⑫
*
元木拓海は家路を急いでいた。
アルバイト先のファストフード店で、先輩の愚痴に付き合っていたらいつもより遅い時間になってしまったのだ。この間の合コンで知り合った女の子と次はやれそうだから、シフトを変わってくれという相談だった。いや、相談とは名ばかりの強要だ。
まじ、うぜー、と声に出てしまう。
少しばかり年上なだけで特に尊敬するところもない連中に、言うことを聞かされるのが腹立たしい。それも彼らが遊びたい、楽をしたいだけだという考えが透けて見える。
だが一方では、社会というものを知れている気もする。他の同級生たちは、仕事という義務を知らない。そこで生まれる上下関係も知らない。お前の知らない理不尽を、俺は知っているのだ、という思いは、元木拓海の胸に優越感を抱かせていた。
夏の訪れを予感させる夜だった。涼しいような、暑いような、どっちつかずの生ぬるい空気。もうすぐ期末試験があって、その後は夏休み。仲間と、九十九里へ海水浴へ行く約束をしていた。同じクラスの松井が、友達の伝手で都内の女子校のグループを連れて来てくれるのだという。
街灯しか明かりのない、住宅街の路地。
ふと、島田を連れて行ってみようかと思い立つ。島田雅也は童貞だ。女子とろくに話したこともない。そんな彼を見ず知らずの女子の前に放り出したらどんな反応をするのだろう。うろたえて硬直する小柄な背中が目に浮かぶようで、元木はひとり、抑えた笑いを上げた。
そうとも、慈善事業のようなものだ。
島田とはどう見ても縁のない世界。それを教えてやる。授業料として、存分に笑わせてもらう。最初は誰だって、失敗して学ぶのだ。
俺、やっさしー、と声に出てしまう。
明日の朝、松井に相談してみよう。
そう思った時、携帯電話が鳴った。
画面に目を落とした元木は、悲鳴を上げた。
――野崎悠介が生きている、という妙な噂が流れ始めたのは、数日前だった。
始まりがどこなのかは誰も知らない。ただ、どこからともなく、WIREに怪談めいたものが流れてきたのだ。
曰く、自殺した彼に辛く当たっていた生徒Sの元に、黒黒とした亡霊のような人影が現れた。
特に何かされたわけではないが、亡霊を目撃することが続き、気味悪く思ったのだそう。自殺した野崎のことに思い当たったからには、少なからず、Sにも罪悪感があったのだろう。
自殺した人間は、記憶を残している場所を辿るという話も聴いたことがあった。だが、同じ学校に通う生徒だったのだ、野崎の行動範囲を避けるにしても限度はある。少なくとも、駅と学校は避けられない。
電車に衝突してばらばらになった野崎の肉片を、誰かが寄せ集めて包帯で巻いた。
肉塊は蘇り、再び自分の足で歩き始めたが、ゾンビか何かのように意識がない。
その野崎だったものは今、自分の痕跡を探し求めている。そしていつか、自分が死んだ理由、自分を死に至らしめた者たちのことを思い出すだろう。
その前に――。
そんな噂も、Sは鼻で笑っていた。
だがある日、駅のホームで電車を待っていると、不意に背中を強く押されたのだという。危うくホームから線路へ転落するところだった。慌てて振り返ると、背後には仕事帰りのサラリーマンや同じ制服を着た生徒、どこかの大学生など、ごくありふれた人々しかいない。
冷静さを取り戻しかけたSは、足元に黒いものが落ちていることに気づいた。
それは包帯だった。タールののようなものでてらてらと黒光りしていた。
同時に、Sのポケットの中で携帯電話が震えた。WIREの着信だった。発信者は、死んだはずの野崎のアカウント。
ミツケタ。
そう書かれていたのだという。
――くだらない怪談だ。
元木も笑い飛ばしていた。最初にその話を聞きつけてきたのは、確か、高橋だったと記憶している。しかし、WIREで流れてきたのに肝心のその文章は消えてしまったのだとか。ますます眉唾ものだ。
だが今、元木の携帯電話は、死んだはずの野崎悠介からのメッセージを受信している。
違う違う、ないない、などと早口に呟きながら、画面を恐る恐る確認する。
メッセージは、カタカナ四文字。
呼吸が知らぬ間に早くなっていた。
周囲が真っ暗なことに強い不安を覚え、足早にその場を後にしようとした。
すると、目の前の暗がりに何かがいることに気づいた。
どこからか、ノイズのような低周波音が聞こえる。暗がりが、蠢く。元木は目を凝らした。
軽やかな鈴の音が聞こえた。
暗がりから姿を見せたのは、一匹の黒猫だった。元木を睨み、うにゃあと鳴くと、首輪の鈴を鳴らしながらその黒猫は塀の上へ飛び上がり、そのまま向こう側へと消えた。
なんだよ、と声に出してしまう。
その時だった。
「見つけた」
背後から耳元へ囁かれ、元木は悲鳴を上げて飛び退った。
振り向けば、影をまとったような、男がいた。街灯で影になってその全容は見えない。フードを着けた頭部の中にある表情も。
いや、真っ黒だ。
フードの中に、影しかない。
揺らめき、蠢く、影だけが、フードの内側にある。
まっすぐに、尻もちをついた元木の方へ、その男は歩み寄る。
「野崎……?」
脳裏に浮かぶのは、くだらないと切り捨てた怪談話だった。
鉄道に飛び込んで自殺した野崎の肉片を、誰かが包帯で寄せ集めた。人の形になったそれは今、生前の彼の記憶が残っている場所に引き寄せられている。
記憶の形は様々。良い思い出、辛い思い出。そして、何よりも強く激しいのは、恨みだ。
自分を死に至らしめた者たちへの恨み。
何度瞬きし、目を凝らしても、男には顔がないようにしか見えない。まるでペンで塗り潰したようだ。
胸倉を掴まれる。引き寄せられる。男の顔面が、目の前にある。
それは、真っ黒な包帯に包まれていた。
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