黒爪団の全貌を知る者はたったひとり。そのひとりの下に六人の幹部がおり、彼らがそれぞれに管理しているWIREのグループが末端構成員である。幹部同士は互いの下にいる構成員の名はおろか数さえも知らされていない。メンバー全体に発信できるのは頂点に立つひとりだけである。

 そして各構成員は、身体に一見して識別できる目印をつけることを義務づけられている。それが、右手親指の爪の黒いマニキュアである。ブラック・ネイルズという名はここに由来する。

 活動の中心は渋谷。そして東京の街は得てして密度は高いが面積は狭い。だから渋谷を歩いていれば、しばしば偶然に、見ず知らずの構成員とすれ違う。都市が産んだ偶然が、組織の底知れなさを演出し、構成員に恐怖を植えつけ恭順を促す。

 階層型とウェブ型、デジタルとアナログの間を取ったようなその形態はボスである『ガミさん』の発案とされている。だが不思議なのは、ガミさんが、そう頭が切れるようには見えないことだ。

 組織には金がある。武器を揃え、会合を行い、コスチュームを手配し、夜毎遊び歩く金がある。その恩恵に預かれるのは幹部と彼らに気に入られたごく限られた数名だけだから、構成員は皆憧れる。彼らのようになりたいと思う。だがガミさんがどうやってその金を稼いでいるのかわからない。

