翌日も、翌々日も、ロボット研究会の部室に道哉が足を運ぶことはなかった。

 代わりに、週末には榑林の家に顔を出した。真っ先に、一花に釘を差した。

「怪我のこと、一真さんには黙っておいてもらえる?」

「でも……」と藍染めの浴衣姿の彼女は案の定渋った。

 左腕の怪我を見るやいなや、彼女は道哉を引きずるようにして座らせ、救急箱を持ち出した。持ち前の無精で、保健室で手当をしてもらってから包帯も湿布も換えていなかったのだ。

 道場を持つ家の生まれなためか、一花の手当はそつがない。当日に巻かれたよりも、包帯は左腕にしっくり馴染んでいた。ふと、あの時の包帯は羽原紅子が巻いてくれたのだろうかと思い当たった。思いやりには絶対に欠けるが、手先は器用そうに見えた。

「もしかして、島田先輩の件ですか?」と彼女は言った。「島田先輩と一緒にいた数人が、学内での喧嘩で怪我をされたって、噂になってます。先輩も、様子が変でした」

「様子って?」

「書に乱れが」

 島田とも一度話をしておくべきだ、と思った。彼があの時、角材を振り上げたことで悩んでいるのなら、俺は大丈夫だ、と一言伝えておきたかった。

「道哉さん?」道哉の左手を両手で包むようにして、首を傾げた一花が言った。「危ないことをしていませんか?」

「大丈夫だよ」と道哉は応じる。「一真さんに、余計な心配をかけたくないんだ」

 そう仰るのなら、と彼女は一応納得した様子だった。

 だが、勘のいい一真のことだ。盲でいても、彼に隠し事はできない。そもそも湿布の匂いで気取られるのではないかと思ったが、意外にも、その日の食事の間、一真は怪我のことに言及しなかった。

 気づかなかったのか、あるいは、気づいていても気づかないふりをしていたのか。真意を読み取らせまいとばかりに意味深な笑みを浮かべる一真が伏魔殿の主のように見えて、それ以上自分から踏み込んでいくことはできなかった。

 週明け、擦り傷の類があらかた塞がったころ、放課後を見計らって道哉は書道部が活動している教室へ向かった。目的はもちろん、島田に会うことだった。

 校舎の一階にある書道教室は、一年の頃に一度入ったきりだった。芸術の授業は選択制だったが、道哉は美術を選んでいた。

 扉を開くと、部員らの数名が、突然の闖入者である道哉へ怪訝な目を向けた。だがうちふたりは、顔を上げもしなかった。

 ひとりは、榑林一花。筆を手に、背筋をしゃんと伸ばして机に向かう彼女の横顔は、いつもの穏やかさが勝つ彼女とは違って、凛として涼やかだった。

 そしてもうひとりは、島田雅也だった。

 彼は、瞬きもせず呼吸も止まっているかのような一糸乱れぬ運筆で崩し字を綴り、筆を置くと大きく深呼吸した。その姿に、道哉は目を奪われた。小柄で、いつも自信なさげに背を丸めている彼が、何倍も大きく見えたのである。

 島田がようやく顔を上げたのを見計らって、道哉は「島田」と声をかけた。「ちょっといいか?」

 顔を見合わせ何事か言い交わす部員たち。「道哉さん」と言って顔を綻ばせる一花。

 そして当の島田は、何も言わずに立ち上がった。

 そのまま道哉の脇を通り過ぎる。待てよ、と声をかけても耳を貸す様子もなく、致し方なく道哉もその場を後にする。

 島田は大股でどんどん歩き続ける。奥まった書道教室からグラウンドを横に見ながら渡り廊下を通って本校舎へ。職員室の前あたりで、道哉は彼の肩を掴んだ。

「おい、待てって」

「僕に構わないで」と島田は言った。「迷惑なんだよ」

「迷惑だって、構わない。お前、あいつらのことどう思っているんだ」

「友達だよ」

「友達? お前に暴力を振るうやつが友達か?」

「うるさいな! 憂井には関係ないだろ!」

 肩を振り払われる。島田は、背を向けたままだった。その、若白髪が目立つ後ろ姿が震えていた。

 道哉はしばし押し黙ってから、口を開いた。「これで、俺は金輪際お前に関わらなくてもいい。本人が、彼らは友達だと言っている。俺のことは、迷惑だと言っている。本人がそう言ってるんだから仕方ないよな」

