④
榑林の家の最寄り停留所からバスに乗る。最近は、どの公共交通機関にも監視カメラが増えた。安心と居心地の悪さは表裏一体、と考えると、まるで街全体が学校になってしまったようにも思える。こんなに増えたのは明らかにオリンピックと、それと前後しての移民受け入れ政策実施と時を同じくしている。違う肌の色、違う言葉を話す人が、電車の中でも珍しくなくなった。かつては観光客。そして今は移民。
車両の中にまで設置された監視カメラは、とらえどころのない不安を反映しているのだろう。だから居心地の良さを切り捨ててでも安心を求める。どちらがよりよいのか、という問いに答えはない。
バスに揺られること二〇分ほど。住宅街から住宅街だ。徒歩でも榑林道場から一時間もあれば充分な距離に、道哉がかつて存命の両親と共に過ごした家がある。
頭上を警察のパトロールドローンが飛ぶ停留所から、歩くこと数分。
今時珍しい平屋の日本家屋だ。生活していた道哉には実感がなかったが、見る人が見れば近代建築史を語る上では外せない貴重な建物であるらしい。この家で過ごしたのは小学校五年生までだったが、時々訪れては父にお辞儀していた知らない大人たちが、取材に訪れた美術系雑誌の記者や、CM・ドラマのロケ地を求めるテレビ関係者だったのだと後に知った。
憂井、と表札に書かれた門扉を潜る。すぐ横にあるプレファブの建物に灯りを認め、道哉は引き戸を叩いた。
中から白髪の腰が曲がった老人が姿を現す。
「おや、ぼっちゃん。珍しい」
「ろくじい、久しぶり」と道哉。
「旦那様の書庫ですか?」
「ああ。入れる?」
「ぼっちゃんがいつでも帰ってこられるようにこの家を整えるのが、私の使命ですゆえ」老人は満身で微笑む。
倉持六郎というこの老人は、主を失った旧憂井邸の管理を任されている。道哉の両親が存命だった頃から掃除や庭木の剪定は彼に任せきりだった。
文化財としての価値がある建物だから、荒れるがままというわけにもいかない。憂井夫妻の死後、人手に渡そうと言う話も親族の間で持ち上がったそうだが、両親との思い出の場所を残したいという道哉の希望や、膨大な遺品の整理が容易いことではなかったため、道哉の成人までひとまず保留という扱いになっている。
簡単に言葉を交わすと、道哉は母屋に上がり、奥へ奥へと進む。新緑が茂る庭を一周する縁側を抜け、観音開きの扉を開けると、埃と時間の匂いがした。
道哉の父、憂井藤辰の書庫兼書斎だ。
八畳ほどの空間の両側に、天井までを埋め尽くす本棚。積み上げられた本は時代も判型もばらばらで、持ち主の乱読趣味を想起させる。中には相当数の稀覯本もあるらしいが、道哉にその価値はわからない。奥にはこじんまりとした文机があり、庭を望む丸窓が壁にくり抜かれている。更に奥には縁側へ通じる障子戸。そこを開けると、庭の隅っこに陣取る蔵への小路だ。
適当に本を一冊手に取ると、その障子を開け放ち、道哉は文机に陣取った。
時々、ここへ来る。
前回は、高校二年生になった時。その前は、ひとりで過ごした十六歳の誕生日。その前はいつだったろうか。
机の上に写真がある。道哉がまだ幼い頃の、家族写真だ。父がいて、母がいて、道哉がいる。撮影者はろくじいこと倉持六郎。たしか、小学校三年生に進級した日だった。
墓や仏壇よりも、ここにこそ父の魂が残されているような気がして、報告したいこと、相談したいことがあるたび道哉はこの書庫を訪れる。写真に向かって、道哉は呟いた。
「親父なら、どうする?」
父は優しい人だった。授業参観のとき、同級生の両親よりずいぶんと年嵩であることに驚いた覚えがあった。他の父親など知らないからだ。
道哉が生まれたのは、父が五十三歳のときだ。当時母はまだ二十代だったというから驚かされる。ほとんど孫にも近い一人息子の道哉を、父は、人の言葉を借りるなら「目に入れても痛くない」ほど溺愛していたのだという。よく、この書庫にも入れてもらった。そのためか、学術書や実用書、論文のような本、古典文芸が並ぶ書棚の中に、ときおり明らかな児童書が混じっている。
そして、五十を過ぎた男が読むには青すぎる哲学や小説の本も。
以前に倉持老人が、「旦那様が、ぼっちゃんが大きくなったら読ませるためにと揃えられたんですよ」と言っていた。
息子がここに通い詰める未来を、父は予見していたのだろうか。あるいは、通い詰めてくれればいいな、と願っていたのだろうか。
そんな底抜けに優しい父に、一度だけひどく叱られたことがあった。
庭の隅にある蔵に、立ち入ろうとしたときだ。
あのときばかりは、温厚な父が普段見たこともないような形相になったことを覚えている。掴まれた肩の痛みを、今でも思い出せるほどだ。
普段温和な人間から覗く別の顔ほど、恐ろしい物はない。
表情がわからないのだ。まるでのっぺらぼうを見ているかのように。理解というものの一切を拒絶するほどの激しい怒り。あるいは、怒りとは全く別の、筆舌に尽くし難い恐るべき感情。
それは蔵に立ち入った時の父の顔であり、底知れぬ技の片鱗を見せた時の榑林一真であり、そして、一階で羽交い締めにされた同級生に向かって三階からボールを落とそうとする佐竹の浮かべていた薄ら笑いだった。
人間は誰しも、相互に理解し合うことなど絶対に不可能な暗黒の領域を、心の中に抱えているのではないか。
続きの間には浴室や簡単な炊事や寝泊まりができる場所がある。父の、趣味だ。家族とは別のプライベートな生活空間を確保したがったのだという。保存食のたぐいは倉持老人が用意してくれている。今日はそれで済まそうか、と思い立ったときだった。
携帯電話が鳴った。WIREというメッセージアプリの着信音だ。道哉はこだわりと多数派への反発から中学校を卒業するまで携帯電話を持たず、使い始めてまだ一年と少ししか経たないが、このアプリは数年前から老若男女を問わず広く普及しているのだとか。入れるように道哉に言いつけたのは、榑林一花だ。
送信者はその一花だった。
内容は、急にいなくなったことを咎めるものだった。今はそれを、見て見ぬふりをする。
まめで世話焼きな女の子だ。穏やかさの中に時折底知れぬ冷酷さを覗かせる兄とは違って、一花からは裏表を感じたことがなかった。あのたおやめぶりな瞳を翳らせていると思うと、ちくり、と胸が痛んだ。
しばらくすると、また一花からWIREで、今度は画像が届いた。
「何だこりゃ」と思わず呟く。
半紙に、思い切りは足りないが美しい筆で、大きく二文字『遺憾』と書かれていた。
そういえば、と道哉は思い立つ。
一花は学校では書道部の所属だった。中学の頃は賞を取ったこともあり、榑林家の母屋の一角には、兄の一真が喜んで並べた賞状・トロフィーのコレクション棚があった。
そしてもう一つ思い立つ。
島田雅人も書道部だった。
もしかしたら、一花なら彼の身の回りのことについて、何か知っているかもしれない。
「できることをやるだけだ」と道哉は父の写真に向かってひとりごちる。「できることをやるだけ。何も問題はない。そうだろ」
写真の中の父は、穏やかな微笑みを崩さない。
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