 とにかく、中枢の人間たちが、誰かを威圧して従わせることには長けていても、組織を管理したり金を稼いだりする能力を有しているようには見えないのだ。

「じゃあ新人……ええと、ハイムラくんだっけ?」とそのガミさんが言った。

 ダルマのように膨れた顔。高校生にもかかわらず喫煙のために歯はヤニに汚れている。暗い目で周囲を睥睨するその姿は、獰猛な深海魚を彷彿とさせた。

 深夜。眠らない街の繁華街は人にあふれている。その一角に七人で陣取り、酔客や通勤客の行き来を妨げながら、彼らは一向に気にかける様子がない。正面にはコンビニがある。

「ハイムラくんねえ、長続きする人間関係に大事なものって何だと思う?」

 ガミさんのその一言に、灰村禎一郎は頭をフル回転させる。入団試験がある、と聞かされてここに来た。ならばこれも、試験の一環だ。

「目上の人の言うことはよく聞くこと」

 不自然にならないぎりぎりまで悩み抜いた末、禎一郎はそう答えた。

 周りの数名が心底愉快そうに笑う。何が楽しいのかわからない笑顔が不気味だった。

 するとガミさんが大声を上げて笑った。「いいんだよ、そんな畏まった模範解答さあ」

「でも、ブラック・ネイルズの一員になるわけですし。俺、ガミさんのこと尊敬してますから」

「じゃあさ、テスト行ってみようか」

 取り巻く幹部たちの笑みが濃くなる。これはテストではなかったのかと思うと慄然とする。

 ガミさんは上着のポケットからミントタブレットを取り出し、言った。「ハイムラくん、これと同じの、そこのコンビニで取ってきて」

「OKっす。買ってきます」

「違うよ、ハイムラくん」ガミさんの顔が醜悪な笑みに歪んだ。「取ってきて」



 榑林邸にも冬が近づいていた。庭の木々の葉は枯れた色が目立つ。だが鮮やかな山茶花や常緑低木の濃い緑が色を添え、庭では雀が数羽戯れている。

 休日の午後。縁側に腰を下ろした道哉は、肩に薄手のダウンジャケットを羽織っていた。

 そして道場では、珍しい人物が畳を踏んでいた。

「いいですか、片瀬先輩。何よりも大切なことは、護身術が必要な状況を避けることです」

「戦う必要がないのが最良ってことね」

「はい。次に大切なのは、逃げることです」

「逃げる?」サイドにストライプの入った紺色のジャージで首を傾げたのは、片瀬怜奈だった。

 対するは、道場主の妹である榑林一花くればやしいちか。彼女はたすき袴で気合十分だった。

「そうです。身を守るために必要な技は、戦う術と必ずしもイコールではありません」

 すると、横で座って控えていた榑林一真かずまが口を挟んだ。「それは違うよ一花。全てはひとつだ」

「お兄ちゃん、ちょっと黙って……」

「いいや、大事なことだ。形はどうあれ、彼女もまた、榑林真華流の門を叩いたのだから」正座を崩さずに一真は続ける。「必殺の拳も、身を守るだけの弱々しい拳から始めなければ体得することはできない。逆に言えば、全ての拳は、敵を殺める術へと繋がっている。暴力は、暴力であることから逃れられないんだ」

 怪訝な顔になる怜奈。「護身術だからと気楽に構えるのは間違っているということですか?」

「そうは思わないが……あなたの動機は、本当に自分の身を守ることだけか?」

「そうですけど」

「なら構わない。」一真は立ち上がる。「邪魔をして悪かった」

 そして一真は縁側まで来て道哉の隣へ座った。

 一花は咳払いをして講義を再開する。

「えー、少々邪魔が入りましたが、まず、今日から先輩にお教えするのは、逃げるための技です。正しい攻撃ならば女性の力でも大の男を怯ませることはできます。ですが、その後にすぐさま逃げることの方が大切です。運よくダウンが取れたとしても、次もダウンさせられるとは思わないことです。最初の一回はただの幸運でしかありません」

「嬉しいんだろう」と道哉の横で一真が言った。「あの子にとっては初めての門弟だからね」

「いいんですか? 一真さんが教えなくても」

「僕が教えるのは榑林真華流だ。護身術じゃない。それにあの女の子は、苦手だ」

「怜奈が?」

「彼女は嘘をついている」

「身を守る以外のことを、するつもりだって、一真さんは思うんですか?」

「さあ。それはわからない。ただね、女の嘘には追求できるものとできないもののふた通りある。彼女の嘘は後者だ。だから僕は、あの子が苦手だ」

「時々難しいことを言いますよね、一真さん」

「誰しもに伝わる言葉を知らないんだよ、僕は。……ところで、道哉」

 一真は珍しく片膝を立てた。この世の何もかもを見透かすような男には似合わない仕草だった。

「何ですか、改まって」

「最近、家に寄り付くようになったと思ってね。何かあった?」

「そんな、猫みたいな言い方」

「よりつかぬ、焦らし猫ほど、愛おしき」

「何ですか、それ」

憂井宗達うれいそうたつがそんな句を残していてね」一真は立ち上がった。「じゃあ、怪我がないようにだけ、見ておいてくれるか」

「大丈夫じゃないですか、あのぶんだと」

 一花は怜奈に、出会い頭に掌底を顔面に打ち込むことで機先を制する技を教えようとしているようだった。確かに、目や鼻、あるいは顎に一撃を浴びせれば相手の戦意を大幅に削ぐことができる。思い通りにならないことを極端に恐れる暴漢らには有効だろう。

