③
夏休みが終わり、二学期が始まった。登校してみると、新しい席順が教室に張り出されていた。佐竹の事件で複数の転校・退校者が出て、休み前の教室には空席が目立っていた。また、空席を見れば誰もが事件のことを思い出した。だからこその措置なのだろう。
幸か不幸か、松井とは席が離れた。
教室には相変わらず馴染めなかった。
彼らが話している内容はわかる。夏休み中の出来事。旅行の話。化学室の火事。自分が話せることと話せないことの区別もつく。彼らが親しい友達だったらこう話せばいいというシミュレーションもできる。
だが、どうやって彼らの会話の輪に入っていけばいいのかわからない。彼らだけが共有するパスワードがあって、それを知らないのは自分だけなのではないかという妄想に取り憑かれる。まわりの皆がログインできるけど、自分だけがログインできないクローズドな空間を外から見ている。
変わらない。中学の頃も、高校一年の頃も、今も。顔のない男として戦い始めてからも。
二日目からは実力試験と称したテストが始まった。実態は学外模試である。いつもは、教諭らが自作したらしき、オフィスソフトを使い慣れていない様子が見て取れる試験問題や解答用紙が配られる。だが今回は、予備校から提供される製本された問題用紙にマークシートだった。
漏斗の中を下るように、行先を定められていく感じが嫌だった。迷え、と口にした葛西翔平のことを思い出した。
葛西は、休み明けから学校へは姿を表さなかった。
形式上は謹慎。遠からず退職するともっぱらの噂だった。受験を控えた夏明けの時期に三年の担任が交代するために、臨時で開かれた保護者会はかなり紛糾したのだとか。
相変わらず、学校では羽原紅子と距離を保っていた。
あくまで他人同士。学外でどんなに関わろうと、学内では友人でも何でもない。活動が露見した際にどちらか一方だけでも追求を逃れるためと言われて始めたことは、二学期になっても継続中だった。
代わりに、蔵に潜れば紅子は絶好調だった。
実力試験明けのある日の午後。紅子は、テーブルの上に図面を広げて「見ろ!」と声を上げた。
「何だ、これ」
「聞いて驚け、新装備だ。学術研究のクラウドファンディングを行うサイトで見つけた。防衛省のプログラムに落選し、大学でも相手にされなかったそうだが、これはなかなか見所がある」
もはや完全に憂井邸の蔵を我が家のように扱っている紅子。学校から真っ直ぐ蔵へ向かってみても、一度帰宅し地下を自転車で移動しているはずの彼女のほうが早いのだからわからない。
外観は、大きなガントレットのようだ。だが装着イメージを見るに、道哉の腕二本分ほども太い。前腕すべてを覆ってしまうほどのサイズであり、外装が金属であることを思えば、相当な重量がある。装着したままではとても戦えそうにない。
「で、これは何?」
「イノヴェイティヴ・モバイル・デヴァイス・フォー・ステリック・アンビュレーション・アット・インナー・シティ」
「何だそれは」
「都市内での立体的移動のための革新的な携帯型装置」
「さっぱりわからん」
「略してiMoSAIC」
「略してもわからん!」
「頭が小文字なのは例のリンゴをリスペクトしているらしいぞ」
「iPS細胞」
「君の口からサイエンティフィックな単語が出るとは。明日は雹でも降りそうだな」
「うるさいな、この前の模試で問題に出ただろ、iPS細胞のiの由来」
「仕方ないな。じゃあ親切な私が特別にこの画期的な装置の機能を説明してやろう」
簡単に言うと、ワイヤーガンだ。
ワイヤーの先端に三方展開形のクローを装備。掴むか、突き刺して開くかが選択式になる。ガス圧で射出し、モーターで巻き取る。ワイヤーの射程は実に二十五メートルに及び、巻取りトルクは大人の人間を悠々と持ち上げられるほど。
つまり、これがあれば、ビルの谷間から屋上まで一気に躍り上がることができる。
