怪しげな勝利宣言から数日。

 夕刻、埃まみれ泥まみれで帰宅した道哉を出迎えたのは、榑林一花の悲鳴だった。

「わーっ! 何ですかその格好! お風呂、お風呂入って!」

「ちょっと憂井の家の大掃除を……」

「ここのところずっとじゃないですか! 朝稽古もサボって!」

「ずっとって、まだ三日目……」

「ずっとはずっとです、言い訳しない」

 問答無用だった。

 取るものも取りあえず母屋の風呂場に押し込まれ、シャワーを浴びていると一花の気配がした。

「お着替え、置いときますね」

「ありがとう」と応じながらも冷や汗をかく。

 脇腹の怪我を見られたくなかった。アポロ君島に殴られた痕は治癒しつつあったが、まだ肌の他の部分とは一見してわかるほど色が違う。押したり、身体を大きく動かしたりすると痛みもある。

 一花がガラス越しに言った。

「エアコン、調子どうですか?」

「うん、直ってた直ってた。天国だね」

「こまめに消してくださいね」

「はーい」

「お風呂のお湯も出しっぱなしにしない」

「はい……」

 道哉はおとなしく蛇口を絞った。

 生前、榑林家の出身である母親にも似たようなことをよく言われた。他人の行動を管理したがるのが血筋なのだろうか。それとも世話焼きな女性の一般形なのか。

 お湯を止めればすぐ立ち去るだろうと思っていたが、一花の影はまだその場にある。白地に藍染めの浴衣で、彼女は風呂場の曇りガラスに背を預けた。

「あの、道哉さん」と一花は切り出す。「気になりませんか」

「何が?」

「日曜日のことですよ」

「……ああ!」道哉は下ろしかけていた目線を上げた。「気になる! どうだった!?」

「どうもしませんでした」

「ん? いっしょに映画観に行ったんでしょ?」

「行きましたけど、行っただけでしたから」

「楽しかった?」

「ん……普通です」

「次誘われたら行く?」

「次も同じような感じだったら、三度目はないです」

「あいつによく言っとくよ」道哉はシャワーを捻る。

 しばし間があってから一花は言った。

「本当に、行っただけですから!」

 一花のシルエットが遠ざかった。

 首を傾げながらも、それから何事もなく風呂を上がる。

 食事を済ませ、一花や一真とやりあい、離れに戻り、エアコンをつけてベッドに倒れた頃には夜の十時を回っていた。

 全身に疲労がまとわりついていた。憂井邸の蔵に地下通路を発見してからというもの、調査と開拓に日々忙殺されていたのだ。

 調査、と意気込んで紅子がまず持ち込んだのは、長大な電源ケーブルと、両手に乗るくらいのラジコンカーのようなものだった。

「こいつはごく単純なアルゴリズムで制御されている。機首につけたレーザー測距センサが反応するまで高速で走る。センサが反応したら、低速になる。低速になった状態で、本体両舷に設置された接触センサから信号が上がると、回避するようその場で十五度旋回する。左舷側が触れたら右に十五度、右舷側なら左に十五度だ。これで、この車は地下道をバッテリが尽きるまで走り続ける。上部にはカメラと指向性アンテナを取りつけた。これでおおよそ五キロメートルは受けられる。正面から壁にぶつかったら動けなくなるから拾いに行こう」

 今は、このくらいの制御なら小学生でも組めてしまうような開発支援ソフトウェアが配布されているらしい。道哉には想像もつかない世界だった。

 それで走らせた結果、途中で引き返させた方がいいほどの距離があることがわかった。そこで次にしたのは、測量だった。道は分岐もある。地上の地図と突き合わせ、この地下迷宮の正体を解き明かそうとしたのだ。

 しかし、その試みは一日で挫折、あるいは優先度が下がってしまう。

 出口が見つかったのだ。

 地下通路の壁に朽ちかけた梯子があり、そこを上がると、何とマンホール。開けば外の光が差し込んだ。

 紅子の興奮たるや凄まじいものがあった。

「おい憂井! 東京の地下迷宮だぞ地下迷宮! 下水に繋がらないマンホールだぞ!? 都市伝説の産物だと思っていたぞこんなもの! もっとだ、もっと調査しよう。人目につきにくい場所に出入口を確保するんだよ。そうすれば、秘密基地に繋がる秘密通路! 撤退の問題が解決する! おそらくは東京オリンピックの遺産だ。環状線と首都高速の整備、戦後を終わらせる急ピッチな開発の隙間に産み落とされた時代の遺構……こ、こ、こここ、興奮してきたぞ私は!」