 だが、今の怜奈はそれ以前の問題だった。打つにしろ突くにしろ捌くにしろ防ぐにしろ、根本的に必要な筋肉がない。

「逆に関節や筋を痛めないか心配だ」

 道哉はにやりと笑う。「やっぱり一真さんが教えれば?」

「道哉に任せるよ。僕としては……」怜奈と一花の方を見て一真は言った。「一花の頑張りを邪魔したくないかな」

「腰を上げない理由探しは上手なんだから」

「あ、前が見えない。じゃあよろしく。全然見えないなあ」

「一真さん、あんた俺より遣うでしょ、一真さん」

「日常生活にかなり困っているのは本当だよ。障害者手帳も持ってるし。見たい?」

 言い返しにくい言葉を並べて、一真は屋敷の奥へ引っ込んでしまった。

 道場主の妹としてそれなりの鍛錬は積んでいる一花と、覚束ない手足でそれを真似る怜奈。ふたりの間に割って入るのも躊躇われ、道哉は草履を引っ掛けて庭へ出た。

 怜奈が急に護身術などと言い出したのは、きっと、あてつけだ。

 容姿の美しさからトラブルに巻き込まれることも多いだろう片瀬怜奈のこと、実利的な意味合いも少なからずあるのだろう。だが大半は、あてつけに違いない。

 怜奈は、非戦闘用員とはいえ、羽原紅子とともに次の重大犯罪の芽を探っている。学内や地縁に由来する若者たちの人間関係について、WIREやその他のSNSを介したリストアップを行っており、有沢修人の逮捕で表立って活動できない間も、チーム・ブギーマンの足場固めを着々と進めているのである。

 だが、肝心の道哉自身が乗り気になれなかった。

 しばし庭の雀の動きを見つめてから、道哉は縁側へ戻る。

 畳の上の一花と怜奈は同じ調子だった。道哉は草履を脱いで上がり、ふたりに近づき、背後から一花の右手首を掴んだ。

 すると一花はすぐさま身体を正面に向けて自分の手首を掴み、上から下へ捻るようにして下ろした。道哉も直前で離す。

 それから彼女は胸元で手を組んで、後退りしながら言った。

「み、み、道哉さんっ? 何ですかいきなりっ!」

「怜奈、これは悪い例だ。振り解いたら、全力疾走で逃げること。男を倒してやったとか、得意になってその場に留まる必要はない。汚らわしい、人間以下の動物から一刻も早く離れるんだと思え」

「うん……?」長い髪をお団子のようにした怜奈は首を傾げた。

「わ、わたしっ! 何なんですかって訊いてるんですけどっ!」

「一花ちゃん、ちょっと俺を実験台にしてくれ」

「実験? 何の実験ですかっ!」

 困惑に染まる一花を無視して両手で両肩を掴む。即座に一花が反応。右腕で外から道哉の肘関節に打撃。肩に乗った手が外れ、道哉が前につんのめったところで背後に回り込んで肩を押す。

「わーっ! わーっ! そ、そんなことする人だと思いませんでした!」

「あの、誤解を……ええい、こうなったら。一花ちゃん、ちょっとあっち向いて」

「あっち?」至って素直に道哉に背を向ける一花。

 その背中から忍び寄り、後ろから抱き竦める。

「いーーーやーーっ!!」

 両腕で体重を込めて腕の戒めを緩め、その隙に全力の肘打ち。

 その一花の肘打ちをまともに受けた道哉はたまらずその場でうずくまる。

「い、いいぞ。ただし、あともうワンアクション、相手との距離を安全に取る攻撃を加えるんだ」

「変態! セクハラ! 家庭内暴力!」

 道哉は何とか立ち上がる。「ごめん。先に説明すべきだったかも。ちょっと、順序が……」

「そ、そうですよね。道哉さんがよりによって先輩の前でこんなことしませんよね。わたし信じてますもん。道哉さんは素敵で立派な……」

「本当にごめん」

 道哉は手を伸ばした。

 一花の胸を掴んだ。左胸。発育はきっと人並みより控えめな程度。比べたことはないからわからない。外から見る限りは怜奈よりささやかだった。実際、生活の中での一瞬のふれあいならばともかく、こうも露骨に触ったのは初めてだった。

 柔らかさは大きさに関わらないのかもしれないとふと思った。

「ぎゃーーーーっ!」

 手首を外側から掴まれる。そのまま腕を潜られるようにして、一花の身体が背後に回る。捻るのは最低限。ガードも何もない背中に思い切り平蹴りを受け、道哉は道場の床へうつ伏せに倒れた。

