翌日、道哉は調査を開始する。

 第一目標は、生前の野崎悠介がクラスでどんな日々を送っていたか、より詳細な情報を手に入れること。第二目標は、第一目標が果たされた後で定めることにする。

 登校すると、松井に「おはよう、憂井くん」と声をかけられた。

 人当たりのいい笑み。ヘアワックスの芳香が鼻につく。少し話しただけの相手にこうやって朝の挨拶をするほど人間関係を大事にするわりに、人の痛みには著しく無頓着。関り合いになりたくないが、今は貴重な情報源だ。

 おはよう、と返してから続けて言った。「今日もバスケすんの?」

 松井は言葉に詰まったようだった。答えは一拍置いてからだった。「やるよ。放課後はいつも」

「バスケ部でもないのに?」

「暇つぶしだよ」

 島田も一緒なのかを問うか問わざるか一瞬迷って、問わずにおいた。明らかに不自然だし、それを自然に聞き出せるほど、道哉は口が達者ではなかった。

 松井はそのまま高橋らに溶け込んでいく。少し目線を送られはしたが、怪しまれてはいないようだった。

 道哉は、野崎の死の真相は、2組でのいじめにこそあると仮定している。それは公然の事実かもしれないが、誰も口にしないし誰かを咎めることもしない。2組の佐竹と彼に従っていた者たちにしてみれば、痛くもない腹を探られることになる。

 無用の疑いであればそれでいい。彼らとトラブルを起こすことも、望むところではない。

 まずは手近な外堀――同じクラスの松井らから。そういう魂胆だった。

 次はどこを攻めるか。島田本人か、一花から変化球で情報を得るか、あるいは本丸の佐竹か。考えあぐねているとあっという間に昼休みだった。

 食事の場所も定まらないうちに、クラスメイトに声をかけられた。

「憂井くん、一年の子が来てるよ」

「一年?」

「ほらそこ」

 校則違反のマニキュアが塗られた指が差す先に、榑林一花がいた。

 道哉は席を立った。教室の入口の一花は案内してくれた女子生徒に折り目正しく頭を下げ、頬を膨らませて道哉に目線を向けた。室内からは、一花を知る生徒からの無遠慮な目線が飛んでくる。

