から画面を覗き込んだ稜。「うわ、すごいの着てるな」
「すごいの?」
「このリスト、全部女優が着てるやつ」
「へえ……」思わず感心して、笑顔の女優と商品リストを見比べる。なるほど、すべて着用しているものと同じだ。「ここから一発で買えちゃうんだ」
「人気ドラマで女優が着てた服がショップから消えるとか、よくあったし」
「じゃあ買えるようにしちまえってか。化粧品とかも全部このリストのやつ使ってるのか?」
「それはただのスポンサー商品」
「へえ……」今度は落胆して道哉は呟く。
さらに左隣から松井が言った。「ストッキングまでしかないのか、惜しい……」
すると、稜が無言で、松井との間に道哉を挟むよう立ち位置を変えた。
「ちょっと稜、稜さーん」
「寄るな」
「ひでえ」
ふたりをなだめつつ、道哉はカメラアプリを落とそうとする。
そのとき、カメラ越しの視界に妙なものが映った。
「みちやん、どした?」
「いや……」道哉はカメラをもう一度方々へ向ける。「なんか、変なノイズみたいなのが写り込んだような」
「うわ、なんだよそれ。心霊写真?」
稜がにやりと笑う。「ブギーマンだったりして」
「ま、まっさかー」松井が顔をひきつらせて応じる。
普通の高校生にとっては冗談のタネになる世間の出来事。だが松井にとってはそうではない。他でもないブギーマンに殴られ、脅され、恐怖を味わうことになったのだから。
本来、隣のクラスの担任がブギーマンとして逮捕されている以上、稜にとっても他人事ではなく、軽々しく冗談として口に出せることでもない。誰もがあえて口にしない。そんな雰囲気は、平静を装って学校へ通う道哉にとっては救いでもあった。
だが稜は、その名前を平然と口にする。
「あの、藤下さんさ」
「稜でいい」と彼女は応じる。「ふじした、って舌噛むだろ」
「確かに」
「で、何?」
いや、と歯切れ悪く応じた。本当は、誰も話題にしないことをあえて口にしたことを窘めるつもりだった。だが機先を制されてしまい、道哉は言葉に困った。
すると稜の方が言った。
「ブギーマンって、誰も話題にしないじゃんってこと?」
松井はばつが悪そうに視線を逸らしている。道哉は致し方なく応じて言った。「悪いとは思わないよ。いいことでもないよなって俺は思うけど」
「私、そういうのわかんないから。あんたも、わかんない側だと思ったんだけど」
「俺も?」
「そう」稜は目を伏せた。その仕草が、失望しているかのように、道哉の目には映った。「案外、普通なんだね」
「いけないことか」
「知らねーよ」
周りと違う、変わった人間であることを、誇ったり主張したいわけではない。それでも、お前は普通だと面と向かって言われると、胃の中に妙なものが潜り込んだように、心がざわついた。つい数週間前までは、誰よりも非凡だった。フードと覆面を被り、夜の街を駆け巡り、コリアン・マフィアと渡り合っていた。その頃と比べたら、今はあまりにも、普通だ。
いけないことか、という問いは、半ば自分へ向けたものだった。
いけなくない、それでいいんだよと、言って欲しかった。相手は誰でもよかった。昨日初めてまともに喋ったクラスメイトでも。
だが稜は、そんな甘やかしを許してはくれなかった。
知らねーよ、と一言。
フードを脱いだ今の生活が正しいのか、正しくないのか。それを考えるのはお前自身だと、突き放されたかのような気分だった。
「稜は、浮世離れ、してんだな」
「離れたくても離れられないのが浮世だろ」稜はひとつ息をつく。「それ、ARグラフィティじゃないか?」
「それ?」
「いや、変なノイズ」
ノイズ、と鸚鵡返しに応じて壁にカメラを向けてみる。
ファストファッションブランドの路面店と飲食店が多数入ったビルの間にある壁に、あった。現実の壁はレンガ調の外装に幾つかの落書きと何かのステッカーが貼られているだけだが、ARカメラを噛ませて見ると、壁に、染みのようなものが見えた。
角度を変えてよく見ると、それは歩道の真ん中で呆然と立ち尽くす子供の3Dモデルだった。
半ば夜に呑まれたように薄暗い虹色のモデル。だがよく見れば、癖の強い髪に浅黒い肌、エラの張った頬。難民をイメージしていることは明らかだった。
松井が壁に近づいて言った。「このステッカー、ARマーカーだぜ」道哉が怪訝な顔をしていると、松井は続ける。「カメラがこの四角? っぽい模様を識別して絵を出すんだってよ」
ふーん、とだけ応じて3Dモデルを今一度仔細に検分する。
頭の上に、WIREの通知アイコンのようなものが描かれていた。共感数も、返信の数もゼロ。だが、未読を示す印が見えない。