「そう、そうやって相手との距離を……」

「最低! 最低ですっ! 幻滅しました!」顔を真赤にして一花は叫ぶ。

 道哉は関節をさすりながら半身を起こした。「怜奈、俺と同じことやって、一花ちゃんを襲ってみろ」

「襲う?」また首を傾げる怜奈。

「いきなり対抗手段を学ぶのは無理だ。だからまずは、悪の方法を知るんだ」

「悪の方法……」

「それがわかれば、自ずと戦い方も見えてくる。……一花ちゃんも、いいね?」

 一花は自分の肩を抱いて二メートルほども距離を置いた。「はい、まあ、仰ることは……」

 悪の手段を知り、同じ手段を逆用して悪に対抗する。

 狡猾なサイバー犯罪と同じ手段を使ってブギーマンの活動をバックアップしていた羽原紅子のことを思い出した。

 彼女と共に戦っていた自分。犯罪退治に明け暮れた数ヶ月の記憶が全身に染み付いているように思えた。拳、スーツ、雨、犠牲にしてしまった人。忘れたふりをしていた事柄が次から次へと思い出される。そのひとつひとつが語りかけてくる。お前は忘れられない、と。

 道哉は立ち上がった。「まず初日は、怜奈は襲う側の心理を知ること。一花ちゃんは、指導相手に絶対に怪我を負わせないこと。いいね」

「それはわかりましたけど……」据わった目でじっと睨みつけてくる一花。

「ごめんなさい」道哉は深々と頭を下げた。

「伝わってくれて嬉しいです。早く消えてください」

「道哉」胸の下で腕を組んだ怜奈。「今回はあんたが悪い。ていうか、受講者はあたしなんだから、あたしにするべきでしょ」

「それはできない」

「なんで」

「すんなり伝えられる言葉が見つからない。……離れにいるから」

 まだ何か言いたげな怜奈を置いて、道哉は離れの一間に戻った。

 調べたいことがあった。

 PCを立ち上げ、渋谷のARアーティストについて検索する。程なくしてアート系のオンラインマガジンの記事が見つかった。

 サカグチというのが作者の通名だった。顔を映さないインタビュー記事が掲載されていた。記事の公開日はほんの数日前だった。

 誰もが忘れてしまう大事なことをその場所に人知れず刻みつけたいんです、とサカグチは語っていた。

 外国人排斥を訴える右翼系団体と学生政治団体の衝突があった場所に、誰にも気づかれることなく、共感されることもなく無視されていく難民の子供を刻む。他にも、交通事故の現場に被害者の形の影を置く、惜しまれながら取り壊された建物のシルエットを置くなどの作品があった。彼の活動範囲は渋谷に限定されているわけではなく、同様のARサービスが実用化されている秋葉原にも作品を置いていたことがあった。

 二〇〇八年に起こった秋葉原無差別殺傷事件の現場を再現するARの影を設置したのだ。

 店舗の壁に貼られた十二のタグのいずれかを読み込めばひとつの3Dモデルを展開できた。だが、同時に展開されるURLが十二ヶ所に固有であり、それぞれ事件当時現場で撮影された携帯電話のカメラ映像やニュース映像が再生された。

 三日と保たずに撤去されたものの彼のゲリラ・アートは報道でも取り上げられ、以降サカグチの名は全国に知られることとなった。

 そんな気鋭のデジタル・グラフィティ・アーティスト、サカグチ。作品はかなり人気があるらしく、タグ付けされている単語でSNSの類をサーチしてみると、彼の作品を収めた写真や画像の数々が引っかかる。

 サカグチの公式サイトにはARの完成形と周辺のごく限られた風景だけが収められた写真が投稿される。これを元に、ファンは宝探しのように街を探し、どこかに貼り付けられているARタグのステッカーを探す。かつて、グラフィティはただの落書きにすぎず、そこにどんな政治的主張や社会的意義があろうと、上塗りされて消えてしまうものだった。だがサカグチはステッカー一枚。最小の迷惑で最大の主張を刻む様がクールでありロックである云々と、別の記事には書かれていた。二十一世紀も概ね四分の一が終わったというのに何でもかんでもロックにする態度がぶれない音楽雑誌だった。

「だから、何だってんだ……」

 そう呟いて、道哉はベッドに身を投げだした。

 いつの間にか、道場の方は静かになっていた。

 自分の行動が社会に及ぼした影響のひとつだから、調べずにはいられない。自己顕示欲。承認欲求。そう言葉にしてしまうのは簡単だが、むしろ、自分という存在がどこまで広がっているのか確かめないことには、安心できなかった。

