⑮
*
その夜は新月だった。
佐竹純次を中心とし、主に同級生や元同級生らからなる少年グループ、計一〇名が、駅前のクラブの一角に集まっていた。その理由はひとつ。
誰かが、彼らのことを監視・襲撃している。
妙な噂話がある。自殺した同級生の亡霊が夜な夜な彼らの周囲に現れ、復讐を企んでいるというものだ。
噂の信憑性はともかく、佐竹純次は、これを好機であると捉えていた。ゆえに彼は、この集まりに、知人の塗装工・金村大輝と無職の新井一茂のふたりを呼び寄せていた。彼は、家を出た兄の伝手や、テコンドーの道場での人間関係を通じ、彼らと知り合った。
宴もたけなわ、だった。
新井が言った。「俺の先輩がジュンちゃんのこと見込んでてさ。今度新宿の店に連れてこいって言われてんだ」
店への招待は本当に特別待遇だ。通常、取引は特定の自販機や空調室外機の下、植え込みの中などで行われる。組織の上位から客の番号が入った携帯電話を渡された売人が、注文を受けて置いて回る。新規顧客は基本的に紹介でしか増えない。売人もそれは同じだ。
店へ集まるのは、売上金の回収をするとき。それも、末端売人は招かれない。末端は、金を上位の売人へ渡し、その上位の売人が、各地の拠点となっている店へ金を運ぶ。組織の全貌は誰も知らない。
金村と新井は、上位売人にあたる。新井の方が、より上位であるらしい。上の方の人間との血縁があるとのことだった。
しかし、そのシステムへの自分の理解が正しいのか、佐竹純次は自信を持てなかった。
それはともかく。
今は大事な時なのだ。
上の信頼を勝ち得て、組織で重要な役職を勝ち取る。高校という市場は広大だ。絶対に儲かる。摘発されそうになっても、組織が守ってくれる。そして金を貯めて、母を探しに行く。
佐竹純次には母がなかった。父方の親類の家に預けられて育ち、中学生の頃に、母親は半島の出身で国元へ強制送還されたのだと知った。親類からの冷たい目、汚れたものを扱うような態度の理由を知った。テコンドーに打ち込んだのは、その頃からだ。
組織の上には半島系のマフィアがいることは想像がついていた。今日ここにいる二人の売人も、あちらの血が入っている。自分が彼らの先輩とやらに興味を抱かれている理由も、母親の出自であることは想像に難くなかった。
復讐を考えなかったといえば、嘘になる。
幼い頃から、優しさを強要するわりに優しくしなくていい人間には能面で接するこの国の人間たちには、いい思い出がひとつもなかった。自分に違う国の血が入っていると知った時から、俺は怒ってもいいんだ、と思うようになった。だから、同級生でも殴った。殴ってもいい人間は殴った。
そのせいだとしたら、腹が立った。
肉塊が歩きまわるはずがない。仲間の周囲で姿を見え隠れさせているのは、生身の人間だ。誰かが、何かの目的で、害意をぶつけてきているのだ。
店を出て、金村と新井のふたりと別れた時には、夜の十時を回っていた。
仲間たちの顔色は、興奮半分、萎縮半分。特に、なぜか紙袋を抱えた松井の憔悴は酷かった。
電車通学の数名と別れ、一行の数は地元が同じ七人になる。佐竹の足は、繁華街の隅にある公園へ向かった。居酒屋や夜の店が並ぶ通りと、住宅街を隔てる高速道路のガード下だ。
薄暗い公園にひっそりと朽ちた遊具。放置自転車。申し訳程度の砂場。誰が捨てたのかわからない、菓子や飲み物の容器がそこかしこに転がっている。ボール遊び禁止の看板が掠れている。中心に一本だけ立つ街灯は、給電が不安定なのか数秒置きに明滅している。
口数少なな一同に、佐竹は言った。
「みんな暗くねえ?」
「いや……だってさ」高橋がおずおずと口を挟んだ。「何か……サタさんと俺ら、世界が違うって感じだし」
2組の篠塚が声を張り上げる。「だよなーっ! やっぱサタさんすげーわ。あいつらとどうやって知りあったん?」
「『ヤバい』って感じだよな、目とか」同じく2組の芝浦がにやついた顔で合わせる。
適当に応じながら、残った六人を値踏みする。2組の篠塚、芝浦、木村は問題なさそうだった。これまで彼らに異を唱えられたことはなかった。野崎の携帯電話を奪い、下半身を露出させた写真を撮り、同じクラスの片瀬怜奈へ送ったのは、篠塚だ。野崎に三階からボールを落とした時、裏庭で野崎を羽交い締めにしていたのは、芝浦と木村だ。それに高橋も。いつも嬉々としている馬鹿だが、使い出はある。
まだ普通の高校生だが、仲間として扱うなら、彼らだ。
「な、なあ。俺の家、あっちだから」元木は忙しなく周囲を窺っている。「また学校でさ」
「何ビビってんの? ウケるわ。つーか松井ちゃんさあ、その袋何よ?」
「いや、別に……」
「見せろって」
佐竹は松井の紙袋を奪うと、中身を開いた。
漫画だった。紙の黄ばんだ、古い少年漫画が十冊ほど。これは何だと問うと、彼はこう答えた。
