④
何かを変えようと思った。
特にきっかけがあったわけではない。夜の生活が戦いに満ちたものへと激変してしまったのだから、昼間くらいは今までのままでいた方がいいのではないか、とも思う。
ただ、危機感を覚えたのだ。
このまま、目立つこともなく、誰と友達になるでもなく、浮世離れしたまま日々を過ごしていくことに。
地に足をつけて歩くことに、価値があるとも思わないし憧れもない。みんなと同じなんて、つまらない。だが、じゃあお前は何だと訊かれた時に、何も答えられないことが、怖かった。唯一無二の者になりつつある、夜のせいかもしれない。
そこで、通学手段を変えることにした。
「……バイク通学?」食卓の一真は怪訝な顔だった。「どうしてまた。ただでさえ生傷が絶えないのに」
「いや、せっかく貰ったし、乗らないともったいないと思って」
「絶対! 新しいおもちゃを学校の皆さんに見せびらかしたいだけですっ!」一花は怒り心頭だった。「お父さんもお父さんだよ、もう……」
「エンジンって生き物だから。毎日回すのが一番長持ちするらしいよ。ちゃんと走らせないと」
「器物です、理屈捏ねても駄目です、絶対駄目ですからね!」
「一花、印鑑持ってきて」と一真はすげなく言った。「道哉、押す場所を教えて」
事前に担任の坂田教諭に相談したところ、通学手段の変更に必要なのは書類一枚で、保護者の署名捺印、免許証と保険証のコピーがあれば問題なしとのことだった。
書類上、保護者とされているのは榑林一夫だ。だが一真はしばしば一夫の名を騙って代筆し、捺印もする。
わたしは許しませんからー、と声を上げる一花の横で書類は完成する。
翌日、坂田教諭へ提出。翌々日から、道哉は数少ないバイク通学組のひとりとなった。
自分がバイク通学してみると、意外と同好の士が多いことに気がついた。朝の駐輪場には、スクーターを中心に十台ほどのバイクが停まっていたのだ。
小型のスポーツバイクのようなものもある。そして紅子のオフロードの味があるスクーター。
眺めていると、後ろから声をかけられた。
「どうした憂井。せっかく登校してるのに、こんなところで」
「有沢先生」
雨の日も風の日もジャージ姿の有沢修人だった。自宅は学校から程近いらしく、自転車だった。小洒落たロードレーサーだった。
「お、バイク通学になったのか? 原付?」
「いえ、二五〇です」
道哉が愛車を指差すと、有沢はいいなあ、と声を上げた。「エストレヤか。俺も大学の時に乗ってたよ」
「先生も?」
「すぐに物足りなくなってホンダのCB1100に乗り換えちゃったんだけど」
「今は乗らないんですか?」
「生徒の範たらなきゃいけないから」
「バイクは不良の乗り物ですか」
「親御さんはそう考えるからね。教師がバイクに乗ってるってだけで学校に苦情が来るんだよ。つまんないだろ、世の中って」
「じゃ、先生の分まで俺が乗ります」
「事故んなよ」
自転車を停める有沢。その背中に道哉は言った。
「伯父に連絡してくれたって聞きました」
有沢は顔を上げた。「坂田先生には言わないでくれよ。越権だから」
「いえ。嬉しかったです」
「喧嘩の話だけどさ」有沢は、急に真面目な顔になった。「拳って、気持ちいいんだよ。だから正しいことをしていると勘違いしてしまう。これだけははっきり言っとく。憂井のしたことは、全く正しくない」
「それは……わかってます」
口ではそう応じた。
忘れかけていた。夜の街を駆け、悪党を懲らしめ、蔵を秘密基地にして新装備を開発する日々があまりにも楽しくて。
羽原紅子の熱情に当てられていたのかもしれない。
だが、誰かを殴ったのはいつだって道哉自身の拳だった。
すると、俯く道哉の頭に、有沢の手のひらが触れた。
「でも、絶対に許せないものを前にした時、振るえる拳はいつもポケットの中に入れておけ」
「絶対に、許せないもの……?」
「そういう気持ちがこの世界を良くしていくんだよ。約束できるか?」
「何を?」
「許せないもの以外、殴らないって」
しばし押し黙ってから道哉は口を開いた。「フェアじゃない」
「はあ?」
「俺の方だけ約束させられるなんて、フェアじゃないですよ」
「……確かに」有沢は腕を組んで頷く。「じゃあ、憂井が約束を守ってくれるなら、俺は憂井のことを越権行為で守ろう。これでいいか?」
「フェアですね」
「交渉成立だ」
その時、予鈴のチャイムが鳴った。慌てて職員室へ向かう有沢とはそれきりだった。
教師とそんな話をしたのは生まれて初めてだった。
だが、大人たちを疑いたくなる奇妙な授業が行われたのも、同じ日だった。
朝のホームルームで、午後の授業が講演になることが知らされた。首をひねりながら授業を受け、昼休みを過ごし、怪訝に思いながら講堂へ向かった。