「そうだよ。僕に構わないで」

「じゃあ俺は、お前の友達じゃないのか」そう言うと、島田は振り返った。道哉は続けた。「また漫画貸してよ。あの、電子版だと端が切れてるから、昔出たコミックスじゃないとだめなやつ。久々に読みたくなった」

 島田の顔が、ほんの一瞬だけ輝いたように見えた。

 だがすぐに、表情を曇らせて言った。

「あれなら、松井くんに貸したままだから。半年前に。だから貸せない。ごめん」

「返してもらえよ」

「そんなの無理だ」島田は、絞り出すように言った。目には涙が溜まっていた。「あの判型はもう絶版なんだけどなあ」

「島田」

「ありがとう」

 島田は笑って走り去った。無理矢理の笑顔だった。

 追いかけられなかった。

 羽原紅子に胸元を指さされた時の感覚が蘇り、道哉は、自分の制服の胸を掴んだ。この内側で、確かに渦巻いている怒り。どこかへ向けて解き放たなければ、おかしくなってしまいそうだった。

 でも、どうすることもできない。ずっと島田くんを助け続けるのか、という榑林一真の言葉が、頭の奥で反響していた。そして、紅子に向かって投げつけた、自分自身の言葉が。

「憂井?」と後ろから声をかけられて我に返る。

 チノパンにジャージの2組担任、有沢修人だった。

「何ですか、わざわざ」

「声が聞こえたから。お前と、島田の」彼は職員室の方を顎で示した。

 しばらく有沢の様子を観察してから、道哉は応じた。「先生、気づいてますよね、あいつのこと」

「……様子がおかしいことは」

「俺は、信じたいです。正しい方が強いって。それとも、そうとは限らないことを学ぶための学校なんですか? 集団生活なんですか?」

 すると有沢は、道哉の左腕を掴んだ。「それで殴って殴られて、また怪我をするのか。次も怪我で済むのか?」

「あんな奴らなんかに……」

「お前だけじゃない、彼らもだ」有沢教諭は、いつになく険しい顔だった。「打撲、捻挫、骨にヒビが入ったやつもいる。次にそんな私闘みたいなことをしたら、先生だって、生徒同士の問題だからと見過すわけにはいかないんだよ」

 道哉は腕を振り払う。背丈も力も大して変わらなかった。「じゃああなたが何とかしてくれるんですか!? そんな正論ばっかり言って!」

「学校は、誰もにとって楽しい場所じゃない。でもお前が島田の友達でいてくれれば、それでいいと先生は思う」

「それが正しいんですか? 正論かもしれないけど、正しいんですか!?」

「その答えは誰かから教わるんじゃなくて、お前自身が学ぶものだ」

 気色ばんで言い返そうとして、言葉に詰まった。

 胸の中の熱がすぅっと冷めていくのを感じた。

 彼に何を言っても無駄だ。今自分は、扉が現れることを願って壁を叩いているのだと思った。あるはずもない答えを求めて、答えを求めることをしない男を問い詰めている。

 空虚な正論。答えを求めることからの逃避。そうやって成熟や大人を気取って悦に入る姿が、気持ち悪かった。

 なら、どうする?

 道哉は、「失礼します」とだけ言い残してその場を立ち去る。

 向かうのは、情報実習室と工作室の間にある部屋。

 扉を開けると、ぼさぼさの髪を適当にポニーテールのように括った、白衣の背中が目に入る。

 羽原紅子は、レンチを片手に振り返った。オーバルの眼鏡の下に輝くいたずら好きな子供のような瞳が、道哉を認めた。「やあ、遅かったじゃないか」

「考えがあると言ったな」

「……ああ、言ったな」

「お前は俺の扉だと言ったな」

「うん、言ったね」

「正義の味方は正義そのものではないと言ったな」

「ああ、言ったぞ」

「教えろ。俺は、どう戦えばいい」

「その言葉を待っていたよ、憂井道哉」

 羽原紅子は、心底楽しそうに笑った。彼岸に人を引きずり込む妖怪のような笑みだった。

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