「島田に借りたやつで……」
こいつらは駄目だ、と佐竹は見切りをつけた。
新井からよく言い含められていた。ものを売る相手はよく選ばなくてはならない。別の世界に憧れているやつや、嫉妬心の強いやつは、すぐにハマる。だが、何かというと家や親を持ち出すようなタイプや、根っこのところで臆病なやつは避けるべきなのだとか。そういうやつをトロトロに落とすのもたまんねえんだけどな、と彼は笑っていたが。
新井は以前に、客の親に警察を呼ばれて留置場送りにされたことがあったのだという。手元に物品がなかったため、前科はつかなかったものの、同じ目に遭いたくはない。
新井曰く、いい客か、そうでないかに育ちや経済状態は関係ないのだという。それは言うならば、持って生まれた資質だ。
搾取する側と、される側の違い。
奪う者と、奪われる者。
父方の親類と顔を合わせる時、佐竹純次は、奪われる側だった。
学校で誰かを殴るときは、奪う側だった。奪われる側にだけはなりたくなかった。そこには怒りだけがあった。
「松井ちゃん、もしかしてさ、今更罪悪感とか感じちゃってんの?」佐竹は、漫画本を地面にぶちまけた。「じゃあさ、証拠隠滅すりゃーいいじゃん。な?」続いて、ポケットから店でもらったマッチを取り出す。「燃やしなよ。大丈夫大丈夫、ここ人目につかねーし、監視カメラもないんだぜ」
「でも……」
芝浦が口を挟む。「つーか漫画って、何にビビってんのか意味わかんなくね?」
「もしかして、あの噂信じてんの?」と木村。「ゾンビとかねーから。第一島田まだ死んでねーし」
「お……俺はっ、見たっ……!」元木が声を上げた。「松井、そんなん持ってたら駄目だ。やべーよ、あいつが来る、あれが、あの……早く、早く返そうよそれ」
佐竹は元木の胸倉を掴んだ。「は? 俺は燃やせって言ったんだけど」
松井は、恐る恐るといった様子でマッチを受け取った。
佐竹が手を離すと、元木はその場に崩折れる。篠塚が「もーやーせ、もーやーせ」と手拍子した。芝浦、木村がそれに倣う。
松井がマッチを擦った。
その時だった。
明滅していた街灯の明かりに、影が落ちた。全員の目線が上を向いた。蛾にしては大きいものが見えた。それが何なのか見定める前に、元木が叫び声を上げた。
元木が震える指で示す先に、何者かがいた。
黒尽くめ。フードを被っており、薄暗い公園では顔は見えない。だが、こちらを睨んでいることだけは、はっきりとわかった。ブーツが砂を踏む音が、フェンスの向こうを通り過ぎる車の通行音の中で、やけに大きく聞こえた。
「何だあ、こいつ……」芝浦が、公園の隅に転がっていた角材を掴んだ。
木村が、笑いながら男の方へ歩み寄る。「あんた何してんの? うっわ、何そのカッコ。かぁっけーっすね~、ウケんわ、どこで買った……」
木村の身体が空中で一回転した。
何が起こったのか、誰にもわからなかった。男の腕が届く範囲まで木村が近づいた瞬間、目にも留まらぬ早業で木村は背中から地面に仰向けに倒されたのだ。
松井の手から火の着いたマッチが落ちた。
唖然としている木村を見下ろすと、男は無言のまま、拳を木村のみぞおちへ叩き込んだ。
「の、野崎だ。あいつ野崎だ……」腰を抜かしたまま後ずさりする元木。
「じゃあもう一回死ねよ!」芝浦が角材を振り上げ、雄叫びを上げて肉薄。
しかし交錯した瞬間、やはり芝浦の身体が空中で一回転した。今度はうつ伏せに地面に倒され、黒ずくめの男の手刀が首筋へ一撃。抵抗しなくなったことを確かめたように、男は身を起こすと、芝浦が掴んでいた角材を真っ二つに割って捨てた。
街灯が消えた。そのほんの一秒程度の間に、黒尽くめの男は七人の方へ肉薄していた。
松井の身体が宙を飛んでフェンスに突き刺さる。殴りかかった高橋が腕関節を極められて砂場に頭から転がる。
佐竹は、深呼吸して構えた。
ナイフを構えた篠塚。そちらへ黒尽くめの男の注意が向いた隙を見計らい、脇から横蹴りを連打する。全て花が舞うような腕刀で捌かれるも、想定の範囲内。ナイフを振り上げた篠塚が男へ襲いかかり、軽く躱された直後、上段五四〇度の廻し蹴りを見舞った。
手応えなし。だが、何かを掠めた。
俯いた男のフードが取れていた。風に吹かれたように身体を揺らしながら、男が顔を上げた。
目も、鼻も、口もなかった。全てが、真っ黒な包帯に包まれていた。
「誰だ」と佐竹は口にした。「お前は一体誰なんだ」
元木が、悲鳴とも雄叫びともつかぬ声を上げて背後から飛びかかるも、男は顔を向けもせずに元木のがら空きになっていた鳩尾を肘打ちにした。
見る必要もないのだ。
男は、猫背のまま、凝りを解すように首を傾げる。その、人間というより獣のような仕草に、佐竹は我知らず一歩後ずさりしていた。
これは、人間なのか?