校長から、昨今の社会情勢を踏まえ云々、という前説があった。そして、紹介されて現れたのは、聞いたこともない組織の、見たこともない女の講師だった。
NPO団体『ヘイトスピーチと戦う市民の会』の理事、というのがその女の肩書だった。
困惑する生徒たちをよそに、ヘイトスピーチ、すなわち差別的発言とは何かという基礎編から話が始まった。結構なことだが、この時間を睡眠に充てた方がもっと結構だと判断した道哉は、腕を組んで寝ることにした。するとものの数分で、担任の坂田教諭から頭を叩かれた。
「ちゃんと聞きなさい、憂井」
「でも……」
「あの理事さん、大物政治家とも繋がりがある立派な人なんだから。旦那様は経団連の……」
「それは凄いですね」どこを凄いと思えばいいのか全くわからないところが凄い。
そしてこの講演の意図に思い当たった。
佐竹の件だ。
韓国出身の不法滞在者を母に持つ佐竹はその生い立ちがネットやマスコミに暴露され、心ない言葉の数々が浴びせられた。
そのケアのつもりで、講師を呼んだのだ。
反差別。反排外主義。言うこと自体は正しい。だが、怒りを込めて正義の拳を振りかざさんとする壇上の女の姿には怖気が立った。博愛を説くのかと思いきや、途中から在日韓国人が受けてきた謂れのない差別の話に内容がすり替わっている。そして日本と学校と同じように国からの補助金が降りないことへの抗議。それは、憎しみだけの言葉を叫んではならないという正しさと、どう関係があるのだろう。
最後に、デモの主催や機関紙の発行などの政治・思想活動を行う大学生の若者たちを紹介し、積極的な政治参加を促す。そしてさらに、最近のニュースとして、誘拐された難民の少女のことを話題に上げた。
「このように、彼らは日々、リアルな恐怖に晒されています。言葉の暴力は、いつか本当の暴力へ繋がります。ヘイトスピーチのこと、お友達や家族と、もう一度考えてみてください」
そう締め括って女の講演は終わった。
彼女は知らないのだろうか。誘拐犯もまた韓国系のマフィアだということを。
質疑応答の時間が始まった。生徒は誰も手を挙げなかった。
申し訳程度に教師のひとりが手を上げ、女はメモでも読み上げているかのように流暢に質問に答えた。
それで終わりかと思われた時だった。
二年の席から手が上がった。
「あの……先ほど、誘拐未遂事件のお話をされましたね」
マイクを受け取り、そうおずおずと切り出した生徒の姿に我が目を疑った。島田雅也だ。
休みが明けてから彼とは話していなかった。一花の件もある。ひとの大事な従妹を失望させたら許さんぞと釘を差すのを忘れていた。後で捕まえようと思いを新たにし、島田が発した言葉に、今度は我が耳を疑った。
「難民の少女を助けたという『顔のない男』は実在するんでしょうか? するとしたら、何者なんでしょうか」
講師の女は、それは私が答えるべき質問ではありませんね、と応じて躱した。島田は担任の有沢に窘められ、潜め笑いが講堂から上がった。すると講師はこう付け足した。
「ですが、虐げられる者の味方だとすれば、とても心強いことですね」
道哉は席を立った。
坂田教諭が何か言うのに「トイレです」と応じ、講堂から階段を抜け、中庭へ出た。
あたかも自分が虐げられる者の代表であるかのような顔に吐き気がした。あれは、誰かから何かを奪う側に立っている人間のものだった。
勘違いするな、俺はお前みたいな人間の敵だ。
そう吐き捨ててしまいたかった。
ベンチでひとり座っていると、小柄な影が前に立った。
「どうした、憂井」
聞き慣れた声に目線を上げ、確認してから道哉は応じた。「何でもねえよ」
羽原紅子。なりそこないのポニーテールをなびかせた彼女は、さすがに白衣姿ではなかった。他と同じ制服だ。まるで普通を装っているかのようだった。だが、装いきれない眼差しが、眼鏡の下から覗いていた。
「ま、腹が立つのはわかる。いけ好かない女だった」
「いいのか? 学校では関わらない方がいいんだろ」
紅子は、講演が終わって解散になるや真っ先に出てきたらしい。まだ他の生徒の姿は見えなかった。「ま、今だけはな。私も人間を心配することくらいある」
「愛しのドローンくらい俺のことも大事に扱ってくれよ」
「善処しよう」紅子は唇の端で笑う。「やはり我々はチームとして理想的だ」
「理想的?」
「嫌いなものが同じなチームは長続きすると言うだろう」
「どこで仕入れてきた、そんな情報。ハッキングか?」
「君の大雑把さが大好きだよ」そう言い残して、紅子は中庭を後にした。
もうひとり座れるベンチの空きに目を向けて、道哉は呟いた。
「そういうんじゃないよな、俺たち」
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