⑭
その夜は、榑林家で食事をした。
道哉と、一真と、一花。作務衣に薄手の半纏を羽織った一真はいつにも増して寡黙だった。一花の料理は、心なしかいつもより普通だった。鶏の唐揚げなどという普通の料理を一花が支度したのはいつ以来だろう。
今日は憂井の家に泊まります、と伝えると、食卓の一真は「何かあるのかい? 一花が寂しがるよ」と言った。いつも通り、眠るように閉じた目。今度は一花に向き直った。「相談したいことがあるとか、言ってなかったっけ?」
「いえ、いいんです」と一花は言った。「また、今度で」
「相談?」
「気にしないでくださいっ。それより、どうして今日もあちらのお家に?」
「曲がりなりにも、自分の家だから。俺も自立しないと」
一真が口を挟んだ。「素敵な心がけだけど……道哉さえよければ、一花と一緒になってこの家を継いでくれてもいいんだ」
「一緒になって?」
「結婚ってことだよ」
音を立てて食卓のグラスがひとつ倒れた。一花だった。目線が固まっていた。
「一花は、どう?」
名前を呼ばれて、電気を受けたようにぴくりと震える一花。「けけけ、けっこん……? わたしが、わたしが……道哉さんと……?」
一真は首を傾げる。「まんざらでもない?」
「ま、まんざら……そうですね、まんざらでも……って何言ってるんですかあ!」浴衣の袖をばたばたさせて一花は応じる。
「やめてよ、一真さん。家を残す気なんか、ないくせに」
「社交辞令で言ってるつもりはないよ。君は腕も十分だ。どうせ武芸を使うなら、人を傷つけない道であって欲しいという気持ちは、本当だ」
心臓が跳ねた。
一真は柔和な笑みを崩さない。盲だ瞳に、何もかも見透かされているような気さえしてくる。あるいは、彼が目を開かないのは、誰にも見透かされないためなのか。
「道場を残したければ、弟子を取ってください。俺は、ここを継ぐ気はありませんから」
「じゃあ、道哉は将来何になりたい?」
「あなたに見透かされず、あなたを見返せるものなら、何にでも」
一真はわざとらしく上体をのけぞらせて言った。「……だって。残念だね、一花」
「別に、残念でも何でもありません」一花はそっぽを向く。「わたしは、道哉さんのことなんか何とも思っていませんから」
「だって。嫌われたもんだね、道哉」
「一花ちゃんなら選び放題ですよ。このひねくれた武術を学んで、一真さんの相手をして、道場を継いで、気立てがよくて器量よしな男を探せばいい」道哉は席を立った。「ごちそうさまでした」
「慌ただしいねえ。お茶くらい飲んでいけばいいのに」
「いえ、お構いなく」
一花が腰を上げた。「表までお送りします」
居間を出て、大丈夫だよ、いえいえお送りします、と問答している間に玄関だった。適当に脱いだはずの道哉のスニーカーが、つま先を揃えて並べられている。一花はいつの間にか水草のような柄のストールを羽織っていた。
戸を開けると、虫の声がする。
榑林邸の庭は広く、幼いころはよく、一花と一真と三人でかくれんぼなどして遊んだものだった。あの頃から、一真の非凡さは際立っていた。どこに隠れても、一真の目からは逃れられなかった。
玄関から表門までをつなぐ石畳の小路に、スニーカーと草履の足音がひとつずつ。
「あの、道哉さん」と半歩後ろの一花。「兄が、すみませんでした」
道哉は歩みを止めずに応じる。「あの人は、たぶん、何もかもがどうでもいいんだ。人と違う目で物を見すぎているから」
「道哉さん?」
「何もかもが見えているから、俺なんかがやろうとしていることも全部お見通して、その結果が、ろくでもないことになるってわかってるんだよ。あの人は……ねえ、一花ちゃん」
「はい?」
道哉は足を緩めて天を仰いだ。月のない夜だった。「世界中が馬鹿だから俺がなんとかしなきゃって思うのと、世界中が馬鹿だから何をしても無駄だって思うの、どっちがいい?」
