第4話 ザ・セカンド・フェイスレス

episode 4 "THE SECOND FACELESS"

 雨に濡れた身体が重い。あらかじめ調べておいた道。自分のスキルならば確実に通れるだろうと念入りに確認したルート。だがそれさえも、城壁のように高くそびえ立って見える。

 壁を二度蹴って手を伸ばす。縁に手をかけ、懸垂運動で無理矢理身体を壁の上に持ち上げる。四方八方から怒号が聞こえる。そのすべてが追手だった。

 逃げろ、逃げろ、逃げろ。自分に言い聞かせて走る。

 壁の反対側へ膝のばねを全力で効かせながら着地。膝を胸につけた姿勢でガードレールを飛び越え、立体駐車場へと転がり込む。目の端に料金表示が見える。平日最大二〇〇〇円。そのまま速度を緩めることなく行き止まりへと突進する。

 走れ、走れ、走れ。

 停まった車を蹴って跳び、さらに駐車場外周の鉄材を蹴る。逆手を伸ばして掴むのは、上層階の基礎部分だ。

 右手に続いて左手をかける。

 自分に言い聞かせる――這い上がれ!

 右手が滑った。内臓を鷲掴みにされるような失墜の感覚を左手で繋ぎ止める。もう一度右手で縁を掴み、順手に換え、息を一気に吐きながら上層階へと潜り込んだ。

 車のタイヤに背を預け、肩で息をしながら様子をうかがう。

 階下で怒鳴り声が聞こえた。複数人の足音。金属パイプでコンクリートの床を叩く音。確かにこっちへ行ったはずだ、どこへ消えた、そんな少年たちの獣のような雄叫び。

 手首に巻いていた黒い布切れの端が縁から下へ垂れていることに気づき、慌てて引っ張る。染みこんだ雨水が飛び散る。迂闊さに気づいた時にはもう遅い。その雫が、降り注ぐ雨に紛れることを願った。

 黒のスウェットパンツは10オンス。足首で絞ってハイカットのシューズに束ねている。重めだがクッション性に優れたシューズは、まるで身体の一部であるかのように馴染む。都市を駆け抜ける相棒。あらゆる場所を走破するために揃えた装備と、鍛えた身体だった。

 上半身はノースリーブの黒のパーカー。覆面代わりの黒い布で鼻から下をぐるぐる巻きにし、フードを被る。動きを妨げるプロテクターは基本的に装着しないが、手首にだけはリストバンド。その上から、やはり黒い布を巻いていた。垂らしたのは、ある男の伝説の真似だ。

 ブギーマン・ザ・フェイスレス。

 その正体は、地獄から蘇った亡霊とも、戸籍上は死んでいる人間とも、はたまた頭のおかしいただの男だとも言われている。

 夜の闇に紛れ、警察も知らない悪を人知れず追い詰め、天罰を下す謎の男。決して賞賛されないが、誰かが成さねばならないことを成す。

 そう、これは、誰かが成さねばならないことなのだ。

 少年たちの声が遠ざかっていく。

 有沢という高校教師が逮捕されて一ヶ月。ブギーマンが現れたという噂は聞かない。ならば有沢が本物だったのか。伝説の正体は、こうも呆気ないものだったのか。

 この世には、誰にも咎められず、裁かれることもなく、誰かを平然と傷つけ続ける悪がいる。どんなにこの世の優しさを信じようとも、悪は変わらずに在り続ける。決して乾かない路地裏の水溜りのように。

 だから、戦うと決めた。

 階下の通りに目を落とす。仲間からはぐれたらしき少年グループのひとりが、舌打ちしながら携帯電話の画面を覗き込む姿が見えた。端末が雨を浴びないように背を丸めている。

 黒一色の服装に黒フード。渋谷を席巻するカラーギャング集団『黒爪団ブラック・ネイルズ』のユニフォーム。ブギーマンを模した服装で彼とは正反対の行為を繰り返す連中への怒りが、雨に冷えきった身体に再び火を点す。

 偽物と、偽物。

 だが、だからこそ、絶対に負けるわけにはいかない。

 二階から地上めがけて飛び降りる。屈伸で衝撃を受け流し、右腕と肩を支点にした前転でさらに受け流す。そして、重力加速度を殺すことなく前進力へと変換した少年の身体が、雨を裂き、黒い影を従えて、少年ギャングの末端構成員へと襲いかかる。

 少年の名は灰村禎一郎。

 十六歳、高校一年。

 誰よりも速く駆け抜けた先にあるものを、彼はまだ知らない。


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