⑦
終業式の翌日から補習が始まった。道哉が受講を強いられたのは、数学と英語。お前は何もかもダメだと言われているかのような二科目で、初日から憂鬱だった。
受講者は学年で十人ほど。ヤンキー漫画に出てきそうな生徒や、二十年前から飛び出してきたような絵に描いたようなおたく、携帯電話よりもストラップの方が大きい日焼けした女子などがいて驚いた。こんな生徒が我が校にもいたのだ。
そしてもう一人、松井がいた。
どんな顔でも、知った顔があると心強いものだ。道哉は、松井の隣の席で授業を受けた。
「悪かったよ」と松井は言った。初日の補習が終わった午後のことだった。「あいつがいなくなってみたら、何であんなことしてたのかわかんねえ」
そう謝られてしまっては、「気にするなよ」としか応じられなかった。
松井を疎外しようとしたクラスにも、彼らに迎合してしまった自分にも、そして野崎を死に追いやった元凶のひとりである松井にも怒りを感じた。彼にどんな態度で接するべきか、道哉はまだ決めかねていたのだ。
そしてその翌日、道哉は羽原紅子に呼び出された。場所は駅前のカラオケボックスだった。
「少し相談したいことがあってな」適当なワンピースで、肩ほどのくせ毛を適当にひとつにまとめた彼女は、いつになく深刻そうな顔で切り出した。「これを見てくれないか」
WIREの画面だった。見覚えがないアカウントだ。一見すると支離滅裂な文章が並んでいる。
「これが、どうかしたのか?」
「これな、どうやら覚醒剤の売買の打ち合わせ連絡らしいんだよ」
一見、支離滅裂なように見える文章。だが、いずれの文章にも必ず、四つの数字が盛り込まれている。それぞれが日時、場所、量、単価を示しているのだという。
電話番号があればWIREはキャリアに関係なくテキストメッセージを送信できる。一定期間で売人の携帯電話は更新されるらしく、昔の取引履歴は残らない。万が一客または売人が検挙されたとしても、携帯電話の契約は困窮者から購入した身分証等で行っている。支払いも同様に、他人に作らせて購入した口座経由だ。足がつくことはない。
「じゃあこれは、売人の携帯電話をハッキングしたってことか?」
「何だ、その……まあそうだ。ハッキングだ。佐竹の関連人物を芋づる式に当たっていたんだよ」
「誰なんだ?」
「知らんでもない相手だ。山川圭太を覚えているか?」
「ああ、この前の。スニーカー男」
「こいつは、その山川圭太の兄だ。名前は山川浩太郎」
「スニーカー男の兄が、覚醒剤の売人?」
紅子は頷くと、「で、問題はそこから先でな……」と続ける。
この山川浩太郎という男は、数日前から音信不通。行動を追いかけてみると、現在狛江市内の大型病院に入院している。親族や友人とのWIREでのやり取りを見るに、どうやら何者かに殴られ顔面にボルトを三本入れる大怪我をしたらしい。
そしてさらに行動を遡ると、彼は最近、ある人物と頻繁に面会していたことがわかった。その人物は事情を知らないらしく、今も山川へ一方通行の連絡を繰り返している。
「これが、うちの学校の教師なんだ。名前は葛西翔平。三年の担任で、担当は化学」
「葛西先生……?」
「知っているのか?」
「知ってるってほどでもないけど」
黒縁眼鏡の、優男の中にあった優しさがくたびれたような男だ。図書室で、野々宮ゆかりの勉強を見ている姿を思い出した。あんな個別指導のようなことをして、贔屓をしていると曲解されやしないだろうか。要領がいい方には見えない彼のことが心配になった。
しかしその葛西教諭が、覚醒剤の売人に繰り返し連絡をしている。
「あの先生が薬物を……?」
「普通に考えてそうだろうな。薬物中毒者が一瞬の快楽を忘れられずに売人に縋っている。だが当の売人は入院中」
「面倒見のよさそうな先生だったけどな」
「人は見かけによらないものさ。君のようにな」いつもの皮肉屋な笑みになる紅子。「だが話はそう単純ではないかもしれない」
「どういうことだ?」
