夜半――繁華街と住宅街の狭間にある雑居ビル。

 耳に着けたインカムから羽原紅子の声。「室内では私のバックアップは及ばない。危険を感じたらすぐに撤退しろ。いいな」

「了解」

「やつはこのビルから出ていない。やつがいるのはおそらく六階建ての四階。窓から姿が確認できないが。一階は不動産店で、件の四階は食肉加工業者の事務所ということになっている。比較的新しい建物で、管理システムも最新だ」

「何をしているんだ、こんな時間まで」

「さあな。仕事じゃないのか」

「確かめに行く」

 弾丸のようにスタートを切った道哉は、コンクリートの上を全力疾走する。

 標的のいる建物の隣のビルの屋上へ忍び込み、ビルのその他のフロアの人員があらかた退勤するまでじっと待機していたのだ。

 速度を殺すことなく屋上の縁から踏み切り。落ちたら死ぬ。その興奮が脳を沸騰させ、一瞬の間が永遠にも思える。夏の風が全身を刺す。目隠しした目に無数の光が映る。この街に生きるすべての人々の息遣いを感じる。

 そして同時に、得体の知れない暗闇に身を投じるような不安を覚える。

 内臓が締めつけられるよう。落下する。跳躍の加速度が重力に抗えなくなる、その危うい均衡が崩れかけた瞬間。

 道哉は背中から、標的の建物屋上へと転がり込んだ。

「憂井、大丈夫か。死体はないようだが」

「問題ない。侵入する……おっと」

「どうした?」

「鍵が開いている」

「不用心だが好都合じゃないか。ま、私の道具の活躍の機会は次にとっておくとしよう」

 頭上を漂っていたドローンが下がる。鍵破りの道具を積んでいたというが、正直なところあまり信用ならない。

 扉をそっと開き、中へ入る。

 中は無人。照明も消えており、非常灯の緑色だけがあたりを淡く照らしている。

 一段ずつ、階段を降りる。

 耳元から紅子の息遣いが聞こえる。通信は幸いなことに維持されている。

 ビルに入居しているテナントは全て営業終了している。

 本当に新井はいるのか。

 誰かがいるという確信はある。全身をざわつかせる、錆びついた敵意のようなもの。誰もいないはずのビルに、誰かがいることだけは確か。だが、それが行方を追っているあるひとりの男だという確信はない。

 目を閉じていても、見えない。

 それが、防具を着け、覆面とフードを被っり、誰にも奪われない、誰でもない存在になったはずの道哉を、不安にさせた。

 四階。非常口の扉をそっと開き、フロアへ入る。

 真っ暗だった。明かりがなかった。

 窓から差し込むだろう街の灯りもなかった。

 そして強烈な敵意を感じた。

 真正面から重戦車のように突撃してくる男――床に転がりながら回避。キャビネットに背中が当たる。立ち上がる。部屋の照明が全て灯る。

「ん……ブラインドが閉じているぞ。明かりが漏れた。中の様子はどうだ?」

 紅子の声に応じている余裕はない。タンクトップの巨漢が繰り出す矢のようなジャブから逃れる。

「本当にいたとはなあ」グレーのスーツに黒シャツの男が、回転椅子に深く腰掛けている。おそらくは新井。「純ちゃんの件でさあ、学校の教師にあいつらのWIREの中身が流出してたんだよな。誰もそんなもん学校に見せてねえのに。ってことはさ、これってブギーマンって野郎の仕業じゃねえかって、俺は思ったわけ。亡霊とやらが実在するなら、そいつはWIREをハッキングできるんだって」

 周囲を男たちが取り囲む。一様に険しい顔。だが、襲いかかっては来ない。その役割は、巨漢のボクサー男に譲られているようだった。

 罠か、と道哉は呟く。その言葉を聞いた紅子ががなり立てる。新井は薄ら笑いで続ける。

「だから一計案じたのさ。わざと俺が自らあの学校の生徒にシャブを売る。辛いことがあったみたいでさあ、すっきりできるクスリをやるよ、って教えてやった。で、取引の様子をわかりやすくWIREに書いてやって、わかりやすく俺はここで、他のテナントの連中が全員いなくなるまで待ってたってわけさ」

 『ボクサー』がにじり寄る。防御と周囲への警戒のため、低くした姿勢に両手を大きく広げた構えを取る道哉=ブギーマン。

 状況を報告しろ、と紅子の金切り声。

「それにしても……幽霊の、正体見たり、枯れ尾花、だな。馬鹿な男だ。ガキを懲らしめるだけなら放っておくが、三星会の人間にお前は手を出しちまった」新井は椅子から立ち上がった。「やれ、君島。顔がない男だ、殴り放題だぞ」

