⑰
翌日は、緊急職員会議が行われているとかで、午前中ずっと自習だった。
午後からは授業が再開されたが、国語の授業だけは変わらずに自習だった。その頃には既に、昨晩の出来事があますところなく校内中に知れ渡っていた。佐竹純次を中心とするグループが喧嘩で怪我をし数名が病院へ。うちひとりは覚醒剤を所持していたため、警察に逮捕された。
有沢修人教諭の担当である国語が午後も自習だったことで、噂は真実になった。再開された授業も、教師への質問攻め、あるいは生徒たちがみなネットニュースやソーシャルメディアの情報に夢中で授業にならないのだ。
テレビ報道も始まっており、校舎の外には生徒からのコメントを取ろうと待ち受けているらしいテレビカメラと記者たちの姿も見え隠れしていた。
五時間目まで何とか終わった後で、六時間目が全校生徒を体育館に集めての集会が行われた。そこで、明日から三日間の休校となることと、事件のあらましが説明された。
「とても複雑で込み入った事態です」と演壇の校長は言った。「本校でいじめがあったという事実が確認されました」
全校生徒が驚いた。てっきり覚醒剤のことが明かされると思っていたからだ。
そこでは生徒が盛り場で喧嘩をし怪我をしたことと覚醒剤を所持していたこと、さらに銃刀法違反があったことも明かされたが、いじめとのつながりは今ひとつ要領を得なかった。
その翌日の午後。
突然の休校をどう過ごしたものかわからず、道哉は榑林邸の縁側でひとり微睡んでいた。
目を閉じると、あの夜に見えたものが浮かんでくる。少年たちの恐れ。敵意。疑問。悔しさ。戦いは一方的だった。戦いですらなかった。テコンドーに通じていたはずの佐竹純次でさえ、動きは鈍かった。
演出が上手く働いたのかもしれない。
顔のない亡霊。影に潜む尋常ならざる存在。羽原紅子は今頃どうしているのだろう、とふと思う。
現場から撤退してから、彼女とは顔を合わせていなかった。しばらくは、関わりを隠した方がいい、との彼女の考えだった。
彼女は、WIREのアップデートと見せかけた位置情報発信アプリを松井の携帯電話に潜ませ、ドローンで行動を直接監視していた。バイクで撤退を支援もしてくれた。プロテクターを外すとただの黒服になるのが、彼女の用意した衣装の特徴だった。しかし、都市はどこでも人の目がある。これは綱渡りだな、と彼女は乾いた笑みを浮かべていた。
道哉はその後、現場から回収した漫画を島田の家へ届けた。
なぜ松井があんなものを持っていたのかはわからない。ただ、宿命のようなものは感じた。このために戦ったのだ、と。
ひどく、時間が経った気がする。
ここ最近、たくさんのことをした。たくさんのことを考えた。襲撃を始めてからは、誰かに見咎められたのではないか、今にも軒先に警官が訪れるのではないかと、いつも頭のどこかで怯えていた。
疲れた、と道哉は呟いた。
「道哉さん」と頭上から声がした。
榑林一花だった。ぱっちりした瞳で微笑むと、彼女は道哉を見下ろすような位置に腰を下ろした。
白と紅の浴衣で視界の三分の一が埋まった。桃の果実のような匂いがした。
島田のことは任せて、と一花には言った。彼女が何か気取っていないか気にかかった。
「どうなっちゃうんでしょうね」と一花は言った。「もうすぐ期末試験なのに」
拍子抜けして道哉は応じた。「……忘れてた」
「えっ」
「いや、本当に忘れてた。どうしよう」
「わたしに訊かないでくださいよう。わたし、初めての期末試験なのに」
特に返す言葉が見つからなくて、道哉は黙った。
どこからか、早鳴きの蝉の声が聞こえた。
子供の頃、夏休みになると毎日のように、一花と一緒にこの家の庭で虫取り網を掲げて蝉を追いかけていた。あの頃はまだ、父がいて母がいた。一花と一真にも祖父がいた。縁側に座るのは彼らだった。
今は道哉と一花が縁側にいる。庭の虫を追う者はいない。
「あの」と一花が口を開いた。十本の指が、太腿の上で所在なさ気に絡んでいる。「黙ってるのって、平気ですか?」
「どうしたの、急に」
「男の人ってそうですよね」