 だが、世の中がブギーマンのことをどう言っていようと、憂井道哉としてすることは変わらないはずではなかったのか。変わらないはずであり、そのためのマスクとフードであるはずではなかったか。

 そして何より、もう、やめた。

 考えるのも億劫で、もう寝てしまおうかと目を閉じた。

 すると、部屋の扉がノックされた。道哉、と戸外から声がした。

 怜奈の声だった。

 慌てて床に散らばったゴミの類をゴミ箱に突っ込む。それから雑誌やゲーム機の類を数秒間で可能な限り整列させて、道哉は戸を開けた。

「おう、怜奈」

「よっ、道哉。……いい?」

「おう」怜奈を室内へ招き入れる。その出で立ちに思わず目を奪われた。

 浴衣姿だった。稽古を終えて汗を流したらしく、身体から甘く湿った香気が立ち上っていた。

 やや覚束ない足取りで室内に入ると、怜奈はその場で一回転した。肩から胸元に垂らしていた髪が扇を描いて舞った。

「どう?」

「すごい」

「もっとポエティックに」

「ロックンロール」

「意味不明」怜奈はベッドに腰を下ろした。「今日は、現状報告をしようと思って」

「報告?」

「そ。チーム・ブギーマンの現状報告」

 道哉は床であぐらを組んで座った。「なんで、俺に」

「渋谷のカラーギャング同士の抗争が激化しててね」怜奈は目を合わせずに言った。「黒い爪と書いて『ブラック・ネイルズ』っていうグループが、これまで最大勢力だった『レッド・ラビット』、こっちは赤い兎って書くグループを蹴落とすほどに勢力を拡大しててね。その背景にあるのが、潤沢な資金なの」

「資金? カラーギャングって、基本的には未成年中心の悪ガキ集団だろ」藤下稜や松井広海と話したことを、道哉は思い起こしながら応じた。「恐喝っていったってたかが知れてるし、第一少年グループが金を持ったって……」

「黒爪団はフィッシング詐欺のためのARタグを渋谷のあちらこちらにばら撒いてるの。双方向デジタルサイネージとARカメラの連携で、広告を見たらその場で注文できるサービスがあるのは、知ってる?」

「な、何だよその目。知ってるぞ」

「いや、あんた高校入るまでケータイも持ってなかったし……」不承不承な様子で怜奈は続ける。「こういうの。見たことある?」

 怜奈の携帯電話に表示された画像は、パルクールのパフォーマンスを見物しに行ったときに見たものとよく似ていた。大手ネット通販サービスの商品案内ページだ。

 だがよく見ると、通販サイトのロゴが正規のものと微妙に異なっている。

「これでクレジットカード情報や個人情報を盗み取るの。携帯電話の料金請求と合算できるのとか電子マネー払いとかだと本当にワンタッチだし、まして外出先でしょ。自宅でじっくり画面を確認しているときと違うもん。騙されるよね」

「こういう偽の通販サイトが、ARカメラを向けたら本物と同じように立ち上がるのか?」

「そういうこと。盗み取った後は知っての通りね。そのまま情報を他の組織犯罪集団に売り渡しているんじゃないかって、羽原さんは推測しているけど……」

「解せないな。ただの非行少年グループにそんなことができるか? 羽原ならともかく」

「あんな高校生が何人もいたら困るよね」怜奈は堪えきれなかったように苦笑いになる。

「で、どうしてわざわざそんな連中のことを調べる」

 怜奈は平静な顔に戻って続ける。「ブラック・ネイルズには構成員を見分けるトレードマークがあるの。ひとつは、右手親指の黒いマニキュア。もうひとつは、このコスチューム」怜奈は画面を切り替えた。

