変わっていないつもりでも、たくさんのことが変わりつつあった。

 たとえば、羽原紅子と無関係を装い続ける代わりに、片瀬怜奈との距離は妙に近づいていた。

 とてつもない変化がひとつあった。

 昼休みを必ず怜奈と一緒に過ごすようになったのだ。

 彼女は緑の眼鏡を愛用しているらしく、片瀬怜奈が授業中に眼鏡をかけている、という噂が教室ひとつ越えた道哉の周辺にまで届いていた。

 そんな怜奈は、昼休みのたびに道哉の教室に顔を出した。そしてふたりで、学校の誰にも見られず食事ができる場所を探した。

「だって食事って、人間でしょ。誰が見てるかわからないのに、人間じみるのは嫌」

 人前で食事はしない主義の理由を問うと、彼女はそう答えた。

 いつの間にか、九月も下旬に差し掛かっていた。

 もうすぐ、制服も冬服に変わる。今年は残暑が厳しいらしく、未だに日中は三十度近い日が続いていた。

 その日の昼食はうどんだった。学校から程近い、チェーン店ではないうどん店にふたりで入ったのだ。距離は近くとも、大半の生徒は讃岐うどんのチェーンに行ってしまうため、武蔵野うどんを扱うこの店にはまず高校生は来ない。片瀬怜奈という例外を除き。

「よく知ってるな、こんなところ」

「知ってるんじゃなくて、探したの」怜奈は、やや不満気に言った。

 眼鏡をかけていた。いつも、睨むような目つきばかりだった怜奈が、澄んだ瞳を真っ直ぐに向けていた。険のある顔立ちは相変わらずだが、人を遠ざけるような刺々しい雰囲気は、今の彼女とは無縁だった。前は、世の中の何もかもが不愉快で仕方ないという顔だった。今は、世の中の六割ほどを不愉快の枠に収めているように見える。

「そういえば、昼休みに外に出るのって、校則的にはOKなのか?」

「一応、駄目らしいよ。誰も守ってないけど」

「校門開いてるもんな、どうぞ出てけとばかりに」

「うちの学校、みんな真面目だからね。校門を開けといたらどんどん生徒がサボるとかじゃないもんね」

「どうしてみんな素直に授業を受けてるんだろうな。門は開いてるし、授業は面白くも何ともないのに」

「権力に飼い慣らされた犬だから」

「権力に飼い慣らされた犬って言いたいだけだろ」

「いい響きだと思わない?」

「思う」

「でしょ」

「五七五だしね」

「権力に、飼い慣らされた、犬だから」怜奈は指折り数えながら言った。「ホントだ。詠めるね」

「雅も何もあったもんじゃねえ」

「だね」

 行こっか、と怜奈が言うので席を立った。

 誰の目もない小路から監視カメラの多い大通りへ出て、学校の方へとふたり並んで歩く。同じように外で食事を済ませたらしき、同じ制服の高校生の姿があった。

「でもさ、あたしわかんないんだけど」数歩先を行く怜奈はぼんやりした顔で言った。「権力って、どう反逆するのかなあ」

「怜奈、将来は革命家?」

「絶対に飼い慣らされないぞって思ってるけど、大人になったら、忘れちゃうんだろうなあ」

「ちゃんと反抗しておけば忘れないよ。たぶん」

「夏って感じだね」

「青春?」

「真夏の風って、嘘と幻の味がすると思わない? 全部、秋になれば消えてしまうの」

「みんな、消えない幻が欲しいんだよ」

 すると怜奈は足を止め、その場でくるりと振り返った。「じゃあ、このままサボっちゃおっか。今から」

 艶やかな黒髪が舞って、日差しを受けて煌めく。まるで優等生でも気取っているかのような眼鏡をかけた彼女が、財布と携帯電話だけを持った半袖の腕を後ろ手に組んで、優等生とは程遠いことを口にする。少し屈んだ上体のせいで、夏服の胸元が覗く。鎖骨の影、挑発するような笑み、その全てに目を奪われる。一瞬だけ、彼女がこの世のものではないかのように見えた。