「何の話ですか?」
「いいから」
うーんうーんとしばし悩んでから、一花は答えた。「お婿さんにほしいのは、後者です。でも、一生支えたいのは、なんとかしなきゃって思ってる人です」
「何それ」
「なんで笑うんですかっ。訊かれたから答えたんです」
「ありがと。ちょっと勇気出た」
すると、一花の方が不意に立ち止まった。門は目前だった。
振り返る道哉に、彼女は言った。「わたしも、勇気がほしいんです」
「一花ちゃん?」目を落とす彼女を促して続ける。「相談したいことって、言ってたよね」
「あの……これなんです」一花は袖口から携帯電話を出して示した。
何の変哲もないWIREの画面だった。一花のプライベートを覗き見ることはためらわれたが、そこにアップロードされていた画像に道哉は絶句した。
島田雅也だ。
着衣が乱れ、腹や太腿には痣のようなものが見える。写真の中の彼は、下半身を露出させられていた。
「いつだ」
「……三日前です」
十分な時間があった。人のWIREを好き勝手に覗き見ているはずの羽原紅子は何をしていたのか――と考え、他でもない道哉自身が、一花の個人情報を覗き見ることはやめろと紅子に厳命したことを思い出した。
島田が望んでこんなことをするはずがない。それは一花だってわかっているに違いない。相談しようにも言葉が見つからないのか、彼女の長いまつげは伏せられていた。
「誰にも見せてないね?」
「当たり前ですっ!」顔を上げて道哉を睨み、そしてすぐに伏せる。
「島田は、どうしてる」
「部活にいらっしゃいません」
「……そうか」
「道哉さん。わたし、どうすればいいんですか? こんな、こんなこと……」
「許せない」と道哉。「なら、あいつとちゃんと話してほしい。一花ちゃんだって、あいつは好きでこんなことするやつじゃないって、わかるよね」
「でも、どうしてこんなっ……」
いつも笑顔を絶やさない榑林一花の表情が歪む。怒りと悲しみ。そして無力だろうか。幼い頃から知っている従妹のこんな貌を見るのは初めてだった。一花にはいつだって笑っていて欲しかった。たまに半紙に『遺憾』と書いて送ってくるのが、彼女にとって一番の苦しみであって欲しかった。
ふと、片瀬怜奈のことを思い出した。
あまり情緒豊かなタイプではないし、むしろ生まれてこの方募金箱に一銭たりとも入れたことがないと豪語しそうなのが、片瀬怜奈だ。だが、彼女も、野崎悠介の同じような写真を送りつけられた。
昼休みの彼女は、何かを言いかけていた。
根拠もなく、片瀬怜奈はうろたえたり人に弱みを見せたりしないと道哉は思い込んでいた。だがもしかしたら、彼女も話したかったのかもしれない。あの斎場で、制服のままのクラスメイトに混じってひとりだけブラック・フォーマルを着こなしていた彼女は、話し相手を探していたのかもしれない。
何もできない人にできるのは、無力を慰め合うことだ。慰め合わなければ、何もできないことを受け入れられないから。
少し落ち着いた様子の一花が口を開いた。「どうして、こんな酷いことができるんですか?」
「正気だからだ。他人を不幸にするやつらってのは、いつだって正気なんだ」
「じゃあ気にしないのが正気だ……普通だっていうんですか!?」
「俺はね、一花ちゃん。一花ちゃんは、ちょっとだけ変わった子であってほしいと思うよ」
一花は毒気を抜かれたように頬を膨らませる。「どういう意味ですかあ」
「正気の先にある幸せは、まやかしなんだ」
「まやかし……?」
「島田のことは俺に任せておいて」道哉は、不安げな一花の頭を撫でた。「後は俺が何とかする」
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