夏休みの始まりとして、どう考えても最悪だった。

 脇腹は樹脂のハードプロテクターが砕け、破片の一部がアンダーウエアを破って肌に食い込んでいた。鋼鉄のブラスナックルつきの拳は、振り抜けない間合いからのショートフックであろうともこれだけの威力があるのだ。ただの打ち身だけで大事なく、一週間もすれば治りそうな傷なのは不幸中の幸いだった。

 道哉は身体の傷。一方の羽原紅子は、魂に傷を負った様子だった。

「屈辱だ、この私が先読みされるとは」

「仕方ないだろ、有沢先生に証拠を渡した時点で、このやり方が無限に続けられる可能性はなくなっちゃったんだ」

「そういう問題ではない!」

 紅子が言うには、プライドの問題。常に情報では有利に立ち、先手を取り続けることにこそ自分のアイデンティティがあると彼女は考えており、今度の一件ではそれが踏み躙られた。

 あの新井とかいうやつだけは死んでもブタ箱にぶち込んでやる、と息巻く紅子。そのための手段として、以前自慢気に語っていた監視カメラ侵入アプリの開発を急ぐとのことだった。

 そしてもうひとつ。

「武器を作ろう」

「武器?」

 また昭和の革命家じみた妙な手製爆弾でも作るのか、と思いきや、飛び出してきたのは考えようによってはもっと物騒なアイデアだった。

「こちらもブラスナックルを作るのさ。だがあの君島とかいうやつと同じただの鉄塊じゃないぞ」

「というと?」

「それは秘密だ。完成を楽しみに待っていてくれたまえ。ははは……」

 高笑いする紅子に「ははは……」と応じる。

 懲りないタイプで、あまり落ち込んでもいないようだった。

「ところで君、拠点の開拓と二輪免許はどうした」

「どちらも現在進行形だよ」

 言われるまで、半ば忘れかけていたというのが正直なところだった。

 補習も終わり、七月が終わった。夏も本番という日差しが降り注ぐ中、道哉の二輪免許教習もいよいよ終盤だった。一番苦戦したスラロームも難なく通過できるようになった。要はリズムだ。リズムに合わせて呼吸するように、スロットルを開く。エンジンと車体とが右手を介して全身と繋がっているような感覚。振動し続ける機械と自分のバイオリズムが一致したような瞬間が時折訪れる。これを無限に味わっていたいと思う。それには、教習所のコースは狭すぎた。

 次は卒業検定。お盆頃までに免許の交付を受けたいところだった。

 書店でバイク雑誌を買って榑林の家に戻ると、まだエアコンが壊れていた。一花に告げられた工事業者が入る日は翌日。もたもたしていると縁側から一花が姿を見せたが、簡単に言葉を交わしてすぐにその場を辞した。

 エアコンのせいがひとつ。もうひとつは、怪我のことを見咎められたくなかったのだ。

 道哉はそれから、痛む脇腹を気にしつつ憂井邸へ向かった。そして、羽原紅子に言いつけられた用を済ますためだった。

 バスと徒歩で移動した憂井邸は無人だった。珍しく門も、勝手口も閉じている。致し方なく鍵を使って入る。

 プレファブの小屋も無人だった。机の上に、倉持老人からの書き置きが残されていた。

「長野の妹夫婦のところへ、半月ほど留守に……」

 驚くことではなかった。倉持老人の習慣だ。毎年、お盆前後の二週間ほどは長野に帰ってしまう。倉持家と憂井家にどのような関係があるのか、ちゃんと聞いてみたことはない。ただ同郷で、数世代も前から家ぐるみの付き合いがあったと聞いている。

 壁の鍵箱から、道哉はいつもの母屋ではなく、蔵の鍵を取った。

 ところどころ腰の高さまで生い茂った草をかき分け、扉に巻かれたチェーンを探る。一端に錆びついた南京錠がある。鍵を差す。回らない。

 そのまましばし格闘していると、鍵が折れた。

 業を煮やした道哉は、倉持老人のプレファブ小屋から工具箱を持ち出す。軍手を着けて、一番巨大なレンチで南京錠をひねる。開かない。

 既に汗だくになっていた。こうなれば物理的に錆びたチェーンを破断してしまうことにする。

 建物裏手の物置に潜り込み、薪割りにでも使えそうな斧を引きずり出す。これでだめならスチールカッターの類を買ってこようと腹を決め、思い切り振り下ろす。

 三度叩きつけて、チェーンが切れた。

 父は、この蔵の中に入ろうとした時だけ、怒りを露わにした。五十を過ぎて授かった子に怒りをぶつける理由などそうあるまい。きっと余程のものがあるに違いないと、道哉は半ば確信していた。

 とはいえ、父は死んだ。

 息子である道哉は、もうすぐ十七歳だ。

 道哉は斧を放り出し、汗を拭った。

 ここを羽原紅子の言う『拠点』に使おう、という思いつきだった。倉持老人の小屋にはインターネット回線も引いてあるから、少々の工事でこの蔵の中にも敷設できるはずだ。敷地内に出入口をいくつか増やしてもいい。裏には人目につきにくい細い路地もある。