 街の喧騒が戻ってくる。

「駄目だよ。先生に怒られる」

 半眼で睨んで怜奈は応じる。「道哉さ、意外と体制側の人間だよね。教師とも仲良いし」

「有沢先生か?」

「そういえば……あたし、夏休みの前に、憂井のことをフォローしてやってくれって言われた」

「先生に?」

 そう、と言って怜奈はまた歩き出す。「佐竹とかと喧嘩した後。具体的に、励ませとか、叱れとか、色仕掛けで落とせとかは言われなかったんだけど」

「何で怜奈にそんなこと」

「中学が同じなことは知ってたみたい。……気にしてくれてるんだよ、あんたのこと」

「クラス違うのに」

 怜奈は黙っていた。

 促すのも躊躇われ、道哉もつられて黙った。黙々と商店街を抜けると、いつの間にか校門だった。時間を確認する。予鈴が鳴る五分前だった。

 怜奈はまた、ふいに立ち止まった。

「でも実際、フォローされたのはあたしの方だった気がするな」

「もう、いいだろ。あの時のことは。気に病むなって言ったの、怜奈だろ」

「特に解決する言葉をくれたり、認めたりしてくれなくても、一緒にいるだけで救われることってあるんだなって、初めて知った」

 怜奈は眼鏡を外した。

 妙に冷たくて刺々しい目線が再び彼女の目に宿った。この話はここまで、と言われているかのようだった。

 何を感じて、何を考えているのかわからない少女だった。隣にいても、遠くで見ていても、言葉を交わしてもネットワークを介してやり取りをしても、わからない。それが片瀬怜奈という人物の味だとも思っていたが、今はもっと知りたいという気持ちの方が強かった。

 それとも、目を閉じれば見えるのだろうか。怜奈の本当の気持ちも。

 すると、彼女が言った。

「ねえ、道哉。目を閉じて」

「目? どうして……」

「いいから、早く」

 周りは人気がなかった。大半の生徒はもう教室に戻っている。

 目を閉じた。若干の違和感を覚えた。そこにあるはずがないものが紛れ込んでいるかのような。それは人であり、心だった。思いであり、言葉だった。気配があった。敵意はなかった。

 唇が溶けた。思わず目を見開いた。背伸びをした怜奈にキスされていた。

 すぐに身体は離れた。怜奈の体温と甘く涼やかな香りに殴られたように、道哉は身動きできなかった。

「色仕掛け」と怜奈は言った。「じゃ、またね」


 駆け足で教室へ向かう彼女の背中が小さくなってから、道哉もまた同じ順路で教室へ向かった。

 頭の中が真っ白だった。

 感触が残っていた。暖かく生暖かく、離れた瞬間に冷たくなる、唇。何もかもが予想外で、何も考えられなかった。

 だから気付かなかった。

 廊下を歩いていると、誰かにぶつかった。同じクラスの生徒だった。よく見ると、生徒たちが壁のように、何かを取り巻いている。その間を割るように、教職員が慌てて方々から駆け寄る。

 騒然、という言葉が適当だった。

 その中心にあるものを確かめるべく、道哉は生徒らの人垣をかき分けて前へ進む。

「離れて、近づかないで!」と教職員が怒鳴っている。

 警察へ電話する坂田教諭の姿が視界の端に映る。

 人垣を抜けた。

 女だった。

 垢じみた薄手の服。汚れた靴。最後に櫛を入れたのがいつなのかわからない乱れた長髪。目鼻立ちがはっきりして浅黒い肌。日本人でないことはひと目でわかる。

 女は、何事かうわ言のように繰り返している。そして、きっと彼らの言葉では大事だろうことを叫ぶ。周りを囲む生徒たちひとりひとりの顔を、今にも泣き出しそうな顔で見つめながら。

 道哉は後ろから誰かに肩を叩かれ、腕を引かれた。

 人垣を出た。羽原紅子だった。中庭に滞空する警察のパトロールドローンが見えた。

「インドネシア難民だ」と紅子は小声で言った。「叫んでいた言葉を音声認識で翻訳した」

 遠くにパトカーのサイレン音が聞こえた。

「何と言ってた?」

「私の子供はどこ、と」

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