宿直室の有沢修人は憂鬱だった。

 第一に、宿直という己の境遇が憂鬱だった。そもそも警備会社のシステムが入っているのだから、教師がわざわざ泊まり込む理由はひとつもない。にも関わらず、月に一回だけ宿直日を設け、教職員のひとりが持ち回りで泊まる制度が存続しているのは、ただの慣習でしかない。全廃しても構わないが、これまで宿直という制度があったのだから、月一回だけ残すという、徹底して変化を嫌うやり方に不満を抱かずにはいられないのだ。

 そして第二に、島田雅也のこと。

 彼がいじめに遭っていることは明白だった。気弱な生徒が気の強い生徒らと一緒にいる理由はふたつ。学校の強制か、いじめだ。別け隔てなくみんな仲良しなクラスを求めるのは、赴任二年目で諦めた。

 だが、どうにもできない。これはいじめであると断じて動けば誰かが必ず傷つく。誰かを責めるには証拠がいるが、責めるために証拠を集めるという行為が、生徒への信頼という教師の根底にあるべきものと相反しているのだ。だからなるべく、全体の支払うコストが小さい道を選ぶ。つまり、静観する。

 逃れられない社会の仕組みを学ぶのもまた学校などと嘯くのは簡単だ。だがそれで納得できるほど年老いてはいないと、有沢修人は自負していた。憂井道哉という生徒の言葉が思い出された。それは正しいのか。正論かもしれないが、正しいのか。

 第三に、佐竹純次のこと。

 彼がクラスの中心人物であることは言うまでもない。そして一部クラスメイトと結託し、他の生徒に暴行を加えているらしいことも、誰かに知らされたわけではないが何となく察しがついていた。盛り場で彼の姿を目撃したという話もあれば、中学校時代にクラス内で暴行事件を起こしたことも聞き及んでいた。

 だが、有沢教諭の頭を悩ます最大の問題は、保護者からのクレームだ。

 どこから聞きつけたのか、佐竹純次の家系に半島系の血が入っていることを論い、差別用語を駆使して自分の娘をそんな生徒がいる学校には通わせられない、退学させろと要求しているのだ。

 佐竹と面談した際、母親が強制送還されたらしいことを彼は話していた。ハーフであることまでは真実であろうから、このクレームはたちが悪いのである。日本にも差別文化は確実に存在するがそれに対する自浄作用、差別であるとして非難する動きは極端に弱い。もしも自分自身が佐竹純次の担任でなかったら、大したことのない問題として、誰かが何とかしてくれるだろうと聞き流していたに違いない。

 そして最後に、自ら命を断った野崎悠介のことだった。

 気を抜くと、いつも思い出してしまう。クラスにひとりでいた彼のこと。ひとりが好きなんだろう、過干渉すべきではないと自分に言い聞かせ、見て見ぬふりをし続けていたこと。彼の死を知らされた直後から今まで、あの時こうすべきだった、ああしていればという後悔ばかりが頭を満たしていた。

 斎場での生徒たちの様子が嫌でも思い出された。同級生が急にいなくなったことへの驚きを受け止めきれていない生徒たちの中で、どうでもいいかのように振舞っているグループがいた。過剰に受け止めて泣き出す生徒らもいた。そして、担任である有沢修人へ、責めるような目線を送っていた女子生徒がいた。

 片瀬怜奈だ。思わず振り返るような美貌のためか、クラスでは少し浮いている様子だが、憂井道哉とも親しく、生前の野崎悠介とも知らない仲ではなかったようだ。三人とも同じ中学の出身なのだという。