「一花ちゃん?」
「何でもないです」彼女は顎を上げて言った。「道哉さんに、お電話がありました」
「俺に? 誰から?」
「片瀬先輩から」
思わず起き上がった。「うそ、まじで」
「十四時四十五分に駅前に、十五時まで待って来なければ勝手に行くから気にしないで、とのことです」
室内の壁掛け時計は十四時過ぎを示している。
「何だそりゃ」
「わたしに訊かないでくださいよう。……お約束はされてるんですか?」
「全然」道哉は腰を上げた。
「お心当たりとか、あるんですか?」
「ないけど、片瀬がこうやって人を呼びつけるの珍しいし、多分大事なことだから」
「なんか、以心伝心、って感じですね」
咎められているようなからかわれているような口調だった。
「全然違うよ。片瀬が何考えてるのか、俺全然わからないし」
足元に目を落とす。榑林邸の庭にも、シロツメクサが生えていた。私よりも綺麗だから、と言って白く可憐な花を踏み潰していた片瀬怜奈の姿をふと思い出した。
顔を上げる。無表情を装っているような顔の一花と目が合う。
彼女はついっと目を逸らして言った。「片瀬先輩、道哉さんの携帯の番号は知らないんですね」
「そういえば、そうだ」ポケットの携帯を取り出して道哉は応じる。「ちょっと行ってくる。晩ごはんまでには戻るから」
「いいんですよー。片瀬先輩と一緒に美味しいものを召し上がってらしても」
「……一花ちゃんにそんなこと言われると悲しい」
「冗談ですよ」一花はひらひらと手を振って微笑んだ。「いってらっしゃい」
離れに寄って簡単に身支度を整えてから、駅前へ向かった。
片瀬怜奈とふたりで休日を過ごしたことは一度もなかった。そもそも、中学の頃にクラスが同じだったというだけ。普段も何となく言葉を交わすくらいで、さして仲が良いわけでもなかった。
ただ、昔からずっと、互いのことを誰よりもよく理解しているような、不可解な感覚だけはあった。
駅前に着くと、怜奈はこの世の何もかもがつまらないとばかりの顔で、柱に背を預けて文庫本を読んでいた。そのくせ目の前に立つまで、道哉の来たことに気づかなかった。
本に栞を挟んでから、彼女は顔を上げた。栞には、四つ葉のクローバーが押し花にされていた。
「よっ、憂井」
「よお」
「来てくれてよかった」
「片瀬怜奈に誘われて、断るやつなんかいないだろ」
「やめてよ、そういうの」怜奈は頬にかかった髪を払った。「行くわよ」
「どこへ」
「お墓参りよ」怜奈は事もなげに言った。「今日、月命日でしょ、あいつの」
墓地のある郊外の街まで、電車を乗り継いで三〇分ほど。車内は空いていた。席半個分空けて並んで座った。特に何か話すでもなく怜奈は本を開いたので、道哉も彼女に倣った。
忘れていた。今日が、野崎悠介が自ら命を断ってから、ちょうど一ヶ月だったのだ。
野崎の家は両親ともこのあたりの出身で、墓地も近い。それが幸福なのかそうでないのかはよくわからなかった。憂井家の墓は長野の方にある。父が死んだ時に一度訪れているはずなのだが、記憶が曖昧だった。
住宅と住宅の感覚が広くなり、建物の背丈が低くなる。道哉は、途中で本を読み終えてしまった。
電車を降りても、怜奈の言葉は最低限だった。
駅前からはタクシーで十分ほど。そこからは徒歩になる。霊園入口の売店で花を買い、個性豊かなつもりで建てられたに違いないが見分けがつかない墓石が並ぶ道を行く。
「ここのお墓、ペットと一緒に入れるんだって」と怜奈が唐突に言った。
「へえ……そんなの需要あるのか」
「犬とか猫とか飼ったことないの? お宅は庭が広いって聞いたわよ」
「誰に」
「一花ちゃんに」
「話したりするの?」
「こっそりね。あんたの悪口を言いたい時とか」
「それ、言うか。……一度だけ、盲導犬を家に入れていたことがあったよ」
「お兄さん、目が不自由なんだっけ」
「従兄な。でもその……一真さん本人が嫌がってさ。『邪魔だ』って」
「へー。お優しい方って聞いてたけど」
「冷酷な人だよ。誰よりも」
ここも蝉の声がする。