 彼ら自身がWIRE上にアップロードしている写真のようだった。ストリートの一角に屯し、カメラを威圧するようにルーズに構え、手指を突き出す少年たち。

 彼らは皆、黒いマスクと黒いパーカーのフードを被っていた。

「彼らは最近、『ブギーマン』を真似たコスチュームを着るようになった。だから私たちは彼らを止めたい」

「どうして。警察に任せろよ」

「責任があるから。私たちには、このアイコンを正しく用い、間違った用い方を正す責任がある」

「俺にもある、って言いたいのか」

「あたしはそう思うよ。羽原さんはそうでもないみたいだけど」

 必死な叫び。皮肉な笑み。自信満々な言葉。なりそこないのポニーテール。羽原紅子の姿を形作っていたもののひとつひとつが思い出され、道哉はため息をついた。

 君じゃなきゃ駄目だ、と紅子は言っていた。

 その紅子がひとりでやると言っているのなら。

「俺は、ヴィジランティズムの愚かしさを身をもって知った。もうやらない」

「それでいいの? あたしは、あんたがいなきゃ駄目だと思う」

「あいつがいればやってけるよ。お前だって、護身術なんか習ってさ。いざとなったら戦えるようにって魂胆なんだろ」

 怜奈はやや眉根を寄せた。「……よくわかったね」

「俺と、お前だぞ。考えていることくらいわかる。それに、この間の入江の一件だってあった」

「自分の身は自分で守りたいってのが第一。第二に、チームのために貢献したい」

「やめとけよ」

「じゃあ、あんたは戻ってくれるの」

「それは……」

「振りかかるのが運命なら、追いかけてくるのが宿命だよ。いつかあんたは追いつかれる」

「別に逃げてるわけじゃない」

「羽原さん、わかってるよ。あんたじゃなきゃ駄目だって。顔を完全に隠せることも、格闘術も、あんたの持ってるものは何もかも、羽原さんのやりたいことにぴったりなの。それでもひとりでやるって言ってるのは……」

「俺を守るためだ。あいつはいつだってそうだ。どちらか一方が追求を逃れるためだとか、いっつも言ってたけどさ」道哉は立ち上がった。

 室内には座卓と本棚、勉強用ということになっている机、ベッド、小型冷蔵庫などが適当に並んでいる。それらを一瞥して、道哉は壁掛け時計の裏に手を伸ばす。

 マジックテープで貼りつけられた親指の先ほどの部品を取り外す。

 座卓の上に放り出して、道哉は言った。「盗聴器。たぶん、羽原がつけたんだと思う」

 怜奈は目を丸くした。「どうして、こんな……」

「羽原紅子は憂井道哉の生活を監視していた。監視して脅して自分の計画の手足として使っていた。だから主犯は羽原紅子であり、憂井道哉ではない」

「あんたを守るためだっていうの?」

「あいつのやりそうなことだろ。露見したら、どうあっても自分だけが咎を引き受けるつもりでいるんだよ。……おい、羽原。聞いてるんだろ。俺はやらない。お前に守られている限り。俺は……」道哉は一度言葉を切って、それから続けた。「お前や先生に守られるだけの子供だったから」

「道哉」

 携帯電話が着信音を鳴らした。応じずに切る。「悪い、怜奈。今日は帰ってくれるか」

「待って、でもあたし……」

「帰ってくれ。もう話すことはない」

「お願い。戻ってきて。私たちには、あなたが必要なの」

「帰れって言ったんだよ」

 観念したのか、怜奈は硬い表情で立ち上がった。ベッドの軋む音がやけに耳に残る。

「近々、ブラック・ネイルズとレッド・ラビットの間で大規模な抗争がありそうなの。きっと血が流れる。制服だとわからなくても、うちの学校にもどちらかのメンバーがいるかもしれない」

「俺には関係ない」

 草履を突っ掛け、離れの扉を開き、敷居を跨いだ怜奈は、肩越しに振り返った。美しい顔を崩さない様は、まるで彫刻か人形のように見え、道哉を慄然とさせた。彼女は言った。

「地に足がついた生き方って、楽しい?」

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