空を飛べるのだ。
「おおおお……」話を聴き終えた道哉は思わず拳を握ってしまう。「これは確かに、すごいな」
「ま、こんなもの使ったら一発で脱臼する。君の体重だとおおよそ秒速二.五メートルだ」
「そうなのか?」
「ごく簡単なニュートン力学だよ……」紅子は苦笑いする。「そこは発想の転換だ。肩を固定するハーネスを着けようと思う。右肘を脇の下にぴったりつけた状態で固定して、一気に持ち上げる。おそらくこれなら何とかなる。脱臼の問題は」
「他にもあるのか?」
「ただ引き上げるだけなんだから建物の壁にガンガンぶつかるだろう。まっ平らな建物などそうあるわけでもなしに」
「躱せばいいんじゃないのか?」
「練習するか? どこで、ただでさえ目立つのに人目につかないように練習できるか?」
「確かに……」
「ま、使い方は考えてみるさ。この図面を引いた博士の学生は試作品も作っているらしい。ベンチャー企業を装って連絡してみたらふたつ返事で最新型の試作品を送ってくれるそうだ」
「送ってもらうって……向こうに俺たちのことが露見しないか?」
「そういう発想ができることは褒めてやる。ま、蛇の道は蛇さ」
「具体的に」
「よく聞いてくれた」
最近わかったことがある。羽原紅子は好きに喋らせておくと喜ぶのだ。
まず、架空の会社が実在しているかのような下準備だ。ウェブサイトでもでっち上げるのかと思いきや、それすら不要と紅子は断言する。
「二十年ほど前から中小企業挑戦支援法のおかげで超少額でも起業ができるようになったからな。その後『一円起業』は恒久法化した。ウェブサイトを作るほど安定していないベンチャーなど星の数ほどある。だがそれでも、事業所だけは構えているものだ。小さくとも一城の主。そこにつけ入る」
彼女は、グーグルマップで住宅街の一角を表示させた。そこには、『㈱BGオラクル』と表示されている。これが彼女がでっち上げた架空の会社だ。事業の実態も何もない。ただグーグルマップに表示されているだけ。
「ザル審査だからな。嘘でも申請すれば載る。だが、これで検索すれば引っかかる。地図に載っているならと、信用する。与信調査などする余裕もノウハウもない個人なら尚の事な」
そうして下準備を済ませると、おもむろに架空のベンチャー企業の経営者を装いターゲットへメールを送る。あなたの研究を拝見した、ぜひ事業化したい、私も今は小さな会社だが、あなたの技術と二人三脚で新しい価値を創造したい、等々。
一発で釣れたよ、と紅子は大笑いしながら言った。世間擦れしていない博士の大学院生、誠実な学問の徒だが心のどこかでは自分の研究が事業化されることや、そこからの一攫千金の夢を見ている。彼はメールを見て、聞き慣れない会社の名前を検索エンジンに打ち込んだだろう。そして表示されたマップの所在地を見る。よもや架空の企業だとは思うまい。
「でも物を送らせるんだろ? こっちの住所を明かせばそこから足が着くだろ」
「なあに、世間には君の浅知恵をまんまと出し抜く悪知恵がいくらでもあるのさ。送り先に空き家の住所を指定するんだよ」
「空き家でどうやって受け取るんだ。不法侵入?」
「玄関口で待機するのさ。最近の宅配業者は貨物追跡サービスが充実の一途を辿っていてな。有料会員なら荷物を担当する配達員のGPS位置情報をリアルタイムで確認できる。送り先の座標に近づいたら、いかにも今出てきた風を装って荷物を受け取る。これで完了だ」
元はといえば中国人窃盗団等が盗難クレジットカードで買ったものを受け取るために編み出した手段だ。そこに宅配サービスの過剰化が重なり、より隙のない悪の手段へと進化を遂げた。
「悪いことを考えるやつはいるもんだな」
「これも正義の方法のアウトソーシングさ」
「大学院生が泣くぞ」
