⑥
両親を亡くしてから、家は帰る場所ではなく、逃げこむ場所になった。榑林の家に温もりを求めるのと同じように、誰もいない憂井邸の影に、孤独を求めた。
だから、誰かを招くような場所ではなかった。
塀と生け垣に囲まれた敷地内に入ると、蝉の声が出迎えた。庭は通行に不自由ない程度に草が刈られている。倉持老人のおかげだ。だが往時に比べれば見る影もない。この家には常に人の出入りがあり、踏み固められる庭は雑草が生える余地がなかった。
片隅のプレファブ小屋の戸を叩くと、倉持老人が姿を見せた。
「おや、ぼっちゃん。そちらの綺麗なお嬢さんは、お友達ですか?」
「うん。片瀬怜奈」
怜奈はお腹のあたりで手を合わせて頭を下げた。客室乗務員か百貨店のコンシェルジュのようだった。「片瀬と申します。道哉さんにはよくしていただいてます」
「綺麗なお嬢さんのところは否定しないんだな」
「だって綺麗なお嬢さんだし、あたし」
「確かに」
「よろしい」
倉持老人が呵々と笑った。「結構、結構。謙遜など、一文の得にもなりませんゆえ」
「書庫、ちょっと使っていい?」
「ぼっちゃんのお家なんです、断りなど要りませんよ。何に使ってもね。ふふふ……」
妙に弾んだ様子の老人に道哉は問う。「ろくじい、何かいいことあった?」
「いいことですとも。憂井の忘れ形見が、こんなに美しいお嬢さんを家に連れてきたんですから。これで思い残すことなく墓に入れます……」
「ちょっと待った、ろくじい、その」
「それではこの老人は退散しますので、後は若いお二人でごゆっくり。あ、ぼっちゃん、鍵はいつもの場所です。何なら蔵の方もどうぞ」
「あんな湿っぽいところ、好き好んで入らないよ」
「存外に風通しがよくて快適と旦那様は仰ってましたよ。ほほほ……」
それだけ言い残すと倉持老人は本当にセカンドバッグを拾って外出してしまう。飄々とした、まだまだ死にそうにない背中を見送ると、道哉は小屋の壁から鍵を取った。
膝丈まで草が茂った蔵の方を横目に見つつ、母屋の扉を開ける。ひんやりした空気が肌を撫でた。
「……どうぞ」
「……お邪魔します」
頭上に弾丸でも通過しているかのように首を竦める怜奈。どちらからともなく言葉少なになった。
思い出を残しすぎている家に、他人を上げている。彼女の目線が家の方々へ向くたびに、聞かれてもいないのに言い訳をしたくなる。とにかく気恥ずかしくて仕方なかった。
一歩歩くたびに板張りの床が鳴る。倉持老人が定期的に掃除してくれているので、人はいないが埃は積もっていない。
「素敵なお家ね」と怜奈が口を開いた。
「そうか? 古いだけだよ」
「そんなことないわよ。建築デザインの本に載ってるのを見たことあるわ」
「よくそんなもん読むな……」
「お茶のCMのロケ地にもなってたでしょ。Youtubeで見たよ」
「どこが凄いんだ、この家」
「えっとね……たとえば、障子」
「障子?」
怜奈は立ち止まると、まさに目の前の障子を指差した。「障子の外枠と内枠の太さが同じでしょ。普通は外の方が太いの」
「それが、どう凄いんだ?」
「……ここ、西側よね。夕日が差し込むと、逆光になるでしょ。そうすると、障子の継ぎ目がわからなくなるの。まるで一枚の大きな障子みたいに見える。普通の障子じゃこうはいかないわ」障子の反対側へ怜奈は向き直り、引き戸を開く。「あ、なるほど」
覗き込むと、普段はほとんど使わない四畳半のひと間があった。「なるほどって」
「この部屋で、外の景色を見るのよ。障子越しに」今度は障子へ歩み寄って、開く。「あー、なるほど。すごい」
「ひとりで納得しないで」
障子の向こうに設置されているガラス窓を開いて、怜奈は言った。「梅の木」
「……もしかして、梅の影を見るための部屋なのか?」
「だと思うわよ。それも、特等席になるのは夕方のほんの数時間だけ」頬を紅潮させて怜奈は言った。「ここまでは、本にも載ってなかった」
「贅沢な時間の使い方だな」
「そう、最高の贅沢。ん~、これぞ日本のモダン建築」
得意気な笑みを浮かべる怜奈に、道哉は思わず苦笑いで応じる。「常々変なやつだとは思ってたけどさ。お前そういうの好きなのか」
「ん……まあね」彼女は笑顔を消え入らせた。「互いに、何が好きかも、知らないんだよ。あたしたち」
「そんな……突き放すようなこと、言うなよ。悲しくなるだろ」
しばし沈黙してから怜奈は応じた。「ごめんね。あんた、友達っていったらあたしだけだもんね」
「お前だって似たようなもんだろうが」
「それは否定しないけど」怜奈は、いつもの不機嫌そうな顔で言った。「どっち? お父様の書庫」
「正面右」
「ありがと。……っていうかさ、そもそも、友達って何?」
「俺に訊くなよ。考えたくねえ」
「どうして?」
「言葉にすると、価値が損なわれる気がするから。人と人との特別な関係が、友達という言葉を押しつけられることで、特別さを失ってしまうみたいで、俺はすげえ嫌だ」
「そんなだから友達いないのよ、あんた」
「ここ?」と言って怜奈は足を止めた。前に出て、道哉は観音開きの扉を開けた。
道哉の祖父・憂井宗達は、昭和の文人としてある程度年嵩の人間なら知らぬものはない有名人なのだという。一時期は政治家も務めていたと聞く。だがその子である道哉の父、、憂井藤辰は一転して地味な生涯を送った。実業家として成功を収めた後は事業を人手に譲り、この家にこもりがちになった。親の遺稿や書簡を整理する日々を過ごしていたのだという。