「なぜ、山川浩太郎は制裁された? 制裁されるようなことをしたということだ。それは何だ? 下手人は一体誰だ?」
「密売組織の利益を害したとか? たとえば……売り物を自分で使い込んだとか」
「手がかりは山川の人間関係だ」彼女はノートPCに資料を広げた。「やつの携帯にWIRE経由でスパイウェアを潜りこませ、ここ最近の行動をGPSログから辿った。すると、我々のよく知る人物とも定期的に面会していたことがわかった。佐竹純次さ」
「どうして佐竹が出てくるんだ」
「最近の報道は見ているか。彼は警察の取り調べに、『学校で覚醒剤を売ろうと思っていた』と証言している。彼が密売組織の末端にもなれていない見習いであることは明らかだ。そして佐竹が親しくやり取りし、山川が敬語を使っていた男がひとり浮かんだんだ。新井という男だ。彼は、佐竹や山川の指導者的立場にあったと考えられる」
「ちょっと待て。佐竹は、末端。佐竹は、学校に覚醒剤を売り込もうとしていた。そして、佐竹の上位に当たる人間が、佐竹を指導した?」
「その通りだ」
「つまり」道哉は唾を飲んだ。「まだ、学校へ覚醒剤を持ち込もうとしている連中がいる?」
「その通りだ」と紅子は繰り返す。「だが私の調査には限界がある。事態の全貌を暴くには情報があまりにも足りないんだ。『新井』もWIREは特定したから、時間をかければ正体を探れると思うが……」
「もっと手っ取り早い方法がある、と?」
「そうだ。山川本人に問い詰めるのさ。幸い退院はそう遠くなさそうだからな」
「そういうものか?」
「明日か明後日には退院だろう。一年通院して元の顔に戻るか怪しいがな」
心底楽しそうに笑う紅子。彼女のこういうところが少し苦手だった。
しかし気が進まない。相手は怪我人だ。その上、松井を見てしまった。
失敗だったのかもしれない。代わりに松井のような存在が生まれるのなら、島田を助けたことは意味がなかったのかもしれない。野崎の仇を討つことには意味があったと思いたいが、マスクとフードの黒ずくめに、佐竹や松井は奪われた。そして、奪われる側に転落した。
血筋や民族、親のことを書き立てられる佐竹。クラス全員に疎外される松井。
彼らは、ありとあらゆるこの世の名無し《ブギーマン》たちに責め立てられている。
「そこで相談なんだが……」と紅子は切り出す。「君は、続ける気はあるか?」
「何のことだ」
「いや、君の私闘は終わっただろう。野崎悠介の復讐は済み、彼の魂は開放された。私は、正義の味方というやつがこの世には絶対必要だと確信しているが、君は手を貸してくれるか? たとえば、覚醒剤の魔の手から学校を守ることに」
紅子の言うことは、少しずれていた。この妖怪のような少女と、本当にわかりあえる日は来るのだろうか。
「お前は……どうしてこんなことを?」
「今更そんなことを訊くか」
「やっと気にする余裕ができたんだ」
「別に……かつて似たようなことをしていた人がいた。私はその理想を継ぎたいと思っただけだよ」
似たようなこととは、覆面を被って夜な夜な犯罪者を叩きのめすことだろうか。
腕組みした紅子から、それ以上何か聞けそうになかった。
しばし考えてから道哉は言った。
「やるよ。俺がやらなきゃいけないから」
「その意気だ」
乗りかかった船だ。それに、世界中が馬鹿だから何をしても無駄だと考えるのはやめた。
だが、不安があるのは確かだった。もはや相手は高校生ではない。刃物どころか銃器だって持っているかもしれない。そもそも、そんな大きな犯罪なら警察に任せておけばいいのではないか、と頭の隅では考えてしまうのだ。
翌日の補習でも松井に会った。
彼は至って明るかった。まるで、入学当初からの友人であるかのように振る舞われ、道哉は正直、やや不愉快だった。
周りと同じ、集団的正義感に呑まれているつもりはない。野崎悠介という、個人的な事情がある。だがそれは周りや、松井からは、区別できない。
怒りを蓄えろ、と紅子は言った。
