⑩
まずは顔を隠すんだ、と紅子は言った。
「東京オリンピック以来、都内はどこも監視カメラだらけだ。画像処理技術が向上して顔認証だって精度・速度ともに天井なし。法整備もとうの昔に済んでクラウドに飛んでった監視カメラのデータを警察は押収できるから、顔を見せたら絶対に足がつくと思え。その点、君は素晴らしい」
休日、場所はやはり情報実習室と工作室の間の準備室、部屋の中には道哉と紅子のふたりだけ。他の部員は休日に学校へ出てくるほど生真面目ではないとのことだった。
「それで、これか?」と道哉は首を傾げた。
よく銀行強盗の類が被っている黒い目出し帽を、道哉は前後逆さまに被っていた。前が見えない。だが後頭部が少し開いている。妙な気分だった。
紅子が机の上に置いてあったレンチを取って、投げる。道哉はそれを片手で受け止める。見えていなくてもその動作が特に意識せずに行えたことに驚いた。自分にこんな力が身についていたと、知らなかったのだ。
一真との訓練の成果なのか。あるいはどんな人間にも眠っている能力だが、誰も気づかないだけなのか。
「物理的に顔を隠すというのは有効な手段なんだ。お前はこれから、怨恨も何もない相手へ暴力を振るうことになるんだから。まあ、最初はともかくな。幸い君は体型もごく標準的だ。匿名性の強い衣服で身を覆ってしまえば、誰も憂井道哉とは気づかない」
「そんなものかな」
「誰かがやらねばならんのだよ」
「まあ、いいか。やると決めたんだ。肚はくくるさ」
「しかしその後頭部はいただけんな。縫うか?」
「隠そうか。例えば……」道哉は左右を見回し、フード付きのパーカーを手に取った。部員のものなのだろうか。「どうだ?」
「そうだな……黒がいいな」
「買いに行こうか」道哉は目出し帽を脱ぐと、メモに一行を書き足す。
紅子はというと、スケッチブックに何かのイラストを描きつけている。衣装デザインのようだった。自分であると悟られなければ何でもいいが、紅子には紅子なりの考えがあるらしい。全身あちらこちらの採寸もされた。
「いい筋肉をしているな、君は」
「セクハラだぞ」
「そういうものか」紅子は首を傾げる。
彼女が言う目隠しの効果は、正直わからない。
だが、自分に手枷足枷を嵌めるべきだとは感じていた。紅子の言うどす黒い怒りというものは、きっと理性の歯止めを取り去ってしまう。格闘術を学んではいたが、誰かに怪我を負わせたのは生まれて初めてだった。
ついで紅子はタブレット端末を机に立てる。画面には、どこかからの空撮映像が表示されている。揺れ具合を見るに、例のドローンだ。
しかし、写っている人物を見て、「おい、羽原」と思わず口にする。
「一花ちゃんじゃねえか。今すぐやめろ」
「いいじゃないか、向こうも気づいていない」
「お前な……」
「Linuxの動くシングルボードコンピュータにカメラと無線を繋いでドローンに積んでるのさ。帯域はやや違法だが、まあいいだろうさ。障害物なしなら二キロ先までリアルタイムで受信できるぞ。これは録画だが」
「録画かよ」
「よく見ろ、制服だろう。それにしても制服でスーパーマーケットへ行く女子高生というのは劣情を掻き立てるな。おい憂井、ネギだぞネギ。一五歳の女子高生がスーパーマーケットでネギ買ってるぞ」
「真っ先にお前を警察に突き出すべきな気がしてきたよ」
「公共の場で個人が個人利用を目的に映像を撮影することの何が悪い」
「何でもいいが、今後一花ちゃんのことを撮るのはやめろ」
「まあ落ち着け、落ち着け」
「落ち着けるか。WIREの覗き見もやめろ。俺はいいが、一花ちゃんは駄目だ」
「わかったから。ともかくだ」紅子は今度はノートPCを開く。「これに画像処理をかけてみるぞ。そら」
