⑬
事件の全貌はまだ見えない。新井からの事情聴取が失敗に終わり、葛西が何をしているのかもまだ明らかにならない。紅子の方でも彼の周辺を監視しているが、決定的な証拠はまだ掴めないようだった。
だが、進展がまったくないわけではない。
場所は『拠点』候補の憂井邸の蔵。徹底的な掃除と電源、ネットワークの敷設を終え、買い込んできたファストフードで遅めの昼食を囲んでいるところだった。
「葛西が学校の実験室で何かせっせと合成しているのは間違いなさそうだな」
「何か掴んだのか?」
「いや、推測でしかないが……中庭の芝生に、葛西が何かの廃液を捨てている姿を生徒のひとりが目撃していた」
「ああ……もしかして、芝生が枯れたのって」
「そうだ。どうせ一応中和だけはしたものや減圧蒸留した有機溶媒廃液を捨てていたんだろう。授業で自然に使うより不自然に増えると、正規のルートで処理した際に怪しまれるから」
「じゃあ、確定か」
「どうだろうな。葛西の言葉通り、本当に学生時代の研究の続きをしているのかもしれない。専攻は有機合成だったようだし。私にはどうもわからん分野だ」
「電気工事みたいなことまでできるのに?」
「工事というより、そちらのプレファブから盗んできているようなものだからな。昔自宅の半地下に色々引き込んだ時の経験が生きたよ」
紅子がホームセンターや電気店で買い込んできたケーブルやタップの類がまだあちこちに積まれている。道哉には何がなんだかわからなかった。彼女の指示に従って身体を動かしていたら、いつの間にか蔵に照明が灯り、複数のPCが並び、ドローンがバッテリを充電されていた。
床には太いケーブルが繋がったスイッチボックスが放り出されている。それがこの部屋のメインだ、と言われても今ひとつ実感が湧かなかった。こういうものはふつう、家の目に見えるところにはない。落ちたブレーカーを復旧させるのでも恐る恐るなのだ。
「昔から悪ガキだったわけだ」
「まあね。というか君、化学と工学を一緒にするな。全く別だ」
「そうなのか? 同じ理系じゃないか、違うのか」
「フランス文学とゲーム理論くらい違う。阿呆か君は」
「わからん」
「まあ、構わんさ。しかし私はバイオとケミカル方面が弱くてな。そこを強化できれば、もう少し……」
「もう少し?」
「君が扱うのにいい武器を開発できるかもしれない」
手製のナパーム弾まで作れるのにその手の分野は不得意だと嘯く。もしかしたらこの羽原紅子という少女は本物の天才なのかもしれないと、道哉はふと思った。
そんな白衣姿の彼女の手元には、まだ製作中だというブラスナックルがある。
「握り込むと電撃が走るようにしようと思う。どうだ?」
「要るかな」
「君のスキルを疑っているわけではない。だが、多人数に囲まれたら? また君島のような別格の相手が現れたら? 相手が危険な武器を持っていたら?」
「わかってるよ。道場での立会とは違うってことくらい。でも、できるなら最小限にしたい」
「最後の最後に切れるカードは持っておくことだ。それともあれか、君の榑林真華流は背水の陣でこそ力を発揮するのか」
「使わずに済ませてやるさ」
「その意気だ」紅子はブラスナックルを至極大事そうにテーブルの上に置いた。「すまんな、話が逸れてしまった。葛西のことだが」
「何かわかったのか?」
「ああ。どうやら、金に困っているようだ。数年前に離婚して、元妻から多額の慰謝料と毎月の養育費を要求されている」
「あれでバツイチなのか……」
意外だった。葛西教諭のことを、結婚や子供を持つことのような、ステレオタイプな幸福に縁遠い種類の人間だと勝手に思い込んでいたのだ。
紅子が言うには原因は葛西の方の浮気。そう考えると、何だか腑に落ちるような気もする。
「言われてみると罪の意識もなく妻以外の女性に手を出しそうな雰囲気が、ある」
「どんな雰囲気だ……」
「不純異性交遊してるし、生徒と」
「昭和の風紀委員か君は……そもそも証拠もないだろう」げんなりした顔の紅子。「まあともかく、そんなわけでやつには動機があることが明らかになった」
「動機?」
「金に困り、自身のスキルを活かして手っ取り早く稼ぐため、薬物合成に手を出した。どうだ? 納得の行くシナリオだろう」
「やっぱり、カネとオンナだったじゃないか。俺の言う通りだったろ」
「私が思っているより世の中は愚かしく出来ているのかもしれないな」紅子は白衣の襟を正した。「さて、これからの調査指針だが、どうする」
「葛西の周辺から物証を得るか……いや、まずは状況を整理しよう」道哉は腕を組んだ。「その……三星会、だったか。連中に俺たちの学校から手を引かせた時点が、今回の俺らの勝利だ。そうだな?」
「敵が見えてきたからな。それでいいだろう」紅子は小柄な身体でテーブルの上に腰掛ける。
「新井の……暴走と考えるのが適切か?」
「それが聞き出せればよかったんだが。ともかく、学校を薬物の一大消費地にされることだけは避けねばならん。一度通したら駄目だ。検挙前提だろうが何だろうが駄目だ」紅子は片手でメガネの位置を直した。「やつらは一時金を稼げればいい。だが我々にとっては一生だ」
「薬物中毒? 依存症?」
「馬鹿、そうじゃない」紅子はテーブルを叩いた。「学校の名前に傷がつくんだよ。私たちが卒業して、たとえば働くとして、履歴書には高校の名前が書いてある。あれ、ニュースで聞き覚えがある学校だぞ、確か、生徒が集団で違法薬物を使用していた学校だ。じゃあ別の学校の出身者を面接には呼ぼう」