その後はどうすればいいのか、彼女は言わなかった。
帰り際、松井は「この後どうする?」と訊いてきた。遊びに行こうと誘っていることは火を見るより明らかだった。彼はそういう人なのだと、教室での人となりをずっと見ていた道哉は重々承知していた。ひとりでいると、何をすればいいのかわからない。いつでも誰かといっしょに賑やかに過ごしていて、そうする以外の時間のやり過ごし方を知らない。
「悪い、従妹と約束があって」と道哉は応じた。約束などなかった。
だが、道哉には別の用事があった。
道哉はひとり図書室へ向かった。きっとそこにいるだろう野々宮ゆかりのことが気にかかった。彼女は知っているのだろうか。親しい教師である葛西が、覚醒剤に手を染めていることを。
果たして野々宮は、定位置のような長テーブルの一角で受験参考書を広げていた。同じ髪型。同じ眼鏡。参考書だけは先日目にしたものと違った。
近づいていくと、彼女は顔を上げた。
「こんにちは、先輩」
「憂井くん?」
断ってから斜向かいに座った。入り口を背にする席だった。「お邪魔でしたか」
「いいえ。でも、普通の二年生は必死で勉強してる受験生に気安く話しかけたりしないよ」
「黙ります」
「いいの。気分転換になるから、気にしないで。どうせここ、誰もいないし」応じながらも、彼女は参考書のページをめくる。
夏休みに入ったばかりの学校。図書室を開放していても、利用者はほとんどいないようだった。
補習のテキストを持ち出し、今回の課題と、明日の予習をこなしておくことにする。ペンやノートを道哉が取り出す間も、野々宮は集中力を切らすことなく参考書へ向かっていた。筆圧の強い字がノートにびっしりと並んでいる。
彼女を見習い、道哉もまずは勉学に勤しむことにした。三〇分ほどで、補習の課題を片付けて、道哉は切り出した。
「今日は葛西先生、来ないんですか?」
「どうしてそんなこと訊くの?」
いきなり核心を突いてきた。三年の先輩だからといって、たかが一年早く生まれただけだと道哉は自分に言い聞かせる。「いえ、この間はいらしたので。それだけです」
「学校には来てるんじゃないかな」
「休みなのに? 部活の顧問とかですか」
「実験があるみたいだよ」と言ってから、思い出したように野々宮は付け加える。「危ないから化学室に立ち入るなって言ってた」
高校の化学教師が、学校の設備を使ってそんなに熱心に実験などするものだろうか。実験室といっても、あくまで高校レベル。大学や研究機関のものとは比べようもないだろう。
何かしているのかもしれない。実験というのは、口実だとも考えられる。危ないから、と自分を慕う野々宮ゆかりを遠ざけて、彼はひとりで、人目を憚る行為に及んでいるのかもしれない。紅子から聞いた、『葛西翔平が薬物に手を染めている可能性』と結びつけて考えるのは早計だろうか。
野々宮のペンが止まっていた。
そして道哉は、背中に立つ気配に気づいた。
かなり距離がある。室内ではなく、室外。図書室の、ガラス張りの扉の向こう側に、誰かがいる。こちらへ目線を送っている。
振り向かず、半目で斜向かいの野々宮ゆかりを伺う。彼女のペン先はノートを忙しなく打ち、字が並んだ紙面の一角に点々を刻んでいた。目線は、道哉が感じた気配の方へ向けられていた。
道哉は、目を閉じた。
そして知った。
扉の前にいるのは、葛西だ。葛西翔平と野々宮ゆかりは、憂井道哉に気取られぬよう目配せを送り合っている。
数秒して、葛西が立ち去る。道哉はそれに、気づかなかったふりをする。再び、野々宮のペンがノートに筆圧の高い字を並べ始める。
野々宮ゆかりは、葛西を追い払った。これが意味することはひとつ。
ふたりは、秘密を抱えている。
想像していたよりも、葛西翔平と野々宮ゆかりは親密な関係にある。隠すほどの親密さだ。
それは、もしかしたら――。
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