画面が買い物袋を下げた一花にズームインし、顔面をワイヤーフレームが覆う。そして数秒後、ノートPCの方に、一花のWIREアカウントが表示された。
「何だこれ。どうやったんだ?」
「ドローンの撮った映像から顔認証をかけ、WIREに投稿されている画像の中から一致するものを検索した。さらに自撮りを抽出するスクリプトを組んで、他人が撮った彼女の写真を除いた。別に画像のソースはドローンだけじゃないぞ」
「というと?」
「監視カメラだよ。警察が設置したようなものならともかく、自治体や町内会が主導したものだと無線のセキュリティが酷いものでな。まだ開発中だが、ゆくゆくは近場の侵入容易な監視カメラを表示しワンタップで侵入するアプリを用意するつもりだ」
「そんなもの作ってどうするんだ」
「ひとつには警鐘だな。用いているハードウェアがどんなものか、検索すればすぐわかってしまうような設置、下手すれば本体に規定のパスワードが書かれているようなものまである。脆弱性の塊なんだよ。世の中には脆弱性を突くことをライフワークにしているような変態もいるし、その変態が見出した情報を有効活用するやつもいる。インターネットに接続させるという意味をわかっていないのさ」
「何というか、簡単に言うと、ハッキングだな?」
「大雑把だな君は。正確ではないが間違いでもないぞ。要するに、街中に私の目があるということだ。そして君をサポートする。私が標的を見つける。君が叩く。監視カメラでカバーできなければドローンを飛ばす。必要な道具を届けることもできる。逃走経路だってアシストしてやる」
「大げさな。そんなことを……」
「しなくてもいいと? 寝ぼけたことを言うな。島田ひとりを助けられればいいわけじゃないんだろう。野崎の仇討ができればいいわけじゃないんだろう」
「そんな言い方はするなよ」
「そうか。そうだな。謝るよ……っと」紅子はPCの画面を確認すると、にやりと笑った。「網にかかったぞ」
「網?」
「監視カメラ網を監視しているうちの母艦PCが連中のひとりの顔を掴んだ。行くぞ」
「行くって?」
「偵察だよ。お前の戦う相手がどんな日常を送っているのか、気にならないか?」
「……俺は、いい。下世話なパートはお前に任せる」
「島田も一緒にいるようだが」
それならば話は別だった。
場所は市内のアミューズメント施設だった。店内でのトラブル防止のために店側が監視カメラを設置していたが、費用を惜しんだのか警備会社等のシステムとは連動しておらず、あくまで店内の警備室から監視のみを目的としていた。その分セキュリティは甘く、紅子曰く開発中だというシステムでも容易に侵入することができたのだという。
学校から歩いても行けないことはない距離だったが、紅子のバイクで二人乗りして現場へと向かった。
オフロードにしては近未来的で、だがいわゆる近未来的な流線型からもかけ離れているそのスクーターは、彼女曰く、五年ほど前に展示会に出展されたシティ・アドベンチャー・コンセプトの市販モデルなのだという。
目的の施設に入ると、アーケードゲームやスロットのけたたましい音が四方八方から降り注いでくる。あまりこういう場所に慣れない道哉は居心地が悪かった。
彼らは、リズムゲームの筐体の前に陣取っていた。あちらの目線に交差しないよう、背後のクレーンゲームに陣取り、ガラス越しに様子を伺う。佐竹の姿はない。松井を始めとする、格闘技に長けているわけではないメンバーが集まっている。
話し声が、途切れがちだが聞こえる。負けたら罰ゲーム、その内容は、髪を染めること。よく見れば、染髪料の類の箱が、筐体に置かれたドラッグストアの袋から透けて見える。
紅子はおもむろにクレーンゲームへ硬貨を投入する。「すごい目で見るな。怪しまれるぞ」
「すごい目?」
「殺さんばかりの勢いだ……ひとまず、遊べ。これもまた、ロボット技術の産物だ」