 生徒は、教師のことを見ているものだ。

 子供だからと気を抜いていると、打算も、保身も、怠惰も、思いも、何もかも見透かされる。

 制服姿ばかりの中で、ひとりだけ喪服を着ていた彼女と目が合った時、「でも、先生は何もしませんでしたよね」と告げられたような気がしたのだ。

「……やめだ、やめ」

 ひとまず考えないことにして、二〇年以上型落ちのテレビの電源を切った。その時だった。

 何かが、蒸し暑さから半ば開いていたベランダの窓を叩いた。

 立ち上がり、窓辺に寄る。虫か、それにしては大きい。よく見ると、クァッドコプター型のドローンだった。こういうものを、ロボット研究会か何かが所持していたような覚えがある。

 ベランダを開けると、ドローンはそろそろと室内へ入り、座卓の上に、懸架していた包みを落とした。封筒のようだった。

 ドローンは小型ながらもカメラとマイク、スピーカを備えているようだった。怪訝に思って覗き込んでいると、スピーカから声が聞こえた。

「その封筒を開けろ」

 ボイスチェンジャーを噛ませたような妙に甲高い声だった。「……生徒のいたずらか?」

「野崎悠介の自殺といじめとの因果関係を証明しうる資料が中にある」

「何だと?」

「封筒を開けろ」

 そう言われては、拒否する理由がなかった。有沢は封筒を開いた。中からは、数枚のハードコピーと、小型のメモリが出てきた。

 仕事用のPCを起動しメモリを挿す間に紙の方を開いてみる。WIREの画面のようだった。それと、借用書と書かれた紙が一枚。

 その内容に唖然として呟いた。「……何だ、これは」

「見ての通りだ。野崎悠介は、佐竹純次を中心とするグループによって日頃から暴力を振るわれ、恐喝も受けていた。同じ行為が現在、同じクラスの島田雅也に対して行われている。その借用書とやらが証拠だ。そして、野崎悠介は自殺の直前、彼らによって屈辱的な写真をネットワーク上にアップロードされ、あまつさえ親しい関係にあった人間に送りつけられた。彼はそれを苦にして自ら命を断ったんだよ」

「こんなこと……どうやって手に入れたんだ。彼ら自身のアカウントでログインしなきゃ見られない画面じゃないか」

「それは瑣末な問題だ。ネット上には、露出狂の私が写真を晒す場所、として野崎悠介が作成した体のブログまで存在している。写真の画角は、佐竹の仲間が使っている端末のものと一致したよ」

「ブログ?」

「URLがそのメモリの中だ。それと、WIREの過去投稿を漁っていたら、野崎に対する恐喝の証拠も見つけた」

 紙面をめくると、カードのようなものを撮影した写真が送られている画面がある。「……これか?」

「ウェブアカウントに電子マネーをチャージするためのコードが書かれた紙切れを、コンビニで売っているだろう。佐竹らはそれを野崎に買わせ、コードを送信させていた。酷い時は三日で三万円だよ。気分はどうだ、先生」

「気分?」

「ジャンプさせてチャリンと鳴ったら小銭を巻き上げるとか、殴って財布から現金を抜くのとは違うカツアゲの形を目前にした気分はどうかと思ってね」

「……これを私に見せて、どうしたいんだ?」

「我々は、あなたがその資料を元に然るべき行動を起こすことを期待している」

「期待?」PCが起動。メモリの中身を開くと動画ファイルがある。再生すると、それは、監視カメラのような映像だった。どこかのトイレの洗面台。島田雅也が、頭から墨汁を浴びせられ、水中へ繰り返し頭を突っ込まれている。「何なんだこれは。こんなことが……」

「それはサービスだ。第二の野崎悠介が現れる前に、あなたには行動を起こしてもらいたいのさ。……いや、あなたは否応なしに行動せざるを得なくなる」

「どういうことだ?」

「すぐに、知らせが来るさ。ははは……」

 ドローンが浮上し、窓を抜けて夜の暗闇に溶けていく。

 だが、追いに出ようかと靴を探した時、部屋の固定電話が鳴った。いやな予感がした。ドローンの声の主の予告が当たったことはもちろん、こんな時間に宿直室の電話が鳴るような事態は想定にない。つまり、想定にない大事件が起こったのだ。