そしてあるとき三十も年下の幼妻を迎え、一子を儲ける。だが、不幸にも息子がランドセルから詰襟の制服に着替えようかという頃に事故死。この家が残された。
書庫に収められた書物は、大半が藤辰の隠遁期、実業家としての人生を引退してから妻を迎える前までの期間に収集されたものだ。
「……すっごいね」
怜奈の感嘆の声。汚い、狭いなどという型通りの罵倒が先に立つだろうと思っていた道哉は拍子抜けだった。それほど素晴らしい場所なのか、あるいは、ここ二週間ほどの怜奈がどこかおかしいのか。
そもそも、一ヶ月以上前の怜奈をよく知っていたわけではない。
片瀬怜奈は、初めからこういう人間だったのかもしれない。突き放したような人間関係しか築けない代わりに、同世代があまり好まない芸術の類をこよなく愛する。書棚を追う彼女の澄んだ瞳は、本ではなく、その向こう側にある時間を見つめているように、道哉の目には映った。
道哉は、窓辺の文机に飾った両親の写真を倒した。その手で部屋にひとつだけの窓を開けると、熱された外気が頬を撫でた。
怜奈は棚から文庫本を取った。「あった、これこれ。借りていい?」
「どうぞ」道哉は鞄から包みを出す。
「何それ」
「漫画」
「買ったの?」
「借りた。2組の島田に」
「へえ。仲いいんだ。意外」
「一年のとき同じクラスで席が近かったんだよ」
「ふーん……」怜奈は唇を尖らせる。「なんか悔しい」
「なんだそりゃ……」
「別に?」彼女はキャビネットに半分腰掛けてぱらぱらと文庫本のページを送る。「バイクの免許、取るの?」
机の上に放り出していたパンフレットに目が留まったようだった。「ああ。二週間くらいで、一気に」
「ふーん……あたし、免許とか絶対無理だな」
「そうか? お前、車庫入れとかすごく上手そうなイメージだけど」
「何そのイメージ。……あたし、視力が悪いから」
「そうなのか?」
「うん」
「知らなかった」
「言ってないしね」怜奈ははにかんだ。「両目で0.6くらいなの。日常生活は、ぎりぎり支障ない」
「眼鏡とか作らないのか?」
「似合わないから」
「そうか?」
「絶対似合わない。絶対やだ」
「試してみたらいいんじゃない」
「……そうかな」
照れ隠しのように足を組む。流れた前髪を耳にかける。
その仕草のいちいちに目を奪われる。
ここ数日、周囲に投げかけられるようになった言葉を思い出す――お前ら、付き合ってるの?
怜奈との関係をそういう言葉で単純に語られたくなかった。友達、と同じだ。単純な言葉にすると、本来あったはずのかけがえのない価値が、損なわれるように思えてならない。
どうしてそれがわからないのか。クラスメイトらの顔、そして、野々宮ゆかりの薄い笑みが脳裏に浮かんだ。
「そういえば……お前のこと、三年の先輩に聞いた」
「カレシはいるのかとか? いないわよ。嬉しい?」
「お前、三年の女子によく思われてないってさ」
怜奈は顔を上げた。「不愉快ね」
「全くだ。女ってこれだから気に入らねーよ」
「そうじゃなくって……借りを返したつもり?」
借りって、と応じようとして、他でもない彼女が佐竹の襲撃を警告してくれたことを思い出した。「違う。確かにあれは貸しひとつだけど、俺は……」
怜奈の方を伺う。彼女は文庫本を持った手をスカートの裾のあたりで遊ばせている。
言葉が続かなかった。
貸しや借りではない。ただ、彼女のために、何かしたいと思った。怜奈に、理由のない憎しみを向ける者がいることが、許せなかった。あの時も今も、とにかく、怒りがこみ上げたのだ。野々宮ゆかりという三年生が、事もなげに「嫌われてるよ」と言ってのけたことが。
榑林一真は、誰もが奪い奪われて生きているのだと言った。佐竹純次は、自分は奪われる側ではないと言っていた。
「俺は、お前に、誰にも奪われない存在であってほしいんだ」
片瀬怜奈は、奪う側でも、奪われる側でもない。そんな幻想を担う存在であって欲しいと思っていたのだ。
あるいは、押しつけていたのかもしれない。
「あたしは……奪われてもいいと思って、ここに来たんだよ。本なんか口実で」怜奈は立ち上がった。「帰るね。本、ありがとう。読んだら返すね」
「口実って?」
「ん、いいの。それはまたいつかで」
釈然としないながら、道哉も腰を上げる。「表まで送るよ」
件の障子の部屋を抜け、建物の外へ。忘れかけていた夏の空気が押し寄せてくる。
「この間、あんたのこと友達って言ったけどさ」怜奈は乱れた足元を気にしながら言った。「あれ、やっぱ何か違うかもね。道哉って結構浮世離れしてるし」
「お前が言うかよ」
「あたし? あたしのどこが浮世離れしてるの?」
「いや、三ミリくらい浮いて歩いてるだろ」
「あたしは未来から来たネコ型ロボットか」
「嘘だろ、通じた」
「あんたもあたしも浮世離れしてるならさ、それって同盟だね」
「はあ?」
「浮世離れ同盟」彼女は、会心のポートレイトのように微笑んだ。「じゃあまた、連絡するね」
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