「見て見ぬふりをされ続ける難民の子供」と稜は呟く。「有沢が助けたのって、こういう子供だったのかな」
応じる言葉が見当たらず、道哉は黙ってアプリを落として携帯電話をポケットにしまった。
「なー稜さん、会場どこ?」松井が底抜けに明るい声で言った。その明るさがありがたかった。
だが稜は変わらずに冷ややかな声で応じる。「ARカメラでルートが見えるよ」
すたすた歩いて坂道を登っていく稜に、慌てて道哉も歩調を速める。
カメラを方々へ向けながら、今日パフォーマンスをするというパルクール愛好家団体がAR空間に引いた矢印のルートを追っていく。間にある建物を無視し、空中を矢印が一直線に走っている。
「あれ、何だこれ……」と松井が言った。
道哉も画面の異変に気づいた。
壁面が真っ赤に染まっていた。そして、赤いペンキの尾を引いた兎が何匹も、路上を跳ね回っている。
端末が壊れたのかと訝しむと、その心中を見透かしたかのように稜が言った。
「壊れてないよ」
「じゃあ、何なんだこれ。気味が悪い」
稜は顔を向けずに応じた。「赤のカラーギャング『
「カラーギャング?」
「ただの非行少年グループだよ」と応じたのは、意外にも松井だった。「服とか小物に同じ色のものを身につけて、喧嘩やら恐喝やらするわけ。昔はそういうチーマーみたいなのって、縄張りエリアの壁に落書きとかしたらしいんだけど、最近は……」
「どうでもいいでしょ」稜は道哉の端末に手を伸ばした。
マニキュアも何も塗っていない指先が矢印をタップ。するとカメラから地図アプリが起動し、航空写真へ切り替わった。
歯車が噛み合っていないような感覚があった。
街の不可解なアート。カラーギャング。ブギーマン。これが全てではない、と思った。何かを見落としているような気がした。こんなものを前にすれば絶対に放ってはおかない少女の甲高い早口が恋しかった。
彼女ならきっと、得意満面でカラーギャングの歴史やARグラフィティの仕組みを解説してみせるだろう。その裏で泣いている誰かを見つけ出すだろう。そして、戦うべき敵を示すだろう。
自分の中で、羽原紅子という人間の存在がこんなにも大きくなっていることが意外で不可解だった。他人として振る舞ううちに他人になってしまってもいいと思っていたはずなのに。あるいはそれほどまでに、囚われていたのかもしれない。正義を行うことの高揚と充足に。
カメラでなく現実の世界に目を向ける。それでも、赤い血を撒き散らす兎が跳ね回る姿を幻視する。笑われているような気がする。お前も同じだ、決して飛び立てない、と。
大地に縛り付けられている。人は空を飛ばないし、地に足をつけることの難しさと素晴らしさを道哉は知っている。だが地を這っていては、浮世離れすることはない。
それもまた道なり、と呟いてみる。
果たして本当にそうなのか。片瀬怜奈は、道哉の哉は、迷いだと言っていた。学校の友達と放課後に繁華街を訪れるような普通さが、果たして道といえるのか。道哉にはわからなかった。何も断言することができなかった。
稜が、押し殺した声で言った。
「来た」
松井が携帯電話の画面を見ながら歓声を上げる。
航空写真の上に引かれた矢印が、どんどん短くなっている。
そして矢印の終端が、GPSの示す端末の現在地と重なった。
道哉は空を見上げた。
それは三人の少年だった。ひとりはかぼちゃ、ひとりはドクロ、ひとりは吸血鬼の仮装をしていた。フェンスを超え、ガードレールの上に着地し、地面に転がりながら走る。自動販売機を蹴り上げ、塀を乗り越え、車止めを足場にして身長の倍以上も跳躍する。
気づけば周りには幾人かの野次馬。彼らからの喝采、そして何も知らない通行人らからの驚愕の視線を浴びながら、少年たちは疾走する。
「実は……あのドクロ、私の友達なんだ」と稜がはにかんで言った。
「友達?」
「稜さん、お友達とかいたのね」と松井。
「腐れ縁、みたいな」
すると、ドクロがガードレール上を舐めるように通過しながら、指鉄砲を道哉らへ向けた。
道化らしく戯けた、引き金を引くものまねと、重力を忘れるような飛翔。
あらゆるものを置き去りにする加速度。
その眩しさと美しさに目を奪われた瞬間、道哉は、何もかもが噛みあったような錯覚を感じた。
稜が声を張り上げる。「禎一郎、走れーっ!」
矢が放たれたように街を駆け抜けていくドクロの少年。彼を見送る稜の横顔に、道哉は何となく、見覚えがあるように思えた。
その眩しさが悲しかった。
*
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