 そしてこう続いた。

「こんなものを隠していたとは、君の父親は一体何者なんだ?」

 わからない、としか応じられなかった。

 父は蔵に入ろうとすると怒りを露わにした。父は、この地下道の存在を知っていたのだろうか。知っていて、隠していたのだろうか。

 訊いてみたい。だが父はもうこの世にいない。問いかける写真も、榑林家の離れにはなかった。

 気になることは他にもある。あの、読み方もわからない四文字が書かれた掛け軸だ。

 目が冴えてきて、道哉はベッドから身を起こした。

 訊ける相手は限られている。携帯電話に登録した数少ない連絡先のひとつに、道哉は電話をかけた。

 遅い時間にも関わらず数コールで繋がった。

「あの……もしもし、伯父さん?」

「道哉くん。珍しいね」

 電話相手は、一真と一花の父、道哉からは伯父にあたる、榑林一夫だった。

「すみません、こんな時間に」

「いやいや、ちょうどこちらも気になっていて。その……一真は、私の手紙を読んでくれただろうか」

「ええ。それで連絡したんです。お盆の時期に、そちらにお邪魔してもいいかなと思って」

「道哉くんが?」

 もしかしたら一真がすでに連絡しているかもしれない、という淡い希望は潰えた。

「ええ。一真さん、行きたくないって。それで俺に」

「そうか」

「すみません。伯父さんが見たいのは、俺じゃなくて一真さんの顔ですよね」

「まさか。道哉くんも、私の息子のひとりだよ」思わぬ言葉に返す言葉をなくしていると、彼はばつが悪そうに続けた。「ごめんごめん。そのくらいに思ってるよって話だ。待ってるから。また近づいたら連絡してくれるかな」

「ええ。そちらに行くのは久しぶりだから、俺も楽しみです」

「……道哉くん。差し支えなければ教えてほしいんだけど」一夫はやはりきまり悪そうだった。「君を送り込むのは、一真なりの譲歩、って受け取ってもいいのかな」

 多分そうですよ、と応じて道哉は続ける。「父親は、やっぱり父親なんじゃないですか。一真さんでも」

「そうだといいんだけどね。血の繋がりは、時に何よりも深い憎しみを生むから」

「俺には、よくわかりません」

「わからない方がいいのさ」

 そのまましばし、気まずい沈黙が流れる。

 破ったのは道哉の方だった。

「あの、伯父さん。憂井の家の蔵のこと、何か知らない?」

「蔵? ああ、あの書庫の明かり取りから見えるあの。どうしたの唐突に」

「入ったことあります?」

「ないよ。藤辰さんも、あまり触れられたくない様子だったからなあ。実はものすごい隠し財産でもあるんじゃないかって、噂にはなってたんだけど」

「財産?」

「いやいや、結局税務署が入ることもなかったし、藤辰さんはそのへん抜かりなかったから」

「税務署……?」

 それからしばらく世間で実際にあった驚愕の脱税事件について語られた。

 そして流れで、バイクのことに話が転がった。

「車種は決まったの?」

「いえ、まだ……」

「じゃあニンジャにしよう。最近のやつはだめだぞ。二眼なんてしゃらくさいからね。免許は?」

「普通二輪です」

「じゃあEX-4だ! 通称ハーフニンジャ!」

「あの……伯父さんは、ちなみに何に」

「よく聞いてくれた、GPZ900RのA2だ! フライトジャケットで乗るのさ!」

「どうしてフライトジャケット?」

「これだから最近の若いのは駄目だ。250SLでも乗ってるがいいさ」

 しばし単気筒は駄目だという話を一方的にまくし立てられ、目を回しながら電話は切れた。

 時間は二十四時に近かった。テレビは高校野球の特集を放送している。

 結局、蔵の謎は解けなかった上に、掛け軸のことは訊きそびれてしまった。昼間の疲れがどっと蘇り、そのまま眠りに落ちそうになったとき、また携帯電話が鳴った。寝ぼけ眼で画面を確認し、飛び起きた。

 羽原紅子からのメッセージだった。

「明日、葛西の追跡を開始する……」そして我に返った。「いや、これ……迷惑防止条例!」

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