 電話を取る。相手は教頭だった。思わず畏まる有沢に、教頭は告げた。

「君のクラスの生徒が警察にいる。例の……佐竹くんたちだ」

「どうして、怪我は」

「高速下の公園で喧嘩をしたらしい。七人いたうち、ふたりは病院だ。それと……信じがたいんだが、うちひとりが覚醒剤と思われるものを所持していた」

「相手は」

「わからないんだ。話が混乱していて。黒ずくめの男に襲われたとか、何とか……。とにかく情報収集に努めてくれたまえ。明日の朝七時から緊急会議を行う。……有沢くん?」

「教頭先生。ご報告したいことがあります」



 それはいじめだよとは、誰も言ってくれなかった。

 どんなに怒鳴られ殴られ使い走りにされ、金を脅し取られても、それがいじめだとは誰も教えてくれなかった。ずっと、彼らとは仲が良いのだと思い込もうとしていた。殴られたって、対等な関係なんだと自分に言い聞かせていた。金を脅し取られたって、貸しているだけなんだと自分を納得させていた。

 大丈夫だな? と訊かれると、大丈夫だ、としか答えられない。

 貸した漫画が返ってこなくても、いつか返してくれると信じていた。

 本当は、貸してと言われた瞬間から、大切な漫画たちが返ってこないことがわかっていた。彼が、その漫画を愛してくれないことも。

 毎日毎日眠るたび、明日が来なければいいのにと思う。床につけば明日になってしまうから。自然と夜更かしが増える。親には文句を言われる。あんたらのせいだろ、と怒鳴りたくなる。どうして、奪われる側ではなく、奪う側にいられるように、息子を育てなかったのかと。

 あいつのせいだ、と島田雅也は呟いた。

 憂井道哉。

 漫画を貸してくれよ、と彼は言っていた。心配してくれているのだとわかった。心配されてやっと、心配されるような目に遭っているのだとわかった。

 認めてしまった。ずっと、目を背けていたことを。

 例えば金を脅し取られていることを知っていて、そのことに敢えて触れずに近づいてくる人は前にもいた。優しい人なんだと思って、彼とのつながりは大事にした。いつの間にか、彼は金を脅し取るグループのひとりになっていた。

 憂井道哉のことを、角材で殴ってしまった。それなのに、彼は何事もなかったかのような気取った笑顔で、書道教室に現れた。

 それだけで、どれほど救われたことか。

 生まれて初めて、自分を責めた。あの時殴るべきは、憂井道哉ではなく、佐竹純次だった。

 友達に戻りたかった。漫画を貸してと言われたら笑顔で貸し、折り目をつけられて怒るような友達に。それで缶ジュースの一本も奢ってくれればそれでいい。

 彼を殴ってしまった。漫画はここにない。

 呼び鈴が鳴った。時刻はもう二十三時。こんな時間に誰が訪ねてきたのか気になったが、少なくとも、そんな友達はいなかった。応対は親に任せておけばいいと決め込み、ノートPCに向き直った。

 しばらくして、部屋の扉がノックされた。

「雅也? 起きてる?」

 画面を睨んだまま「何!? 起きてるよ!」と応じる。親に怒鳴るたび、言えない言葉が全部伝わることを願っている。

 母親は、そんな息子の思いなどどうでもいいかのように、何もかもに呆れたような声で言った。「玄関に変なものが置いてあったんだけど。これ、あんたのじゃない?」

「俺の?」

「きったない漫画。捨てなさいよ、こんなの」

 椅子を蹴飛ばして部屋の扉を開けた。勢いのためか、母親はぎょっとした顔だった。

 包みを受け取り、開く。

「どこにあったの、これ」

「母さんに訊かれても。呼び鈴が鳴ったから出たら、誰もいなくて、それだけ置いてあったんだよ」

「そう。ありがとう」

 母親を追い払い、部屋の扉を閉じる。

 手が震えた。

 半年前に、松井に貸したはずの漫画だった。


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