先を行く怜奈は地味な白黒の服装をしていた。ヒールのない靴。膝下のスカート。こざっぱりとした黒のジャケット。下ろした長い髪が歩みに合わせて揺れている。
いつの間にか、また怜奈は無言だった。
黙ってるのって平気ですか、と一花に言われたことを思い出した。
野崎家之墓、と彫られた墓石の前に辿り着いた時には、日が傾いていた。水を流し、花を供え、並んで手を合わせる。
野崎悠介にはもう会えない。彼はもうこの世のどこにもいない。二度と言葉を交わすことはない。学校の廊下ですれ違うことも、街で偶然出会すこともない。
死とは、そういうことなのだと、やっとわかった。
知らせを聞いたときには、ただ死んだのだと頭で理解しただけだった。失われた何もかもを想像するのに、今までかかってしまった。
一ヶ月だ。
「忘れてたよ」呆然としたまま道哉は言った。「今日が月命日ってこと」
「ふぅん」
「……怒らないのか?」
「別に」
「悼む気持ちがないって、怒られるんじゃないかって、実は結構びくびくしていたんだけど」
「あんたが悲しんでいるのは知ってるから。だったらあんたは、あたしの知らないところで、あんたなりの悼み方をしてるってことでしょ」
「俺は……特に何か、してるわけじゃない」
我ながら、隠し事が下手だ、と思った。何かしていると言っているようなものだ。
だが、勘のいい片瀬怜奈とて、隣りにいる人間が夜な夜な黒ずくめで非行少年を襲撃しているとは思うまい。
「あたしには、これしかできないから」
呟くようにそう言って、彼女は目を伏せた。
「何でだよ」道哉は、俯く彼女に歩み寄る。「片瀬が、罪悪感とか持つ必要、ないだろ」
「あるわ」
「どうして」
「この間も、あんたには話そうとしたの。でも、言えなくて。誰にも言えなくて」
シロツメクサを踏み潰していた日のことだと、ぴんときた。
黙って続きを促す。怜奈は、墓石に向き合ったまま、ぽつりと言った。
「あたしなの。あいつを殺したのは、あたしなの」
「え? そんなわけないだろ。確かに誰も、あいつを助けられなかったけど、それと殺したってのは……」
「同じよ。あたし、野崎が死ぬ何日か前に、あいつのWIREから変な画像を送りつけられたの。ズボンもパンツも脱がされて、下らない雑誌の下らないモデルみたいに脚を広げた写真。あいつ、そういう目に遭ってたのよ。それで、写真が送られてきた次の日に、あいつ、あたしのところに来た」
「それは……どんなだったんだ、あいつ」
「必死で弁解してた。何言ってるかわかんなかったけど。それでね、憂井」
「うん。聞くから」
「あたしね……『不愉快』って言っちゃったの。不愉快だからって、野崎のこと、拒否したの」
「……それは」
「不愉快だから、近づくなって、言っちゃったの」
目眩がした。
それが事実なら、野崎を死に追いやる最後のひと押しは、怜奈の手によるものだったのかもしれない。
「あいつ、多分、お前のこと、好きだったんだ」
「知ってるわよ、そんなこと!」
怒りと、悲しみと、無力と。
今にも泣き出しそうな、見たこともない片瀬怜奈の顔が、眼前にあった。
かける言葉が見つからなかった。
どうすればいいのか、何をするために今彼女の隣にいるのか、わからなかった。
しばらく沈黙を挟んでから、道哉は口を開いた。
「話してくれて、ありがとう」
「……何で、あんたがありがとうなんて言うの」
「いや……その、お前とって、誰にも言えないことを言える相手が俺であることが、少し嬉しい」
「馬鹿」彼女は墓石に向き直る。「でも、あたしも少し嬉しい。あたしにも、こういう話を聞いてくれる人がいるんだってことが」
「そんな大袈裟なもんか?」
「あんたが先に言ったんでしょ」怜奈は拗ねたような目線を向けて唇を尖らせる。
その珍しく子供っぽい仕草に、どうしてか、彼女の一部が迂闊にも開いていた自分の隙間に潜り込んできたかのような錯覚を覚えた。
気恥ずかしくなって、道哉も墓石に向き直った。
野崎悠介。自分にとって彼がどういう存在なのか、簡単に説明できる言葉を道哉は持たない。
不思議な存在になってしまった。きっと一生、忘れられない。