 致命的な問題があるというならそれでもいい。使えないのなら、使えないのだとわかるだけでもいい。要は、封印を解くきっかけがほ欲しかったのだ。

 切れたチェーンを解く。錆に蝕まれ強度が落ちていたのか、力の限り引っ張るとチェーンは崩れながら外れた。

 もう一度汗を拭い、深呼吸した。蝉の声が急に大きく聞こえた。

 扉に手をかけ、開く。扉のクリアランス部分は石敷きになっていて、草が絡むことはなかった。

 全身を冷たい風が包んだ。照明はなく、室内は薄暗い。扉の他にある光源は、頭上の天窓のような開口部だけだった。

 埃っぽい室内を進む。存外に片づけられていた。何かの、博物館か資料館のような雰囲気だった。大きなデスクの上に積み上げられた資料の類。新聞の切り抜きや手描きのメモだ。壁にはショーケースのようなもの。そこには、奇妙なものが飾られていた。

 大きな白い布と、仮面だ。

 ピエロか何かのような仮面。布の方はよく見ればマントのようだった。仮装が趣味だったのだろうか。鉤爪のついたロープのようなものまである。

「……今で言うコスプレか?」

 それはそれで古い言葉な気がして道哉はひとり首を捻る。

 さて、と意を決して道哉は一度外へ出た。そして掃除用具一式を抱えて埃よけのマスクを着けて戻る。脇腹に痛みはあったが、こういうことは決意が大事だ。一気に進めなければ気持ちが折れてしまう。

 すると携帯電話が鳴った。羽原紅子だった。

 誰が聞いているわけでもない。スピーカーモードにしてテーブルの上に携帯電話を置いた。「よお、何だ」

「何だとはご挨拶だな。新しい情報が得られたから報告してやろうというのに」

「情報?」

「君島だ。やつは元プロボクサーのようだな」

「お得意の顔認証か?」

「まあね。私のナパームをやつが突破して顔を見せてくれたおかげだ」

「転んでもただでは起きないってか」

「ん……少し声が遠いぞ。どうした」

「掃除中なんだ。『拠点』に向いていそうな場所を見つけた」

「ほほう! それは朗報だ!」

「それで、君島は」

「ああ……やつの現役時代のリングネームは『アポロ君島』。アポロ・クリードにあやかっているようだな」

「アポロ・クリード? 有名なボクサーか?」

「ああ、とても有名だ。ロッキー・バルボアくらい有名だ」

「それ聞いたことあるな。俺でも知ってるんだし相当だろ」

「相当なのは君だ。たまには変な書庫にこもっていないで映画館へ行きたまえ」

「どうして映画が?」

「浮世離れした男だな……まあいいさ。そのアポロ君島だがな、リング外で暴力沙汰を起こした際に警察の世話になったそうだ。悪いことに覚醒剤を所持していてな。だが不起訴処分になった。どうも噂では、警察と、ある新興の朝鮮系マフィアとの癒着があったとか」

「どうやって調べたんだ、そんなこと」

「物好きなルポライターが調べ上げて怪しげなニュースサイトで公開していたよ」

「それ、当てになるのか?」

「大して人気でもないボクサーの末路など誰も興味はないよ。興味がないから嘘をついてまで耳目を引く必要がない。私は限りなく事実に近いのではないかと考えている」それはともかくだ、と言って彼女は続ける。「やつの必殺はな、アッパーだ」

「はあ?」

「アッパーカットだよ。機械のように正確なジャブとワンツーの間で不意に放たれる地雷のようなアッパーで対戦者を次から次へとマットに沈めてきたそうだ。プロでの戦績は五戦五勝、すべてKOだ」

「すごいのか?」

「私にはわからん。Youtubeに試合の動画がたまたま上がっていた。後でURLを飛ばしておくから見ておけ。敵を研究することは大事だろう」

「見ておくよ。一応な」

「何だ、渋い返事だな。やはり堪えているのか。勝てなかったことが」

「それは別に。勝てない相手じゃないと思うから」

「なら何か、迷いでもあるのか?」

「迷い? 乗りかかった船なんだから、やれるところまではやる気だけど」

「なら、構わないのだが」

「それよりさ、新興のマフィアって」

「ああ。三星会と名乗っているグループだ。如何せんまだ謎が多い組織らしく、警察も実態をつかめていない。だが、ここ数ヶ月で新宿を中心に数件の銃撃・傷害事件を起こしている。日本のやくざと事を構えているんだ。相当だぞ」

 癒着しているくせに実態を掴めていないとは何なのか。確かに、そんなマフィアと戦う意味がどこにあるのか、という疑問がないわけではない。

 何かせずにはいられない。だが今していることが正しい確信はない。戦うことが必ずしもいい結果に繋がるわけではないのだ。

「おいどうした、憂井。急に黙るな」

「銃との戦い方を考えていたんだよ。……ん?」

「どうした」

 道哉は壁の一点に目を留めた。

 一番奥の壁に、妙な掛け軸のようなものが飾ってあるのだ。

 近づいてよく観察する。書だ。だが埃を被ってしまっていて、字だということしかわからない。

「めっちゃお宝だったらどうしよ」

「お宝? 何だ何だ、君は今どこにいるんだ」

「うるさい。俺は今、一世一代の決意を……」

 そう呟きつつひと思いに雑巾で拭いてみる。

 現れたのは四つの文字だった。勢いのある筆致。書いた人間の迷いのなさが伝わる。あるいは、この一筆に至るまでに悩み続けた時間の厚みが。

 『其亦道也』と書かれていた。

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