「……そっか。そういうのもあるんだな」
「たとえば結婚するとして。どちらのご出身なの、あらあの学校の、薬物事件で話題になったあの学校の、となる。親戚一同に薬物事件で話題になった学校の出身者として知られるし扱われるだろう。そもそも、そんなところの出身者を家に入れられん、出身者の家に嫁にはやれんという話になるかもしれないな」
「すまん。俺、正直そういうこと、想像してなかった」
「ま、そういうことだ。これは私たち全員の、一生を左右しかねない問題なんだよ。事が起こった時点で我々の負けだ。ただでさえ、佐竹の件があったんだからな」
「じゃあ、何か。警察沙汰になったら……」
「そのための私たちだ。……どうだ、少しはやる気が出てきたか?」
「全校生徒の将来のため、か」
そう言葉にしてみると、曖昧だったものが像を結んだように思えた。
警察沙汰になって、マスコミに嗅ぎつけられて、耳目を引いてしまったら負け。
逆に言えば、耳目を引きながら事件を解決するのなら、警察でいい。
闇から闇へ。影から影へ。
そういう戦いのために、マスクとフードを被ったのだ。
道哉は腕組みを崩さぬまま言った。「やっぱり、新井を倒すしかないんじゃないか」
「また多勢に無勢になるぞ?」
「じゃあどうしろって?」
「しばらくは力を蓄えろ。チャンスを待て」
「チャンス?」
「ああ」紅子は、この世に知らないことはないとばかりの笑みを浮かべる。「そう遠くはないぞ。私たちは新井を潰したい。だが新井の戦力と正面からぶつかりたくはない。つまり新井がひとり、もしくはごく少数の手勢だけを連れてどこかへ赴く瞬間を狙うのさ」
「……また家でも襲うか?」
「警備会社も入っていない安アパートにやつが住んでいるならいいがな。山川は条件が揃いすぎていたんだよ」
「じゃあいつ、どこで」
「山川が言っていたことを思い出せ。やつ曰く、新井は近いうちに葛西と接触する」
道哉は手を叩いた。「葛西の存在を新井は組織に隠す気でいる」
「そうだ。学校へ薬物を売り込む伝手としてなのか、製造者としてなのかはともかく、新井はおそらく単独あるいは腹心の部下だけを従えて葛西と接触する。彼らを監視し、そこを狙う」
「……なるほどな。一石二鳥だ」
「だろう?」
「だが……いつになるだろうな。俺たちの存在で、新井が頭に描いてた日程は狂っているだろう。それに、WIREのハッキングは通用しない」
「なら葛西の方を攻めるまでさ」
「どうやって? WIREを監視したって、同じことなんじゃ……」
「なあに、蛇の道は蛇だ。興味あるか?」
「まあ、そりゃあ……」
「じゃあ、チャンスが来たら連絡するよ」
紅子は満足気な様子で、跳ねるようにテーブルから降りた。白衣の中で、スカートの裾がやや危うかった。「ところで……この蔵は、実に面白いな」
「面白い? 妙なものはあったけど」
「妙なもの?」
「ガラクタだよ。お前が来る前に全部母屋に突っ込んじまった。そのうち見せるよ」
「ほう、それはそれで興味はある。だが、別の話だ」紅子は床のある箇所を拳で叩いた。「空洞がある」
「空洞? 床下に?」
「そうだ。君さえよければ、ちょっと破ってみようと思うんだが」
「好きにしろ。何が出てきても知らないぞ」
「そうかそうか。ありがとうありがとう」途端にだらしない笑みになると、紅子は一旦外へ出る。そして納屋から柄の長さが一メートルほどもあるハンマーを引きずってきた。
「おー、頑張れ頑張れ」
「手伝え! それでも男か君は」
わかった、わかったと応じてハンマーを受け取る。床の薄い部分を見極め、足場を確かめる。
行くぞ、と叫んで、ハンマーを振り下ろした。
一発で穴が空いた。数度で大きな穴が空く。そこからはハンマーを置いて、足で踏み抜く。
暗闇が顔を覗かせていた。
外よりも涼しい蔵。その中にいてなお冷たいと感じるほど低温の空気が満ちていた。
もろくなっていた板をさらに手で引き剥がす。
「下、かなり広いぞ。隠し部屋か何かか?」
「深いか?」
「それほどでも……怪我せずに飛び降りられるが、一度降りたら登れるか不安だな」
「広さは?」
「わからない。明かりをくれ」と告げて、指を舐めて暗闇にかざしてみる。冷気と、風を感じた。
紅子から懐中電灯を受け取る。照らしてみると、光が、影に呑まれていた。だが左右はすぐに壁だ。
「……通路か、これ」
紅子も横から頭を突っ込む。「通路? 地下通路の類か?」
「ああ。歩いて通れそうだぞ」
「どっち方面だ?」
「えっと、この方向は……環七の方だ。結構深そうだぞ。改めて調査したほうがいいんじゃないのか」
「電源ケーブルが足りないと困るな。買い足すか」
「電源?」
「誰もが君と同じように夜目が効くわけじゃないってこと、忘れてないか」
ばつが悪く黙った。忘れていた。
顔を上げると、紅子は机に向かってメモに何事か書きつけていた。
「凄いな。もしかすると、我々はとてつもないものを掘り出してしまったのかもしれない」
「とてつもないもの?」
悪巧みする悪の親玉のように笑うと、紅子は言った。「勝利の日は近いぞ、相棒」
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