沈黙に耐えかねての気まぐれか、怜奈が口を開いた。「ねえ、憂井。お墓の中って、何があるのかな」
「幸せが詰まっているんだよ」
「それはなくない?」
「ごめん。さっき読み終わった本の台詞」
「何それ。貸して」
ふたつ返事で「いいよ」と応じて本を手渡す。
受け取り、ぱらぱらとベージをめくった怜奈は、「ふぅん、こんなの読むんだ」と呟いた。
「死んだ親父の趣味だよ。そういうの、家の書庫に山ほどあるんだ。変わってるだろ」
「ううん。素敵なご趣味だと思うわ。息子がこんななのが信じられないけど」
「後半言わなきゃならないか?」
「あんたが相手だとつい言いたくなっちゃうの。ごめんね」
「俺はお前の何なんだ……」
「さあ。友達じゃ、ないでしょ」怜奈は、一転して凍ったような、大人びた顔で言った。
確かに、友達ではない。
野崎悠介の死がなければ、ろくに言葉を交わすこともなかった。何となくお互いを知っているが、何となく以上の距離へ互いに踏み込むことなく高校時代を過ごし、互いに知らない場所で大人になっていくのだろうと思っていた。
自分と怜奈の関係が、特別だと考えたこともない。長い人生の中のほんの数年をすれ違うだけの、最もありがちな関係で終わるに違いないという、ぼんやりした確信があったのだ。
「じゃあ……さ」と道哉。「今からでも、友達になろうよ」
すると怜奈は目を見開いて、それから唇に手を触れて目を逸らした。「どうしたの、急に」
「別に」と応じて、怜奈の頬に差した朱の色に気づいた。「あの、えーっと……」
自分の顔にも血が昇っているのがわかった。
「ごめん、変なこと言って。忘れろ、忘れてくれ」
「いいよ。友達。はい、今から友達」
「片瀬、ちょっと待って。俺……」
「怜奈」上目遣いにいたずらっぽく笑って彼女は言った。「道哉」
「ああ、もう」道哉は後ろ髪を掻きむしり、野崎家之墓と刻まれた墓石に言った。「また来るから、悠介」
「え、ちょっと、何それ、ひどい」
「長居するのも何だし、行こうよ、怜奈」
納得していない様子だが、結局怜奈も踵を返した。「……なんかいいね、道哉」
「気色悪いけど、なんかいいな、怜奈」
「そうだ、携帯の番号教えてよ。最近買ったんでしょ?」
「一年くらい前だよ。俺だって文明社会の一員なんだ。ハッキングとかできるぞ」
「あんた、時々心配になるくらい間抜けだよね……」
日の傾いた霊園を、ふたり言い合いながら後にする。
帰りはバスに乗って私鉄の駅まで出て、そこから往路と逆順に電車を乗り継いで最寄り駅まで戻る。帰路は会話が弾んだ。これまで、友達でなかった分を取り戻すかのように話した。中学時代のこと。高校に入ってからのこと。周囲の人間のこと。友達を得る難しさのこと。最近読んだ小説のこと。売れ始めた芸人のこと。車内広告の歯が浮くようなフレーズのこと。休みが開けたらすぐに始まる期末試験のこと。
話している間は、不安を忘れられた。いつも肌で感じていた違和感も消えていた。ここにいていいんだと思えた。そんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。
あっという間に最寄り駅だった。改札を出ると、先に立っていた怜奈が振り返った。
「ね、何か食べていかない? もういい時間だし、せっかくだから」
気づけば時刻は十八時を回っていた。
ふと、背筋にひやりとしたものを感じた。
道哉は言った。「ごめん。せっかくだけど、今日は帰るって約束しちゃったから、また今度」
「あら、そう。あたしの誘いを断るなんて、やるわね」
「本当にごめん。釘を差されてて。最近、榑林の家に色々不義理を重ねてるから……」
「冗談よ。そんなに慌てないでよ」怜奈は肩越しに微笑んだ。「じゃ、またね」
じゃあね、と応じて人混みの中へ消える彼女の背中を見送り、数秒してふと、道哉は気づいた。
「人前で食事はしない主義じゃなかったのか?」
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