「泣かせておけ」と紅子は鼻を鳴らす。「なあに、我々が使いこなせばiMoSAICの評価はうなぎ登りだ。彼にしても悪い話じゃないさ」
「使いこなすって……どういう時だ?」
「たとえば周囲を敵に囲まれた状況からの脱出」
「あまり想像したくないよ」
「我々は、君がそのような状況に陥らないように全力を尽くす」紅子は腕時計型のデジタル端末に目を落とした。「そろそろだな」
「今度は何が出るんだ……」
「実はiMoSAICの試作品を今日受け取る予定でな。葛西に行ってもらっていた」
「葛西、葛西ってさ。言うだけ無駄かもしれないけど、相手は学校の先生だぞ」
「淫行教師に払う敬意はない」
「言い方を何とかしろ」
その時、ストップウォッチで測ったかのようなタイミングで、地下からの入り口がノックされた。
鉄板を載せただけの扉が開き、姿を見せたのは、果たして葛西翔平だった。
「いや、すごいねこの電動バイク。音もなく走るもんだから驚くよ。モーターの音はするし動力伝達部は否応なしに鳴るけど」
葛西もまた二輪免許を所持している。彼が表から蔵へ立ち入ることを紅子は禁じており、受け渡し場所の近くにも地下迷宮への入り口はあるが自転車で移動するには距離があった。
紅子が、この計画を思いついた時に親の金で手配したのだという。
社外品のパーツ多数。幾つかのパーツは自作。彼女の趣味なのか、曲面主体の近未来的な外観でありながら、派手なサスペンションやブロックタイヤ、ランプのガードなど、どこかオフロードのエッセンスを感じさせた。
葛西は荷物を抱えて、パイプと廃材で組んだステップを登った。
「いや、これは重いね。小型とはいえモーターが入ってるから当たり前かもしれないけど」
「早速テストを始めるぞ」と紅子は張り切って言った。
梱包を解体すると、巨大な甲殻類の一部のような装置が現れる。先端にあるクローのせいで尚更エビかカニの腕に見えた。
右腕だけ、ブギーマン・スーツのプロテクターを装着し、装置――iMoSAICに腕を通してバンドをきつく縛る。本体はあくまで腕への装着しか想定されていないので、紅子は使っていないケーブルを持ち出して道哉の身体をぐるぐる巻きにした。
「これで多少の引っ張りでも大丈夫だろう。さあ、射出だ」
「どこへ」
「壁があるだろう!」
紅子は勢い込んで何もない白壁へ人差し指を向ける。
呆れた顔の葛西が口を挟む。「君たちはいつもこんなに行き当たりばったりなのかい」
「貴様の人生ほどではない、馬鹿にするな」
「それは言わないで、ただでさえ公務員は失業保険がないんだから……」
「そうなんですか、大変ですね」
「騙されるな憂井、代わりに退職金がどーんとある」紅子はボイスレコーダを手に取る。「iMoSAIC、初号テスト。晴天、最高気温は三十度。残暑の厳しい午後だ。進路クリア。テンカウントで射出、行くぞ!」
律儀に十数える紅子。座布団を頭に被る葛西。
ゼロが読まれた瞬間、道哉は右手人差し指のトリガーを引いた。
目で追えなかった。
ガスの噴射音とともに放たれた金属のワイヤーが、蔵の中を一直線に横断していた。そして先端のクローは、漆喰の壁に突き刺さっていた。
引っ張ってみる。妙な手応え。ごとん、とクローが床に落ちる。
道哉は呟いた。
「……抜けた」
紅子が落胆の声を上げる。
クローを刺して、モーターで巻き取ることで装備した人間を持ち上げることが目的の装置であるはずだ。にも関わらずクローが抜けるとなると、実用には難がある。装備を含めれば七十キログラムの道哉を持ち上げることができるとは思えない。
なりは大袈裟でもこんなものか、とぼやきつつ、ケーブルの拘束を逃れようと道哉は身動ぎ。
すると、葛西が壁にゆっくりと近づいた。
手をかざし、彼はおずおずと言った。
「これ、貫通してるよ……」
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