 ひとまず場所を変えることにして、連れ立って校舎の中庭に出た。

 座る場所を見つける間もなく、一花が口を開いた。

「昨日はどうしたんですか」

「ごめん」

「わたし、どうしてたのかって訊いたんです」

 結ばれた唇に拗ねたような上目遣い。ちゃんと一言告げていくべきだったと、気づいた時にはもう遅かった。「家にいたんだ。ごめん、何も言わなくて」

「ごはんも支度したのに」

「ごめんってば」

「だから、ごめんじゃなくって……!」掴みかかるほどの勢いから一歩引いて、一花は続ける。「兄と何かあったんですか?」

 一花のことを、時々妙に勘がいいな、と感じることがある。人のことをよく見られる子だからか、あるいは、家族だから。

「ちょっと、喧嘩した」と道哉。

「じゃあ、仲直りしなきゃですね」一花は口元で手を合わせた。「だから、その……今夜とか、どうですか?」

「今夜か……」一真とは顔を合わせづらかった。「昨日の今日だから、ちょっと」

「そ、そうですよね」一花は髪に手をやって応じる。「昨日の、今日ですもんね。お兄ちゃん、人を突き放すようなところ、ありますから。ごめんなさい」

「一花ちゃんが謝らないで。俺もちょっと、頭に血が昇ったっていうか……」発話しながら、中庭の反対側にある人影に気づいた。

 島田雅也だ。そして周りには、松井を始めとする1組の数名と、見覚えのない、おそらくは2組の似たような雰囲気の生徒たちがいる。佐竹の姿はなかった。

「道哉さん?」と一花が首を傾げた。

「一花ちゃん、書道部だったよね」

「はい、そうですけど……」

「島田って二年生知ってる?」

「島田先輩ですか? よくしてもらっています。草書がお上手なんです。わたしは楷書中心ですから」

「一花ちゃんがそう言うなら、本当に上手いんだろうね」

「ええ。でも、わたしが見ていると、書が乱れるみたいです」

「乱れる?」

「よくわからないんですけど、緊張されてるみたいで」

 ふむ、と道哉は応じる。一花の一途な尊敬の目に晒されたら、普通の男子は緊張する。殊に島田雅也は、そのようなことにあまり慣れていないに違いない。

 呑気な方向へ流れそうになる考えを軌道修正して、道哉は尋ねた。

「彼、どんな様子?」

「様子……?」

 やはり首を傾げてしまう一花に、中庭の反対側を顎で示す。「ああいうの、いつもなのかな」

 一花は目を伏せた。「どうして、そんなことを?」

「訊いちゃいけなかった?」

「い、いえっ、そんなことは」今度は目を泳がせる。狙ってのことだが、ずるい訊き方をしてしまった。彼女は続けた。「悩んでいらっしゃるようでした」

「そりゃあ、悩むだろうね」

「ご本人は、触れられたがらないんです。でも時々、部活にいらしたときに制服が乱れていたり、ノートや教科書が破れていたり、病院に行くほどではない怪我をされていることが」

「嫌だね、そういうの」と道哉は応じた。

 おそらく、島田の前は、野崎悠介だった。

 同じことをされていたのだと思う。野崎が死んだから、島田に標的が移った。人を一人死に追いやっていても、その自覚がないか、自覚がない少数の強い人間に周りが流されている。その少数とは佐竹なのではないか――そんな空想が転がっていく。

 その時、後ろから不意に肩を叩かれた。

「よっ、憂井」

「片瀬?」

 今日は制服姿の片瀬怜奈だった。長身の彼女が小柄な一花と並ぶと頭ひとつほども大きい。「何してんだ、こんなところで」

「ご挨拶ね」

「昼食は?」

「嬉しいけど、人前で食事はしない主義なの、ごめんね」

「誘ってねえよ」

「ふぅん」険のあるかんばせが却って人を惑わせる、片瀬怜奈だけの表情で彼女は応じた。「ま、あたしも別に用はないんだけど」

「じゃあ何なんだ」

 すると彼女は急に顔を寄せて声音を潜めた。「佐竹があんたのことを話してた」

「佐竹が……?」

「何したのか知らないけど、目、つけられるよ」

「何もやましいことはしてないさ」

「この世に善も悪もないの。誰かにとって都合がいいか、都合が悪いか。それだけなのよ」ついっと顔を離して怜奈は言った。「不愉快なことに」

「不愉快?」

 彼女はそのまま中庭の反対側へ目線を向ける。そこに既に島田らの姿はなかった。「あいつら、殺してやりたい」

「物騒だな。何かあったのか」

「別に……」

「野崎のことか」

 狐のような彼女が、狐につままれたような顔で応じた。「あんた、鈍いんだか鋭いんだか、時々よくわかんないよね」

「俺にはお前が何を言っているのかわからない」

「愉快なことじゃないから」すると彼女は背を向けた。「じゃあね。あたしはこれでも、あんたのことは大好きだし心配もしているから」

「せいぜい気をつけろとでも?」

 怜奈はそれには応えず、「一花ちゃんも、ばいばい」と言い残すと肩越しにひらひらと手を振り校舎の中へと消えた。

 しゃんとした後ろ姿を見送ると、いつの間にか一花がうっとりした顔でため息をついていた。

「一花ちゃん、どうかした?」

「えっ? い、いえっ、その」白い頬を赤く染めて一花は言った。「片瀬先輩、素敵です……」

「素敵? あれが?」

 むっとした顔の一花。「あの……道哉さんと片瀬先輩って、どういうご関係なんですか?」

「ご関係って」首を傾げて道哉は応じた。「友達……ってわけでもないな」

「もっと親しいんですか?」

「いや、逆。でも、知人ってほど、よそよそしくもなくて」そのとき、道哉の脳裏に一つの言葉が閃いた。「同志、みたいな」

「同志?」

 怜奈とは、いつか道が交わる。今、やろうとしていることの先には、彼女がいる。そんな気がしていた。

 そして彼女の警告は、早くも翌日、現実のものになった。

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