「確かに、ロボットアームだけど……」道哉は思わず首を傾げる。
「やってみろ、ほら」
「どうやって動かすんだ」
怪訝な顔の紅子。「もしかして、クレーンゲームというものをやったことがないのか、君は」
「ないけど」
「君は一体どういう人生を送ってきたんだ……」
「悪いか」
「悪いね。もっと楽しいことを覚えたまえよ。その尊さをいつか誰かに説くためにな」
無理に手を取られ、ボタンを押す。クレーンが水平移動する。ここだ、と紅子に主導されてボタンから手を離す。胸の中に潜りこまれてしまうほどに、紅子の身体は小さい。指先から体温が伝わる。この女はロボットじゃないのか、と今更の感慨に浸ってしまった。
もう一つのボタンを押すと垂直方向へ動くのだ、あれを狙えと紅子に説かれる。
よく知らないキャラクターのぬいぐるみだ。取れたとして、バイクの紅子がどう持ち帰るのかは興味がある。
押す。タイミングを見計らって、離す。クレーンは空振りする。
その時、リズムゲームの前で歓声が上がった。乾いた顔ではにかむ島田と、彼と乱暴に肩を組む松井たち。漏れ聞こえるやり取りから察するに、島田はゲームに負けた。罰ゲームだ。
仲間の一人がドラッグストアの袋を携え、一行は施設の隅にあるトイレへと向かう。袋から、ひとりが何かを取り出した。
「おい、憂井。あれ……」
「何だよ。俺は髪を染めたこともないぞ」
「違う。見ろ。あれ、墨汁だ」
自分の顔色が変わるのがわかった。
荷物持ちにされているらしい2組の連中のひとりが、手に墨汁を携えている。会話が聞こえる。「島田くん白髪多いよねー」「逆によかったんじゃね? 島田くんも白髪は嫌だろ?」「だけど、でも……」「えー? 染めてやるって、遠慮すんなよ」「松井マジやさしー」「登ろうぜ、大人の階段ってやつ」「染めるだけだろ? 俺中3の時から染めてるし」
半ば衝動的に飛び出していこうとした。
すると、紅子に腕を掴まれた。
「待て。今は、まだ動くべき時じゃない」
「何だと?」
「怖い顔をするな。今動いても、君が暴行傷害で捕まるだけだ」
「じゃあどうしろと、黙って見ていろとでも?」
「その通りだ。黙って見ていろ」言葉を失った道哉へ追い打ちをかけるように、紅子は続ける。「まずは、敵を知れ。君は、いじめられているいじめられていると言っても、具体的に何をされているのか、知らないだろう」
島田の背中が角の向こうに消える。紅子は携帯端末の画面を示す。侵入したらしき、男子トイレの洗面台付近を映す監視カメラの映像だった。
ひとりが洗面台に水を貯め、もうひとりがそこへ墨汁を流し込む。黒々と染まる液体。そこへ、松井が島田の頭を掴んで沈める。数を数えているらしく、周りが手を叩いている。いーち、にーい、さーん、しー、ごー、島田の頭が浮上する。
黒い雫が島田の髪から滴る。ひとりが、島田の着ていた黒いTシャツを脱がせた。そしてまた、墨汁の海の中へと島田は沈む。Tシャツは、汚れた床を拭くのに使われている。
「目を、逸らすな」と紅子が告げる。
繰り返し、繰り返し、島田の頭は墨汁の中へと浸される。しばらくして水が抜かれ、今度は蛇口全開で髪の墨汁を洗い流されている。
道哉は、拳を握りしめて口を開く。「お前は、こんなものをずっと見ていたのか」
「ああ。君の何倍も。私はずっと、見てきた。だから私は、君のような人間を求めていた」
「叩き潰す、力を持っている人間を?」
「そうだ。だから、ここで、一時の激情に任せて台無しにするわけにはいかないんだよ」
しばし、携帯電話の小さな画面に映る監視カメラの映像を睨んでいた。
彼らがトイレから出てくるまでずっと、道哉は画面を睨んでいた。
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