人間が顔を塞いで戦えるはずがない。目を瞑った相手に躱されるような蹴りを放ったつもりもない。いつの間にか乱れていた呼吸を整えながら男の顔面を観察しても、覗き穴のようなものは見えない。
垂れた包帯が微風に揺れている。
男が、フードを被り直した。真っ黒な顔面が、再び影に没する。
「勝手に死んだんだろお!?」と篠塚が叫び、再びナイフを掲げる。
黒ずくめの男は体を捌いて側面へ回り込み、手首を掴んで肘関節へ手刀を打つ。ひと呼吸の間もなく膝を蹴って倒し、顔面へ一撃。
そしてゆらり、と身を起こしたのとほぼ同時に、佐竹は後ろ飛び蹴りで黒ずくめの男に襲いかかった。
手応え。だが浅い。間髪入れずに中段蹴りの連打。右の廻し蹴り、左の後ろ廻し蹴り。一度跳ねて右の横蹴りを三連打。全て防がれる。防具を入れているらしく、効いている様子がない。
それ以上に、この黒ずくめの下に、本当に身体があるのか、確信が持てない。
この蹴りが仮に防御を抜けて男を捉えたとして、もしかしたら、風を受けて膨らんだ布切れを蹴っているだけなのではないか。
その不安が乱れを生んだのか。
眼前に影に染まった男の顔があった。
掌底、肘打ちの連打をまともに受ける。続く右の鉄槌打ちだけは地面に転がるようにしてすんでのところで躱す。
いつの間にか、必死で稽古した後のように肩で息をしていた。
強いとも、勝てないとも、悔しいとも、憎いとも思わなかった。まして、怒りなどなかった。
ただ、恐ろしかった。
仲間を瞬く間に全員倒し、持てる技を全て駆使してもびくともしない、顔すらわからないこの男が。
今こいつは、笑っているのだろうか。
父方の親戚らの白眼視を、佐竹は不意に思い出した。ただ懸命に生きているだけの者を容赦なくあざ笑う目。
奪う側に立っている者だけが持つ、圧倒的な優位。
「何なんだ、何なんだよお前よ!」
黒ずくめの男は一切反応しない。
「何とか言えよ!」
足元に落ちていた空き缶を投げる。空の注射器を投げる。砂を掴んで投げる。
黒ずくめの男は意にも介さない様子で、大股に距離を詰めてくる。
佐竹は手の汗をズボンで拭うと、もう一度構え直す。「俺は、奪われる側じゃねえ。もう、絶対」
機械のようだった男の動きが、一瞬だけ乱れた。
佐竹純次は、その隙を見逃さなかった。
上段右の廻し飛び蹴りからの左後ろ横蹴りの連撃。佐竹が一番得意とする技であり、道場でも多くの門下生をマットに沈めた。そして、あの妙な格闘技を遣った憂井道哉を倒したのも、この技だった。
大抵は一撃目を受けきれず、側頭部を打たれて倒れる。仮に躱されても、着地で踏み込みながら勢いそのままに繰り出す後ろ横蹴りは躱せない。素人がまともに受ければ身体が吹き飛ぶような技だ。普通の喧嘩ではまず使わないし、使って勝てなかったことはなかった。
だが、必殺のはずのそのひと蹴りは、空を切った。
男の左脇に、佐竹の左脚が挟み込まれていた。廻し飛び蹴りを躱したのと同時に身体を縦に捌き、花の重さに傾ぐ草木のように、少しだけ左へ動いた――そう理解した時には、右の鉄槌打ちが今度こそ膝へ叩きこまれていた。
思わず叫び声を上げた。もはや立っていられなかった。あまりにも的確な一撃で逆に捻じ曲げられた膝関節は、感覚がなくなっていた。
片足で無理にでも立ち上がろうとして、倒れる。フードの顔面包帯男が近づいてくる。右を見る。左を見る。仲間たちが倒れている。
篠塚が持っていたナイフが目についた。這いずりながら手を伸ばした。肩関節が外れるほど伸ばした。
佐竹の指先が、黒いブーツの爪先に触れた。
硬直し、見上げる。
男の顔があった。フードの下で、黒い影が蠢いていた。人のものではなかった。
男の足がナイフを蹴り飛ばす。佐竹は叫ぶ。自分が失禁しているのがわかったが、止められなかった。呼吸が途絶えそうになる。屈んだ男が拳を振り被る。
佐竹純次の意識は、そこで途絶えた。
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