 君島、と呼ばれた筋骨隆々たる男は、右の拳に錆びた鉄のブラスナックルを装着する。

 いや、錆ではない。

 君島が粛清してきた人々の、血に汚れていた。

 君島が言った。

「お前の顔を変えてやる」

 稲妻のように拳が疾った。

 紙一重で躱す。拳がフードを掠める。直後に君島から距離を取った。

 すぐ横に新井の配下らしき男ら。ふたりまとめて床に転がす。敵は君島と新井を除いて七人。フロアを回るように後退に継ぐ後退。だがまるで間にある空間が消滅したかのように気づけば肉薄されている。巨体に似合わぬ軽やかなフットワーク。左の連打が魔法のように繰り出される。

 そして右のストレート。

 プレッシャーが塊となって耳のすぐ横を突き抜ける。

 組手に持ち込む隙がない。佐竹の中段蹴りも早かったが、この君島という男の拳に比べれば、ハエが止まる。

 加えて、鋼鉄のブラスナックルだ。

 弾丸のようなパンチは素手ですらまともに受けたら立っていられないだろう。にも関わらず、拳を凶器に変えるものを君島は装着している。

 ならば足を狙おうにも足さばきは信じられないほど軽い。まるで風に吹かれた羽のようだ。不規則で、遅いときは遅いのに目にも留まらぬ速度で動く。

 ジャブを躱せなくなる。腕のガードを固めて防ぐ。スーツのプロテクターに救われている。

 紅子の声がする。「持ち堪えろ! ……あと五秒!」

 道哉の舌打ち。突進してくる君島。大袈裟な動作だがカウンターを許すような隙は一切ない。

 なら、作ればいい。

 五秒後に何が起こるかはともかく、何かしなければ、やられる。

 オフィスのキャスター付き椅子を蹴る。ほんの一瞬だが君島の動きが乱れる。書類束を掴んで投げる。視界を一瞬だけ塞ぐ。

 目線の行先を感じる。目の前の男が世界をどう認識しているかを、道哉の塞いだ目が知覚する。

 その瞬間、室内の照明が一斉にダウンした。

「今だ!」

 姿勢を低くして間合いを詰める。拳のテリトリーを潜って内側へ入り込むような。左の縦拳、右の掌底、さらに一歩踏み込んで身体を一回転させながらの右の裏拳。全て防がれ決定打にはならない。

 背後を取ろうとするが君島の動きは早い。ストレートを打つには近すぎる間合い。

 道哉の右の手刀が君島の喉を打つ。

 全く同時に、君島の右腕が繰り出すショートフックが、道哉の左脇腹にめり込んだ。

 プロテクターの上だったのが幸いした。少なくとも意識はある。反撃ができる。肺の中の空気を吐き尽くしている君島よりも動ける。

 道哉の足が君島の膝に絡まる。息を吐きながら、渾身の足払いで倒す。

 一撃加えて戦闘不能にしようと拳を振り被るも、横から刃物を構えて突っ込んでくる別の手下に阻まれる。刃渡り十五センチほどのナイフを持った手首を掴み、捻り上げながら体勢を乱して鳩尾の急所に拳を入れて沈める。

 脇腹がずきずきと痛んだ。限界だった。

 キャビネットを飛び越えて手下のひとりの顔面を殴って倒し、扉に取り付く。

「逃がすな! 追え!」と新井の怒鳴り声。君島も早速起き上がる。

 非常階段へ出る。階下には新井の配下らしい人影。脇腹を抑えて、階段を登る。

 最上階からさらに登って屋上へ。扉を開くと、インカムから声が聞こえた。

「扉は閉じるな!」

 道哉とすれ違うように飛来するドローンが扉の中に何かを投げ込んで離脱。直後、たった今駆け上がった階段の方から弾けるような音に続いて小さな炎が散った。

 だが、意にも介さず屋上へ姿を見せる君島。

「ナパームだぞ!? 何なんだあの筋肉野郎!」

 紅子の叫びに返事をしてやる余裕はない。肉薄する君島から逃れて全力疾走。ビルの縁に加速を緩めずに突っ込み、踏み切る。

 浮遊。何もかもから自由になったような感覚。

 僅かに足りない。

 必死で手を伸ばす。浮遊の快楽が落下の恐怖に変わる。近づく隣のビルの屋上。同じように近づく二〇メートル下のアスファルト。

「憂井!」

 全身を衝撃が襲った。

 しがみついていた。縁に胸をぶつけながらも、落下は免れた。そのまま、力を振り絞って這い上がる。

「騒ぐな……こっちは無事だ」

「よかった……早く降りろ。私謹製のナパーム弾を一階にも投下したから時間は稼げると思うが、やつらが来るぞ」

「そんなものどうやって……」

「発泡スチロールをレギュラーガソリンで溶かした。弾けさせる機構は必要だったが、存外に上手くいった。あ、停電の方はアメリカ国家安全保障局がイスラエル軍と共同開発してイランの核処理施設の攻撃に使われたマルウェアを改造したものをぶち込んでやった。スマートビルディングだ何だと抜かすから悪意ある攻撃への脆弱性が増すんだよ、ざまあみろだ」

 痛む身体を抱えて走り出す道哉。「つまり、それは、ハッキングだな」

「君の大雑把さが大好きだよ。――撤退だ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る